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4 石板

 テネースが猶予として与えられたのは、三日。

 最終日である三日目も、体感時間を信じるならもうほとんど残っていない。


 神がいつ時間切れだと書庫にやってくるかわからない状況で、テネースは充血した目を机上の本に据え、読み続けている。

 他の三人ももはや休憩を取るように言うこともなく、アリスのために本をめくる役と本棚から本を持ってくる役を、マリーカとイアイラが時々交代していた。


 歴代の神が書いた書物、歴史書、宗教書。目についたものは片っ端から読んできたが、手掛かりすらも得られていない。もちろんその分野の本すべてを読んだわけではないが、テネースの焦りをひどく煽るには十分だった。

 特に宗教書に関しては教会に伝わっていないような事柄に関する記述がないかと期待したのだが、そのようなものは一向に見つかっていない。

 神に寿命があり代替わりをするという事実は、イアイラが知らなかったように教会内でも知られていない。ごく少数の上層部は知っているのかもしれないが、少なくとも一般信徒や聖職者には知らされていない。


 だからこそ、事実と教会の人間の知識との乖離を埋めるような記述がないかと考えたのだが、今のところその期待は空振りに終わっている。


 ならばと世界創世の伝説や神の誕生にまつわる話を調べてみても、細かい部分で差異はあるが現在流布しているそれと大差ない記述しか見つからない。

 現在人間たちが神と呼ぶ存在は、遙か昔、人間が立ち入ることのできない場所を旅して過ごしていた。ある時休息を望んだ神は、身を休める場所として後に世界と呼ばれるものを創った。初めは殺風景だった世界も、神が自身の目を楽しませるために様々な自然を創り、動物を創ったため、非常に賑やかになった。

 神が十分に休息を取り、再び旅立とうと立ち上がったところ、その影の中から神と同じ二本の足で立ち、二本の腕を持つ生き物たちが生まれ出た。大きさこそ小さかったが、まさに神の似姿だった。

 長い孤独の時間を過ごしていた神は、自らが創り、自らに似た姿の生き物の生じたこの世界を終の住処とすることに決めた。地上を人間と名付けた新しい種族に明け渡し、自らはアビュドスの頂に居を構え、人間たちに祝福を授けている。


 元々はそういった伝説に疎かったテネースが暗記してしまうほど、同じような記述ばかりでうんざりしつつも、読むのをやめるわけにはいかないことが大きな苦痛になっていた。

 テネースはもちろんアリスやマリーカ、イアイラも諦めようとはしなかったが、それでも書斎が重苦しい雰囲気に沈み込んでいるのはいかんともしがたかった。


「テネース、テネース!」


 だから、突然上がったマリーカの興奮した叫び声に、机に陣取っていた三人が飛び上がらんばかりに驚いたのも仕方がないだろう。


「な、何。どうしたの?」


 思わず立ち上がり振り返ったテネースは、マリーカが一枚の石板を抱えて戻ってくるのを見て目を丸くした。


「それ、どうしたの?」

「本の間に挟まってたから、持ってきてみたの。本を読んでも知りたいことが載ってないから、本以外ならどうかなって思って。ちゃんと文字らしいのが彫られてるし。あたしには読めないけど」


 マリーカは石板をテネースに差し出しながら苦笑いを浮かべた。しかし、その目にはテネースたちが失いかけていた希望がきらめいている。


「石板まであるなんて、なんでもありね」

「さすがに石板があるなんて知らなかったわ」


 感心しているような呆れているような会話を聞きながら、テネースは石板を受け取った。

 ずっしりと重い石の感触が新鮮だった。


 マリーカは抱えて持ってきたが、大きさ自体は今まで読んでいた本の二ページを繋げた程度しかない。びっしり文字が彫られていたとしても、読むのにそう時間はかからないだろう。

 そう思って石板の表面に目を走らせたテネースは、すぐに眉をひそめる羽目になった。

 マリーカの言った通り、確かに文字らしきものが彫られている。だが、何が書かれているのかまるで理解できない。

 今までの本に書かれていた文字とそう変わらないように見えるのだが、意味がまったくわからないのだ。


「その表情だと、役に立つような内容じゃなかったみたいね」


 テネースの正面に立ったまま石板を覗き込んでいたマリーカが、テネースの顔を見て肩を落とす。


「あ、いや、何が書いてあるのかわからないんだ」

「え?」

「内容が複雑すぎてすぐには理解できないということ? 文字は今までのものと似てるみたいだけど」


 テネースの左肩辺りから身を乗り出すようにして石板を見たイアイラが呟く。

 その態度にマリーカは顔をしかめたが、すぐにテネースに視線を戻した。


「文字自体を読めないんです」


 困惑顔で答えるテネース。石板の文字がこの書斎に納められた書籍の文字とよく似ているのは、テネースにもわかる。だというのに、一文字たりとも理解できない事実は、テネースをひどく混乱させる。


