1 目覚め
「うわ、相変わらずとんでもねえな」
テネース・エウテュキアの横たわる窪地を、長大な大剣を背負った巨漢が見下ろしている。
呆れているようなそれでいて感心しているような男の嘆息が聞こえたのか、投げ出されたままのテネースの右手がぴくりと動いた。
「お兄ちゃん、そんなことに感心してる場合じゃないでしょっ」
巨漢に遅れてやって来た少女が、自らと同じ砂色の髪をした大男を見上げる。そして、返事も待たずに窪地を降り始めた。
足場は悪く、少女が足を置いた途端崩れることも少なくない。だが、緑の短衣の上の外套を翼のようにはためかせている少女は、まったく危なげなく窪地の底までたどり着いた。
「テネース、大丈夫!?」
ほんの一瞬頭上の兄を振り仰いだ少女は、小走りにテネースに近寄っていく。愛らしい顔はテネースに対する心配に歪んでいた。
少女の声に反応するようにテネースの右手が動くが、起き上がる様子も声を上げる気配もない。
あっという間にテネースの横に達した少女は、膝をつくと壊れ物を扱うような手つきでテネースを仰向けにした。
「テネース、あたしがわかる?」
うっすらと開かれたテネースの目は焦点があっておらず、少女のことを認識しているようには見えない。
それでも、テネースは小さく頷いた。
少女はその反応に小さく息を吐きながら、手早くテネースの様子を観察する。
痣はあちこちにあるようだが、目立つ外傷は額の切り傷くらいしかなかった。その傷にしても血はもう止まっているらしく、乾いて前髪にこびり付いている。
「頭、打ってない?」
心配そうな表情を浮かべたまま、少女はゆっくりとテネースの身体を起こしていく。
テネースは、再び小さく頷くことで少女に応えた。
「それじゃ、もうちょっと頑張ってね」
テネースの左腕を自身の肩に回した少女は、ゆっくりと立ち上がった。その右手はテネースの腰に伸ばされている。
「あれ?」
窪地へと降りてきた場所を振り仰いだ少女が、首をかしげた。窪地の縁に立っていたはずの巨漢の姿がなかった。
「ま、いいか」
小さく呟くと、少女はテネースを気遣いゆっくりと歩き出した。
テネースは少女に合わせるように足を動かしているのだが、まるで酔っぱらっているかのように足取りはおぼつかない。
「ほんとに大丈夫?」
足下とテネースとを交互に確認しつつ少女が訊ねる。テネースの返事は相変わらず首肯がひとつ。
テネースの言う悪魔退治の後はいつもこうだとはいえ、身体が保たないのではないかと少女は不安になる。だが、テネースは決して弱音も吐かなければ旅をやめようともしない。そして、大丈夫だという本人の言を体現するように、二日も休めばいつもの体調を取り戻す。
「今回のは、いつにもまして大きかったね」
必要以上に心配するとテネースが萎縮してしまうことは、二年という時間をともに旅したことで理解している。だから少女は、不安を押し殺してわざと明るい声を出した。
テネースが悪魔と呼ぶ存在は基本的にテネースにしか見えないらしい。実際少女の兄もまったく見えないと言っている。
だが、少女はぼんやりとした輪郭だけとはいえ見ることができる。その理由はテネースにもわからないらしいが、少女にしてみればただ見えるだけというのはじれったい。少しでもテネースの助けになればと得意の弓をもって協力しようとしたこともあるのだが、時にはイノシシすらも一撃で打ち倒す矢は悪魔を通り抜け飛んでいってしまった。
悪魔を倒しているのではなく浄化、吸収しているのだというテネースの説明を実感した出来事だった。それでも気をそらすことくらいはできるかと続けざまに矢を射かけたが、悪魔の注意はテネースからそれることは一度もなかった。
それ以来、テネースが悪魔を退治する時、少女は兄とともに安全な所でやきもきとして待っている。
