3 神の書庫
廊下は果ての見えないほどまっすぐ延びている。だというのに、扉は見あたらない。振り返れば、今出たはずの扉もなくなっていた。
「さあ、こっちよ」
顔を青くして扉のあった壁を見つめているテネースたちに、アリスが声をかける。
ぎこちない動きでアリスに向き直ったテネースは、ぎこちない動きで歩き出す。
「疑ってたわけじゃないけど、本当に神様の家なんだね」
無駄な装飾のない、それでいて品の良さを感じさせる廊下を見渡しながら、テネースがため息をつく。どこまでも続く廊下を見ていると、アビュドスの頂上はどれほど広いのかと感心してしまう。
「神様といえば、なんであんなに無感情なの。外見だけはアリスとそっくりだったけど、中身は全然違ったし」
テネースの隣りを歩いていたマリーカが唇を尖らせる。
「仕方がないのよ。寿命の近づいた神はその力を徐々に失っていくけれど、その際に感情も一緒に抜け落ちていくの。堕ちたる神は、神の力と感情が結びついた存在なの」
「感情?」
「そう、感情。たとえば、白銀の森にいた堕ちたる神。あれは後悔という感情と結びついた存在だったわ。後悔にまつわる記憶ってあまり思い出したくないものの場合が多いと思うんだけど、だからこそあの堕ちたる神は周囲の人間たちから後悔の原因となった記憶を奪っていたの。姿形も神のそれを色濃く残していたし、暴走してはいても一応は神としての存在意義も残っていたんでしょうね。後悔という苦痛を取り除こうとしていたんでしょう、きっと」
「後悔することがなくなるなら、それはいいことなんじゃないの?」
前を飛ぶアリスの背中を見つめながら、テネースが訊ねる。過去を振り返って後悔ばかりしているよりは、振り返る過去がなくなってしまったとしても後悔などしないで済む方がいいのではないだろうか。
「失敗した記憶や人を傷つけたり人に傷つけられたりする記憶は、確かに思い出すのが辛いでしょうね。でも、それらはその人を構成する大切な記憶には違いないわ。特に後悔にまつわるようなものなら、未来を少しでもよくしようと思う原動力にもなる。それらをごっそりと奪われたらどうなるか、エウロポスで見たはずよ」
「辛い過去の記憶と未来との関係はいまいち実感できないけど、でも無理矢理記憶を奪われた時の痛みと怖さは、もう二度と経験したくないな」
アリスの言葉にテネースが黙り込む傍らで、マリーカがそっと自らの肩を抱いた。
「そうね。結果として悪影響を与える云々は別にしても、無理矢理奪っていいものじゃないしね。今の説明で、どうして神が感情らしい感情を持っていないのか、納得してもらえた?」
「あ、うん。でも、知れば知るほどひどい話よね。ずっと世界のために頑張ってきたのに感情を失って、挙げ句の果てには殺されないといけないんだから」
肩から手をどけたマリーカは、眉根を寄せてアリスの背中を見る。
「テネース君をそんなかわいそうな神様にしないためにも頑張らないとね。行動の自由は与えられたけれど、何か手掛かりはないものかしら」
「聖職者としてその発言はどうなのよ。そもそも、聖職者なんだから、あたしたちが知らない何かを知ってたりしないの?」
「今こうしているのは異端審問官としてではなく、あくまでもイアイラ・クリダリアという一人の女としてよ。あと、情けない話だけど、教会の人間で神が代替わりしているだとか堕ちたる神だとか神殺しについて知っている者は、一人もいないでしょうね。それこそ、教皇様だって知らないはずよ」
「人と神様を繋ぐ唯一の組織なのに?」
半眼になったマリーカに、イアイラは無言で肩をすくめた。
「わたしも書庫の本はほとんど読んだことがないから、ごめんなさい」
「三日の間に読める限りの本を読むしかない、ってことだよね」
両親はテネースに読み書きを教えようとはしなかったが、暇な時間を見つけてはアリスが手ほどきしたため一通りの読み書きはできる。もっとも、一応できるだけで、大量の書物を読み内容を吟味するとなると自信がない。
「あんまり自信はないけど、頑張る」
マリーカが両手を握りしめ、気合いを入れる。
「初日と二日目で当たりをつけて、三日目に精読するしかないわね……そういえばアリステラ。テネース君が次代の神になったらずっと一緒にいられるみたいなことを言っていたけれど、あれは神の力の一部として一緒にいるという意味? それとも、本当にテネース君の中で意志を持って生き続けるという意味なの?」
