1 テネースとアリステラと神と
「ん……」
ひんやりと冷たく固い感触を右頬に感じ、テネースは目を開けた。
まだぼやけた視界の中、白い床が横になっているのが見えた。
どこにいるのかはわからなかったが、固い床の上に横たわっていることだけは理解できた。
(どこだろう、ここ)
身を起こすことなく、記憶を手繰っていく。
目を覚ます前、テネースは銀色の光に包まれ、空を飛んでいた。より正確に表現するなら、空――おそらくはアビュドス――へと引き寄せられていた。
加速があまりにも激しくなり、肉体と精神どちらが先に音を上げたのかはわからないが、とにかく意識を失った。
ぼんやりとそこまで思い出したテネースは、勢いよく起き上がろうとしてやめた。
今も、左手はマリーカにつかまれたままだった。そして、テネースの左手はマリーカの右手をしっかりと握っている。
(手、離さなかったんだ)
マリーカはテネースに顔を向けて目を閉じている。起きている時はとても豊かに感情を表している顔に、表情らしい表情が浮かんでいないのは珍しい。状況も忘れ、テネースはマリーカの寝顔に目を奪われていた。
「ん、んんっ」
突然聞こえた咳払いに、テネースの身体が大きく跳ねた。
「ん……何?」
マリーカが目を開ける。
焦点の合っていない視線がまずテネースの顔に、ついでまだ握り合ったままの手へと向けられた。
「!?」
先ほどのテネースに勝るとも劣らないほど身体をびくりと跳ねさせたマリーカは、勢いよく手を離した。
「な、ななな、なんで!? あ、べ、別に嫌だっていうわけじゃなくてねっ!?」
テネースから距離を取りながら上半身を起こしたマリーカの顔は真っ赤だ。
「お、落ち着いてよマリーカ。何を言ってるのかわかんないよ」
慌てる必要などどこにもないはずなのに、マリーカがひどく取り乱したせいかテネースまで混乱し始めた。
「テネース君も落ち着きなさい」
再び、マリーカでもアリスでもない声が聞こえた。
「イアイラさん」
起き上がり振り返ったテネースは、じとっとした目で近づいてくるイアイラと目があった。
「よかった、無事だったんですね」
銀の光に包まれてから姿を見たのはこれが初めてだった。空を舞っている時も声は聞いていたが、やはり無事な姿を見ると安心できる。
「テネース君もね」
しかしイアイラには別の感想があるのか、返ってきた声は不満そうだった。
「記憶喪失にでもなってテネースのことを忘れてればよかったのに」
ぼそりと呟かれたマリーカの言葉に、イアイラの眉がぴくりと震えた。
「分不相応にテネース君の身体に触れて混乱していた頭がようやく元に戻ったみたいね」
「おかげさまで、とってもはっきりしてるわ」
マリーカが立ち上がり、テネースの頭の上で睨み合いが始まる。
「ちょ、ちょっと、なんでいきなり物騒な雰囲気になってるの!?」
飛び上がったテネースは二人の視線を遮り、交互にマリーカとイアイラの顔を見つめる。すると、どちらからともなく笑顔を浮かべ、なんでもないとばかりに肩をすくめた。
「ここがどこなのかも、どういう状況なのかもわからないのに、喧嘩なんてしないでよ」
ほとんど無意識にそう言ったテネースだったが、自分の言葉でようやく今どのような状況なのかを思い出した。大慌てで周囲の様子を窺う。
何よりも特徴的なのは、白い床だろう。足の裏に返ってくる感触は石かそれよりも硬いもののそれだが、小さな町の広場よりも広い床だというのに、継ぎ目の一つもない。
テネースたちは部屋のほぼ中央にいるためすぐには気付かなかったが、四方は壁に囲まれていた。
広く窓もない部屋には照明器具が見あたらない。だというのに、まったく暗くない。
まるで空間それ自体が光っているかのように、隅々まで均等に明るい。
部屋に満ちる空気は暑くも寒くもない。夏の足音が聞こえていることを考えれば驚きの事実だった。
そして、実に過ごしやすい室温を実現している空気は、微かに甘い花の芳香を漂わせている。
「ここ、どこ?」
どこかで嗅いだことのある匂いのような、と首をひねっていたテネースだが、マリーカの声に諦める。
この場にマリーカの疑問に答えられる人間はいなかった。
ここがどこかもわからないし、なぜここにいるのかもはっきりしない。
出て行こうにも、この部屋にないのは窓と明かりだけではなく、扉もなかった。
どうやってここに入り込んだのか、ますますわからなくなる。
「あ!?」
それでもどこかに手掛かりはないかと頭を巡らせていたテネースが、ひどく大きな声を出した。
「ど、どうしたの!?」
「何か見つけたのかしら」
驚いた顔のマリーカといつもと変わらない様子のイアイラの視線がテネースに集まる。
「アリス、アリスがいない!!」
なぜ今まで気付かなかったのか。自分で自分を罵倒しながら、テネースは今まで以上に真剣な表情で周囲を窺い始めた。
「ほんとだ。どこにもいない」
素早く辺りを見たマリーカが呟く。
「私たちをここに連れてきた後どこかに行ったのか、あるいは初めからここに来ていないの。どちらにせよ気になるわね」
「素直に心配だって言えないの!?」
「私がアリステラを心配する理由がないわ。テネース君には辛いでしょうけど、私が誠心誠意慰めれば気も紛れるでしょうし」
しれっと言い切るイアイラに、マリーカの眉尻がつり上がる。