それは、とても心臓に悪い時間だ。テネースが悪魔に殺されてしまうのではないかという不安が常につきまとうし、無事だったとしてもこうしてボロボロになった姿を見なければいけないのだから。
思考がふらふらとさ迷いながらも、少女は着実に窪地を登っていた。崩れやすい斜面を、うまく歩けないテネースに肩を貸しながら上っているにもかかわらず、危なげはまるでない。斜面が崩れる頃には、もう次の足場へと移っている。
とはいえ、斜面を登り切った頃には少女の息も上がっていた。
「どこ行ったのよ?」
深呼吸を繰り返しながら、少女が眉をひそめる。窪地の周囲に兄の姿はなかった。
テネースに肩を貸したまま、窪地をぐるりと回って周囲の様子を窺う。
と、大きな穴を挟んで反対側に大剣を背負った人影が見えた。のんびりと、少女たちの方へと歩いてくる。
「あっちって、確か川があったっけ」
巨漢の背後に広がる木立の向こうには、流れの速い小川が流れている。
水でもくんできたのかしら。そんなことを思いながら、少女は兄の方へと歩き出した。
***
「ん……」
小さく息を吐いたテネースは、ゆっくりと目を開けた。
霞む視界に飛び込んできたのは、テネースを覗き込んでいる大きな翠色の瞳だった。
「おはよう」
翡翠色の瞳を持つ少女は、お互いの息がかかるほどの近さから顔を動かすことなく挨拶を口にした。
「お、おはよう、マリーカ」
あまりの近さに反射的にのけぞろうとするテネースだったが、地面に寝ているのだからそんなことができるはずもない。マリーカとの距離はまったく変わらない。
マリーカの顔の向こうには、青空が広がっている。日が傾き始めているのか、若干色が薄い。
「……ギュアースさんは?」
身を引くこともできず、かといって起き上がることもできないまま、頬を赤くしたテネースが訊ねると、マリーカはようやく身を起こした。
「今日の夕食を釣ってくるって川に」
そう言って、テネースから視線を外す。
テネースと同い年のマリーカは、あまり他人の容姿についてわからないテネースの目から見ても可愛らしい。頭の後ろでくくられた砂色の髪の先端は首の後ろで揺れている。外套を脱いでいるので、ほっそりとした体つきもはっきりとわかる。
上半身を起こしたテネースはマリーカの視線を追った。
新緑をまとった木々の向こうに川は見えないが、水が流れる音は聞こえる。
「あんまり期待できないね」
「いい加減釣りが下手だって理解してもいいと思うんだけどなあ」
苦笑するテネースに返ってくるマリーカの言葉は容赦がない。
「僕、どれくらい寝てたの?」
「一日」
どちらからともなく視線をお互いの顔に戻す。
「早くもなく遅くもなく、だね」
『だね、じゃないでしょう。毎回毎回心配させないで』
マリーカのものではない少女の声が、テネースの脳裏に響く。
「好きで眠ってるんじゃないよ。目が覚めてからもしばらく調子悪いし、今回みたいに怪我したら痛いし」
拗ねたように唇を尖らせるテネース。その視線はマリーカの顔から胸元へと移っている。
とはいえ、マリーカの薄い胸を見ているわけではない。テネースの目は、マリーカの胸の前に浮かんでいる少女を映している。
ややきつめの美しい顔を飾っているのは腰まで届く滑らかな銀色の髪。均整の取れた女らしい身体を覆っているのは、青と白を基調とした長袖のシャツと長いスカート。
宙に浮かんでいる上、身長がテネースの肘から指先までと同じ程度しかないということを除けば、とびきりの美少女だった。
『いい加減慣れてもいいのに、って言っているのよ』
腰に手を当てた少女は、やれやれとでも言いたげに首を振る。
「そんなの、僕のせいじゃないよ」
「またアリスにお説教されてるの?」
テネースの視線の先、自分の胸元を見ながら、マリーカが笑う。