「基本的にはあくまでも力の一部となるわ。ただ、ごくまれにぼんやりとした意識と交感することがあるけど」
イアイラの質問に身をこわばらせたテネースが、その答えを聞いて唇を噛んだ。マリーカが心配そうにちらちらとテネースを見るが、声はかけなかった。
「それじゃあ、歴代の神様にお伺いを立てるということもできそうにないわね」
「期待に添えずごめんなさい。ただ、もしも過去の神たちと自由に意思疎通ができるとしても、わたしには無理なんだけどね。確かにわたしは神の一部ではあるけど、神の力はこの意識体を維持する分しか持っていないから。わたしは、神が感情を失い始める前に切り離された、人間としての彼女の一部でしかないの」
「謝ってもらう必要はないわ。ちょっと楽ができないかと思っただけだから」
「だから、どうしてそういう言い方するのよ」
テネースのことを気にしていたマリーカが、イアイラを振り返る。
「ただの性分よ」
「さあ、書庫に着いたわ」
素っ気ない返答にさらに言い返そうとマリーカが口を開こうとしたが、アリスが先に言葉を発した。
アリスは、テネースたちの右手の壁を指さしている。その指の先には、黒く塗られた木製の扉があった。
「さっきまでなかったような気がするんだけど……」
テネースが呆然と呟く。確かに会話に意識の大部分は向けられていたが、それでもこれだけ何もないまっすぐの廊下なのだから、変化があれば気付くはずだ。
「ひょっとして、ここまで歩いてくる必要なんてなかったんじゃないの?」
マリーカから扉へ、そしてアリスへと視線を動かしていったイアイラが、疑念を隠そうともせず訊ねる。
「多少歩いた方が気分が落ち着くかと思って」
***
書庫の中は、明かりや窓がなくても明るかった最初の部屋や廊下とは違い、薄暗かった。それでも、何も見えないほどの暗闇ではなく、部屋の四方の壁、そして部屋の中に規則的に並んだ本棚の姿は見て取れる。
一番背の高いイアイラよりも高さのある本棚にはぎっしりと本が詰まっており、そんな本棚が無数にある。
部屋の全体を見渡すことができないので具体的に本棚の数を予想することは難しいが、三日間で読み尽くせる量でないことだけは、はっきりしていた。
「これ、全部に目を通すの?」
「どう考えてもそれは無理でしょ」
呆然と呟くマリーカへのイアイラの突っ込みにも力がない。
テネースなどは会話に加わることもできず、ただただ呆然と無数の本棚を見つめている。
「そこにある机の周辺は自動的に明るくなるから、本を集めてそこで読むのが一番いいと思うわ」
アリスの指さす先を見れば、重厚な雰囲気を醸し出しているがっしりとした造りの大きな机があった。確かに周囲の暗さに比べると若干明るくなってはいるが、それでも本を不自由なく読めるほど明るくはない。
「何これ!?」
一番近い本棚から一冊の本を取り出したマリーカの叫びが、他の三人の注意を一瞬で引きつけた。
マリーカは、本に目をくっつけるように寄せている。
「どうしたの、マリーカ」
「これ、全然読めないんだけど」
駆け寄ったテネースに、マリーカは眉尻を下げた困り顔を向けた。
「とんでもなく汚い字で書かれてるんじゃなくて?」
マリーカから本を受け取ったイアイラが、本にぐっと顔を近づけ――すぐに離した。
「これ、文字のように見えなくもないけれど、それらしく書いてあるだけのような気がするわ」
「暗いせいじゃないですか?」
イアイラが閉じた本を受け取り、テネースはアリスから言われた机へと向かう。すると、人が近づくのを感知したのか机とその周囲の空気が淡い光に輝き始めた。
「テネース、何かしたの?」
「僕にこんなことできるわけないじゃないか」
「じゃあ、アリステラかしら」
「わたしでもないわ。これは、ずっと昔の神がやったことが、今でも維持されてるのよ」
驚きを隠せない三人に、アリスが笑顔を見せる。
「アビュドスに来てから驚くことしかないわね」
イアイラの呟きに、テネースとマリーカがしみじみと頷いた。
「読めるか確かめるんじゃないの?」
アリスの言葉に当初の目的を思い出したテネースは、机の上に本を広げた。
「やっぱり読めない」
「さっき見た通り、字じゃないわね。なんとなく似てる気はするけど」
テネースの両側から本を覗き込んだマリーカとイアイラが首を横に振る。
「え? 普通に読めるんだけど」
誰のものかはわからないが、日記らしき文章が確かに読める。むしろ、今まで読んだことのある本よりも容易に理解できるほどだ。
「別に見栄を張らなくてもいいのに」