「アリスはどうなの? テネースには読めなくてもアリスなら読めるんじゃない?」

「……駄目。わたしにもさっぱり読めないわ」


 定位置のテネースの右肩から石板を見下ろしていたアリスが、長い銀色の髪をなびかせ首を振った。


「テネース君とアリステラの二人が読めないとなると、この石板を読める人間は、少なくともこの場にはいないということになるわね」

「でも、なんでいきなり読めないものが出てきたの? ひょっとして、他の本も読めなくなってたりして」

「縁起でもないこと言わないでよ」


 マリーカがぽつりと漏らした言葉に、テネースは慌てて広げたままの書物に視線を落とした。


 なんの問題もなく読めた。神がアビュドスに移ってからの人間の軌跡が、随分たくさんの修飾語で語られている。


「大丈夫、読める」

「となると、ますますこの石板だけが読めない理由がわからないわね。アリステラは何か心当たりはないの?」

「わたしもこの書斎自体に詳しいわけじゃないけど、おそらく神の力を多少なりとも持っていないと、蔵書が読めなくなっているんだと思うの。だから、わたしやテネースは読めるけど、あなたやマリーカは読めない」

「なるほど。で?」

「この石板を読むには、神の力のほんの一部でしかないわたしや、テネースの持つ神の力では足りないんじゃないかしら」

「この石板の錠を開くには、テネース君とアリステラの持ってる鍵じゃ小さすぎるわけね」

「あくまでも推測だけど」


 困ったようにアリスとイアイラが視線を交わす。


「この石板の内容が知りたかったら、神様に協力をお願いするしかないってことよね」


 言いながら、マリーカがテネースの手から石板を抜き取る。


「まさかマリーカ」

「ここで石板を見つめてても仕方ないし、頼みに行ってくる」

「頼みにって、神様がどこにいるか知らないでしょ!?」

「捜して歩いてればそのうち見つかるでしょ。その間テネースは少しでも本を読んでおいて。ひょっとしたらまだ読んでない本の中に必要なことが全部書いてあるかもしれないじゃない」


 言った本人がいまいち信じ切れていないようではあるが、その発言自体は間違っていない。普通に生きていたらあり得ないほどの量を読んだとはいえ、それでも全体の五分の一にも届いていない。まだ読んでいない本に何らかの手掛かりがあっても不思議はないのだ。


「私が祈りとともに願ったらこの場に来てくださるかしらね」

「何とも言えないわ。あくまでも、今までと同じように神の代替わりを願っているから、仮に現れたとしても協力してくれるとは思えないし」


 マリーカと石板を見ながら首を横に振るアリスをじっと見つめていたイアイラが、小さく肩をすくめた。


「それでも、何もしないよりはましよね」


 そう言って、胸の前で手を組み目を閉じた。


「ほんとに聖職者みたい」

「聞こえてるわよ」


 マリーカの独り言にイアイラの眉がぴくりと跳ねた。


「少し静かにしていてね」


 イアイラが言った直後、その背後の空間が歪んだ。

 テネースは反射的にイアイラの手を掴み思い切り引っ張っていた。


「て、テネース君!?」


 イアイラの声が裏返るが、テネースの注意はイアイラには向かない。


 大きく広がった歪みが急速に小さくなり――消えた。その代わりに、アリスそっくりの少女が立っていた。


 アリスも含め、四人が呆然と、突然姿を現した神を見つめる。


 神は自分に注がれる視線を気にした様子もなく、無表情の仮面を張り付けたような顔をテネースに向けた。


「三日経った」


 短いがすべてを終わらせる言葉。神を除く四人が身をこわばらせる。


「ま、待って、待ってください。どうしても、どうしても読みたいものが残ってるんです。だから、もう少し時間をください」


 アリスと同じ澄んだ青い瞳がテネースを射貫く。

 感情らしい感情はこもっていないのに、テネースは思わず目をそらしたくなるような圧迫感を感じた。それでも、必死に神の目を見返す。


 神は黙ってテネースを見つめ、テネースも固唾をのんで返事を待っている。マリーカたちは口を挟めず、成り行きを見守っていた。

 長く重い沈黙が書庫を支配する。テネースが自らの呼吸音をうるさいと感じ始めた頃、ようやく神が口を開いた。


「わかった。もう少し待つ」


 必要最低限の言葉を残し、すぐに口を閉じる。

 希望が受け入れられはしたが、テネースの顔に喜びはない。むしろしくじった者特有の後悔が浮かんでいた。


「テネース、どうして石板を読んでって頼まなかったのよ!?」


 声を潜めたマリーカが、テネースの脇腹を肘でつつく。


「何か言わなきゃって焦ったら、すっかり抜け落ちてた」


 脇腹をつつかれる度にびく、びく、と反応しつつテネースが肩を落とした。


「さらにお願いをするという雰囲気ではないわね」


 イアイラの言葉に神の様子を窺ったテネースは「う」とうめいて慌てて視線をそらした。


 神はこそこそとやりとりしているテネースのことをまったく表情を変えずに、ただじっと見ていた。憤っているわけでも呆れているわけでもない。ただただ見ているだけなのだが、表情豊かなアリスと同じ顔に、完全な無表情で見つめられているというだけで言いようのない不安に襲われる。