「う、うん。いい加減慣れろって」
恥ずかしそうにうつむいたテネースが、もごもごと答えた。
アリステラ・ストルートス。それが、テネースに向かってため息をついた少女の名前だった。そして、テネースが今こうして旅をしている原因の大部分を占める少女の名でもある。
「あたしもアリスと話してみたいなあ。気が合うような気がするのよね」
テネースの目には細部にわたってはっきりと見えるアリスだが、他の人間にはまったく見えない。だが、テネースの知る限りただ一人、マリーカだけは例外だった。マリーカは、ぼんやりとした人型の光としてだが、アリスのことを認識している。
しかし、朧な姿を見ることができるだけで、会話をできるわけではない。中途半端に見えるせいで余計に話したいという欲求が募っているらしいが、今のところマリーカの希望が叶う様子はない。
『ほんとにおかしいわね。そろそろ量は十分なはずなのに、安定しないなんて』
「量ってなんの話?」
腰に当てていた両手を組み首を傾けたアリスに、テネースは信頼に満ちた視線を向けた。
『なんでもないわ。テネースは心配しなくていいの』
「そうやってすぐのけ者にする。どうせ僕に関係のあることのくせに」
テネースははっきりと不満を表明し拗ねてみせるのだが、アリスはにっこりと微笑むだけで何も言おうとしなかった。
「あたしはもう慣れたけどさ、テネースとアリスが話してるところを見たら、頭がおかしいって言われるのもわかるわ。そりゃ異端審問官にも追われるわね」
「人前ではアリスと話さないように気をつけてたよ」
それでもテネースは異端者として教会に告発された。それも、実の両親によって。
大陸にただひとつしか存在しない宗教は、名前を持っていない。必要がある時はただ教会とだけ呼ばれる。神の恵みが大陸の隅々まであまねく満ちている世界において、教会は権威、権力とも他に及ぶもののない規模で君臨している。そして、二千年近いその歴史の中で一度も教義の違いによって分派したこともなければ、その地歩が揺らいだこともない。
そんな強大な組織から、テネースは異端者として追われている。
物心がついた時からよそよそしかった両親は、二年前、十三歳を目前にしたテネースを異端者だと教会に告発した。
両親から嫌われていることは理解していたテネースだったが、まさか異端者として教会に引き渡されるほど嫌われているとは思ってもいなかった。呆然としているうちに異端審問官に拘束され、生まれ故郷の町を連れ出された。
アリスは必死になって逃げるよう言っていたが、テネースはどうやって逃げればいいかわからなかったし、逃げた後どうやって生きていけばいいのか想像すらできなかった。
そんなテネースを救ったのが、マリーカとその兄ギュアースのクヴェルタ兄妹だった。彼らはテネースを助けただけでなく、その後もこうして一緒に旅をしていた。
「ギュアースさん――マリーカもだけど――、いつまでも僕と一緒にいていいの? 僕みたいに助けた人たちをまとめた組織のリーダーなんでしょ?」
「気にしないでいいわよ。お兄ちゃんがいてもいなくても変わらないし、あたしはテネースと一緒にいると楽しいし」
「その通り! 俺もマリーカも好きでおまえと一緒にいるんだから、気にする必要はないぞ」
「お、お兄ちゃん!?」
突然響き渡った大声に、マリーカが腰を浮かせる。テネースは声を上げるどころか凍り付いたように固まっている。その表情には恐怖が張り付いていた。
『そこまで驚くことじゃないでしょうに』
アリスが深々とため息をついたが、テネースは反応しなかった。
「ったく、いつまで経っても気が小せえなあ」