「確かにここにある本が現状唯一の希望ではあるけど、読めないものは読めないと認めた方が対策は立てやすいわ、テネース君」
「いや、だから普通に読めるんだってば。この本は誰かの日記みたいで、このページには羊を連れて丘を幾つも超えて、また戻って、っていう一日のことが書いてあるんだよ」
ややむきになってテネースが言うと、マリーカとイアイラが顔を見合わせた。
「確かにそう書いてあるわ。二人は本当に読めないの?」
本の上に浮いて読んでいたアリスが振り返ると、マリーカは申し訳なさそうに頷いた。
「私とマリーカが読めず、テネース君とアリステラが読めることを考えると、神とそれにまつわる存在だけが読めるような文字で書かれてるってことかしら」
「かもしれない。今まで神以外がこの書庫の本を読んだことがないから、わたしにもよくわからないけど」
「もしそうなら、あたしたちはテネースのことを手伝えないってことよね」
「もう何冊か試してみましょう。たまたまその本が私たちに読めないだけかもしれないから」
肩を落とすマリーカを促して、イアイラが他の本を取りに行く。
「やっぱり読めない」
戻ってきて数冊の本を机の上に広げたマリーカがうめく。
複数の本棚から無作為に選んできた本だが、読めたのはテネースとアリスだけで、マリーカとイアイラが読める本は一冊もなかった。
「本を読むことでテネース君を助けのは無理そうね」
「やるべきことははっきりしてるのに、手伝えないなんて」
マリーカが悔しそうに本を睨みつける。
「できることをやるしかないわ。アリステラ、この書斎の本は、きちんと整理してしまわれてるの?」
「ええ。入口に近い本棚は全部歴代の神の日記、扉から見て右側の壁の壁に沿った本棚は歴史書という具合に分かれてるはずよ。もっとも、わたしがテネースの所に行ってから模様替えがされてなければ、だけど」
アリスの返答に、イアイラは頷いてマリーカを見た。
「私たちはアリステラに教えてもらいながら本を選びましょう。テネース君には読むことだけに専念してもらわないと時間がもったいないわ」
「あ、うん」
「僕のわがままにつきあわせちゃってごめんなさい」
テネースが頭を下げると、マリーカがひどく大きなため息をついた。
「もう何回言ったかわからないけど、あたしは自分がそうしたいからテネースと一緒に旅をしてるんだし、手伝えることは手伝ってるの。だから、お礼なんていらないわよ」
「申し訳ないって思われるよりは、感謝された方がやる気も出るわね」
「ありがとう、二人とも」
照れたようにテネースが微笑むと、マリーカとイアイラも笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、さっそく始めましょうか。早く本を集めれば、テネースだけじゃなくてわたしも読めるし。もっとも、マリーカかイアイラの協力が必要だけど」
アリスの言葉に、三人が力強く頷いた。
***
「新しい本、ここに置いておくね」
「ありがとう。助かるよ」
テネースは文字を追うことをやめることなく、革で装丁された本を三冊ほど机の上に積み上げたマリーカにお礼を言った。
「読み始めてから一度も休憩とってないけど、大丈夫?」
「自分でも不思議なんだけど、全然疲れないんだ。本を読んでて楽しいって、人生で初めて思ったかも」
テネースは一応読み書きができるとはいえ、書く文章はたどたどしいし、読む方にしたところでつっかえつっかえだ。
だというのに、この書斎にある書籍に関しては、自分でも驚くほどすんなりと読むことができる。しかも、内容もしっかりと頭に入ってくるのだ。これが楽しくないはずがない。
その結果、マリーカが心配するように短時間の休息すら挟まずぶっ続けで読み続けるという状態になっている。
「読めるのテネースだけなんだし、無理しちゃ駄目だよ。ところで、何か役に立ちそうな記述はあった?」
マリーカの言葉が終わった途端、テネースの目が止まった。顔を上げマリーカを見ると力なく首を振る。
「今のところなんにも」
テネースたちが最初に目をつけたのは、歴代の神々の著した書物だった。そのほとんどは個人的な日記であり、アリスによると人間として生きていた頃を懐かしむためだったり、長い孤独を紛らわせるためだったりといった理由で昔のことを記録する神が多かったのだという。
他人の生活や思いを覗き見るようでちょっと心苦しかったテネースだが、読んでいくうちに、ほんの一部とはいえ自分ではない誰かの人生を追体験しているようで楽しみ始めていた。