「あのねえ――」
「確かに心配してもらうほどのことでもないわね」
突然の声にマリーカは言葉を途中で飲み込んだ。
「アリス!」
マリーカを黙らせたその声を、テネースはよく知っていた。今までは頭の中に響いていたので耳を通して聞くと若干の違和感を覚えたが、聞き間違えるはずがない。
全身で安堵を露わにしつつテネースはアリスの姿を捜すが、いつもテネースの目線の高さを飛んでいる美しい姿はどこにもなかった。
「なんでアリスの声が聞こえるの?」
怪訝そうにきょろきょろと視線をさ迷わせるマリーカ。イアイラは表情を引き締め、腰の鞭へと右手を伸ばしている。
「大丈夫。この場所に危険はないし、誰も危害は加えないわ」
再び、アリスの声が部屋に響く。今回も、声の主の姿はない。
「姿も見せずにそんなことを言われても、信頼できると思う? 気を失ってる私たちを放置していったあなたの言葉なのに?」
鞭などよりも遥かに鋭い言葉をイアイラが投げかける。
「そうね。ごめんなさい。言い訳をさせてもらうと、帰宅の挨拶とか報告とかいろいろあったのよ」
何気なく口にされた帰宅という言葉に、テネースは今どこにいるのかをはっきりと悟った。
聖峰アビュドスの頂上、神の住まう家――家と表現できるものなのか自信はなかったが――に間違いない。
ならば、アリスが挨拶と報告に向かったのは、神なのだろう。
(結局、僕は何も決められてない)
アリスが無事だったという喜びよりも自分のふがいなさの方が大きくて、喜ぶこともできない。
「帰宅って、ここ、アリスの家なの?」
目を丸くしているマリーカから数歩離れた空間が、陽炎でも発生したかのようにゆらめいた。
「な、何!?」
「下がって!」
弓を構えることも忘れ立ちすくむマリーカを、イアイラが思い切り引っ張った。たたらを踏みつつマリーカが数歩下がる。
空間のゆらぎはそんな人間たちに構うことなく大きくなっていた。すでに大人一人分程度の大きさがある。
三人が何もできず見つめていると、弾けるように大きくなったゆらめきが急速に収束していった。拡大する時はある程度時間がかかっていたが、小さくなる時は文字通り一瞬だった。
そして、空間のゆらぎがあった場所には、二人の人影があった。
一人は、テネースよりも若干背の低い髪の長い女性。
もう一人は、テネースが誰よりもよく知っている小さな女性。
「え、ええと?」
マリーカがびっくりしたように、それでいてまじまじと二人の女性を見比べている。
「アリステラが二人?」
イアイラの言う通り、アリスとその傍らの女性は瓜二つだった。白銀の森の悪魔とアリスも似ていたが、今目にしている女性は大きさを別にすれば双子以上にそっくりなのだ。
青い瞳の切れ長の目、卵形の小さな顔に白い肌。そして、銀を溶かしたような、きらきらと輝く長く滑らかな髪。服装には、アリスが青と白を基調にした長袖のシャツとスカートに若干の装身具という出で立ちで、横の女性は飾り気のまったくない純白の貫頭衣を腰帯で縛っているだけという違いがあるが、服の上からでもわかる女性らしい体つきもそっくりだった。
「わたしがアリステラだってよくわかったわね」
アリスがわざとらしい驚きを浮かべる一方、その横の女性は無表情にテネースのことを見つめている。
ただ見られているだけなのに心の奥底まで見通されているような気がして、テネースは慌てて視線をアリスに向けた。
「テネース君の近くを飛んでた光の大きさと同じくらいだもの、それ以外にないでしょ」
律儀に答えながらも、イアイラは油断なくアリスと横の女性を観察している。おかしな動きをしたら即座に反応するつもりなのだろう。相変わらず鞭の柄に手が添えられている。
イアイラに笑みを返したアリスは、姿を現してから初めてテネースを見た。
視線が混じり合うが、テネースは何も言えなかった。何を言えばいいのか、何を言いたいのか。まったくわからない。
ただ、アリスの姿を見ることができたのは、嬉しかった。
「ごめんなさい、テネース。本当はもっと時間をあげたかったんだけど」
申し訳なさそうに首をすくめたアリスが、視線だけで隣りの女性を見る。
「やっぱりその人は――」
「ええ。神よ。そしてわたしの――ええと、何になるのかしら。親? 分身?」
「か、神!? ちょ、ちょっとテネース、どういうこと?」
「下手なことを言うとさすがに見逃せないわよ」
事情を知らないマリーカとイアイラは驚きを隠せていない。それでも、イアイラはマリーカよりは落ち着いて見えた。
「あ、うん。僕も神様に会うのは初めてなんだけど」
「けど? アリスの正体は知ってたの? ていうか、アリスって何者なの?」
テネースの肩を掴んで自分の方を向かせたマリーカは、混乱も露わに唾を飛ばす。
「これからゆっくり説明するから、とりあえず落ち着いて、マリーカ」
アリスの口から零れた声は、とても真剣な響きを有していた。
それが功を奏したのか、マリーカが口をつぐむ。
マリーカの、イアイラの、そしてテネースの視線がアリスに集まる。アリスは三人の視線を受け止め、小さく微笑んだ。
その傍らの神と呼ばれた女性は、場の混乱を気にも留めず、姿を現した時とまったく同じ姿勢のまま、表情を一切変えずにテネースを見つめ続けていた。