苦笑を浮かべたギュアースが、木立から姿を現した。背中にはテネースの身長と同じくらい長く、刃も鉄板のように肉厚な剣を背負っている。満足に抜けないからという理由で、鞘はない。右手には竿を持っているが、左手には何も持っていなかった。
「やっぱり釣れなかったんだ」
浮かせていた腰を下ろしたマリーカが、右目を細くする。
「川の流れがきれいすぎてな。魚の一匹もいやしない」
大股に近づいてきたギュアースは、嘆かわしいとばかりに肩をすくめた。
「魚がいる場所をきちんと選ぶのも釣り人の腕の見せ所でしょ。もっとも、お兄ちゃんの腕じゃどんなにたくさん魚のいる穴場でも、小魚一匹釣れないだろうけど」
兄の声に大げさに反応した照れ隠しか、マリーカの言葉はひどく刺々しい。
「もう身体はいいのか?」
テネースたちの近くまでたどり着いたギュアースは、背中の大剣を地面に放り投げ、竿は過剰なまでに丁寧に置いて妹の横に座った。
「はい。ちょっとだるいのと、あちこち痛いけどもう大丈夫です」
「その言葉だけ聞くととても大丈夫とは思えねえな」
そう言って豪快に笑ったギュアースは、砂色の髪と翠の瞳を別にすれば、あまりマリーカと似ていない。ほっそりしているマリーカと筋骨たくましいギュアースという違いだけでなく、鼻や口の造作も、共通点よりも相違点の方が多い。
もっとも、二人とも感情豊かで表情がよく変わるし、笑顔が人を安心させる魅力に満ちていることが、兄妹であることを雄弁に告げている。
『まったくよ。本当にもう大丈夫なの?』
ふわふわとテネースの目の前まで飛んできたアリスが、ぺたぺたとテネースの顔を触る――感触はまったくなかったが。
「本当に大丈夫ですよ。今すぐ……はちょっと無理かもしれないけど、明日からなら旅も再開できるし」
慌てて手を振るテネースのお腹が、小さく鳴った。
ギュアースの、マリーカの、そしてアリスの視線がテネースに集まる。
「ええっと――」
丸一日何も食べていないのだからお腹がすいたとしてもおかしなことは何もない。けれど、テネースは顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「何も釣れずにすまん」
「ほんとよ。お兄ちゃんがきちんと魚を釣ってきてくれてれば、すぐに料理できたのに」
そう言いながら、マリーカは自分の背負い袋を漁っていた。しばらくごそごそやっていたかと思うと、右手をテネースに差し出した。
「はい、これ。足りないと思うけどちょっとの間それで我慢してて」
その手には、干し肉の切れ端が握られている。
「でも、これマリーカの――」
「いいから。あたしはテネースと違って昨日から食べてるし。それとテネースの分を合わせればしばらく持つでしょ」
渋るテネースの手を取って無理矢理干し肉を握らせると、マリーカは傍らの弓と矢筒を持って立ち上がった。
「それじゃ、情けない兄に代わって大切な食料を確保してくるね。お兄ちゃんは火をおこしといてね。それくらいはできるでしょ」
一息にまくし立てると、マリーカは反論を待たずに川とは反対側の木立へと駆けていった。
「かがり火用意しとくから、でっかいの頼むぞ!」
妹を見送ったギュアースがテネースに顔を向けた。
テネースは、マリーカから受け取った干し肉をじっと見つめている。
「マリーカからの施しは受けぬ! とかいう主張でもないなら食ってやってくれよ。というか、食わないと間違いなくあいつは怒るぞ?」
微笑とともに口にされたギュアースの言葉に、テネースの頬が引きつる。怒った時の文言が聞こえたような気がした。
『ありがたくもらっておきなさいよ。栄養的にはどうかと思うけど、お腹がすいてるんでしょう?』
「……うん」
頷いたテネースは、干し肉を口へと運ぶ。
歯が欠けそうなほど堅く、口の中の水分を吸い取られてしまいそうなほど塩辛い干し肉が、不思議なほどおいしく感じられた。