そういった楽しみがあったからこそ、必要な手掛かりがまったく見つからなくても読み進めることができた面もある。
「そっか。神様が書いたんなら、あたしたちが知らないようなことも書いてあるかなあ、って思ったけど、甘かったかな」
神様の書いたものが残ってるなら、それから見ればいいと提案した者として責任を感じているのか、マリーカが申し訳なさそうに首をすくめる。
「そんなことないよ。だんだん本を読むのにも慣れてきたし、それに今までの神様も悩んできたんだってわかったから」
「テネース……」
「さて、と。今読んでるのをさっさと読んじゃって、マリーカが持ってきてくれた分に取りかかろうかな」
「テネース君、少し休んだら?」
羊皮紙を丸めただけの巻物を抱えて戻ってきたイアイラは、テネースの頬に手を添え無理矢理本から顔を上げさせた。イアイラは心配そうに眉をひそめ、じっとテネースの目を見つめる。
「大丈夫です。無理はしてません」
イアイラの両手に頬を挟まれ、吐息がかかるほどお互いの顔が近いというのに、テネースは顔色ひとつ変えていない。イアイラは小さくため息をつくとそっと手を離した。
「テネース君、焦る気持ちもわかるけど、落ち着かないと大切な情報を見逃してしまうかもしれないわよ」
「はい。気をつけます」
そう言いながら、テネースはさっさと広げた本へ顔を戻した。
歴代の神が記した書物に、テネースたちが欲している情報は書かれていなかった。今は歴史書の区画とアリスが言った本棚から持ってきた本を読んでいる。その一部は神が書いたと言われているらしいが、ほとんどはいつの間にか本棚に収まっていたのだという。
この歴史関係の本だけではなく、この書斎の大部分の本は著者が誰かも、いつどうやってそこに収められたのかもわからないものらしい。
今までよりも難解な記述も増えたせいで読む速度は遅くなったが、テネースはほとんど休むことなく読み続けていた。イアイラだけでなく、マリーカやアリスももっと休むように言っているのだが、テネースは生返事しか返していない。
「窓がないから時間もよくわからないけど、そろそろご飯時だと思うのよね。テネース君、お腹すかない?」
「すいてないです」
答えた直後、テネースのお腹が盛大に鳴った。
テネースは顔を真っ赤にして本を見たまま微動だにせず、イアイラは少しばかり気まずそうな苦笑を浮かべた。
「台所を借りて何か作るわね」
「あ、いえ、悪いですから」
顔を上げないままテネースが首を振る。
「遠慮しないでいいのよ。私にできることといったら本を持ってくることの他にはそれくらいしかないんだから」
「イアイラよりもあたしに作って欲しいのよね」
羊皮紙の束を抱えたマリーカが、口を挟む。
「ここは狩りなんてできないのよ? いつもの野性味あふれる料理ができないのに、何を作るつもり?」
イアイラの挑発に見事に引っかかったマリーカは、抱えている紙束を乱暴に机に置くと、自分よりも背の高い異端審問官を下から抉るように睨みつけた。
「旅の途中に作ったものしか作れないなんて、そんな想像力の乏しい考えをしてるの?」
「無理をしても後で恥をかくのはあなたよ?」
感情をむき出しにするマリーカとは対象的に、イアイラはにこやかに受け答えをしている。
「あ、あのさ二人とも。僕本当にお腹すいてないから。って、聞いてる?」
顔を上げたテネースは二人の女性をこわごわと見上げるが、マリーカもイアイラも睨み合いを続けるのに忙しいらしく、返事はない。
「ほらほら二人とも。マリーカの料理の腕前がどの程度かとか、テネースが本当に食べたいのはどっちの料理かとかは、実際に作って確かめればいいでしょう。二人で料理できる程度には台所は広いし、食材もいろいろあるから」
「アリスの言う通りね。実際に作れば全部はっきりするわ」
頷いたマリーカが不適な笑みを浮かべる。
「調理ができなくても最低限の下ごしらえはできるわね?」
「だから、ちゃんと料理できるって言ってるでしょ!」
「それじゃテネース、わたしたちは夕食の用意をしてくるから。適度に休憩を取るのよ」
笑顔で釘を刺したアリスが、まだ睨み合っている二人を促して書斎を出て行った。
テネースが見ている目の前で、アリスたちがたった今潜った扉が、壁に溶けるように消えていく。
「仕組みみたいなものはあるのかな」
しばらくの間首をひねっていたテネースだったが、首を一振りすると本に視線を落とした。