「わたしが頼んでみるわ。元は同じ存在なんだし、気軽に聞いてくれるかもしれないから」


 そう言いつつも、アリスの顔に楽観はない。分かたれてからの十五年の間に、神は堕ちたる神を生み出す度に感情を失っていった。今の神に、かつての神とどの程度共通した部分が残っているか、アリスにもよくわからないに違いない。


「ううん。僕が言うよ」


 ゆっくりと首を横に振ったテネースは、マリーカの腕から石板を抜き取った。

 マリーカが「あ」と声を上げるが、テネースは無視して神に一歩近づく。


「あの、すみません。この石板に書かれている文字を僕もアリスも読めないんです。代わりに読んでもらえないでしょうか」


 おそるおそる言葉を紡ぎながら、テネースは石板を差し出した。

 神は石板にはまったく視線を向けず、ずっとテネースを見ている。


「なぜわたしがそこまで協力する必要が?」


 テネースと神とはまさに対極の位置に立っているのだから、それは当然の質問だった。当然ではあるのだが、テネースには返す言葉が見つからなかった。まだ諦めたくないから。そう答えても嘘ではない。けれど、それで神が納得してくれるかどうかはまったく別の問題だ。


「わたしがその石板を読んだとして、内容を改ざんして伝えないという保証もない」


 神は、テネースの返事を待つことなく、さらに言葉を重ねる。


「信じてますから」


 反射的に口をついた言葉に、神はテネースたちの前で初めて無表情を崩した。何を言われたかわからないとばかりに、きょとんとしたのだ。


「え、ええとですね」


 意図したわけではない自らの発言に続く言葉を、テネースは必死に探す。しかし、すぐに止めた。無理に言葉を選ぶ必要などない。感じたことをそのままぶつけよう。そう思った。


「神様としてのあなたじゃなくて、アリスと同じ存在のあなたを信じてるって意味です。あ、も、もちろん神様だということを疑ってるわけじゃないですし、神様としてのあなたを信じてないということじゃないですよ!?」


 無表情に戻った神は、テネースの言葉が終わっても無言だった。じっとテネースの顔を見ている。


「あ、あの――」


 まだ言葉が足りないだろうか。だが、もう言うべきことはすべて言ってしまった。何か他にないだろうかと考え始めたテネースの眼前に、にゅっと腕が突き出された。


 反射的にのけぞったテネースは、神が右腕を突き出しているのを見て目を丸くした。


「え、ええと?」

「石板を」


 戸惑うテネースを、無表情の神が促す。


「お、お願いします」


 テネースが差し出した石板を受け取った神は、無言で視線を走らせ始めた。


「すごいじゃない、テネース」

「テネース君、聖職者に向いているんじゃないかしら」

「いや、僕はただお願いしただけだから。神様が寛大なだけです」


 困ったように縮こまるテネースを、アリスは無言で、しかし嬉しそうに見つめていた。



 神は、石板の文字を読み終えると再び最初から読み始めるということを何度も繰り返した。

 その度に、無表情だった顔がだんだんと渋面になっていくので、テネースたちも不安になる。顔を見合わせ、よほどまずいことが書かれているのか、だの、実は神にも読めないのではないか、など囁きあうのだが、結論が出るはずもない。


 何度目かの読み返しを終えて、神が石板から顔を上げた。眉根を寄せたまま、眉間にしわが寄っている。


「これはどこで?」

「えーと、あのあたりの本の間に挟まってたんだけど」


 今までとは違う神の様子に多少及び腰になって、マリーカが書斎のほぼ中央の列の本棚を指さす。


「何かまずいことでも書いてあったの?」


 テネースたちの疑問をアリスが代弁し、全員が、真剣な表情で神の返答を待つ。


「もしここに書いてあることが事実だとしたら、わたしの常識が覆る」


 淡々と話す神がゆっくりと無表情を取り戻していく。


 対象的に、テネースたちは今までとは比較にならない驚きに襲われた。

 世界中の誰よりも物事を知っているであろう存在が、常識が覆ると言うほどのこととはどのようなことなのか。想像すらつかなかった。


「それで、何が書いてあるの?」


 真っ先に立ち直ったのはアリスだった。神と視線を合わせるように浮かぶ高さを調節する。


「世界創世に関する異説が」


 神の答えに全員が息をのむ。それがテネースたちの渇望するものに直結するとは限らないが、喉から手が出るほど欲しかった手掛かりになる可能性は十分ある。

 驚きを塗りつぶして強くなる興奮を飲み下すように、テネースは唾を飲んだ。


「書いてあることを教えてください。お願いします!」


 テネースが頭を下げると、マリーカとイアイラもそれに倣った。


「わたしからもお願い」


 頭こそ下げなかったが、アリスも神に頼む。


 神は小さく頷くと、静かに語り出した。石板に記された世界創世の話を。

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