3 神と世界の秘密、そして神殺し
『ずっと悪魔って呼んできた存在だけど、本当は悪魔じゃないの』
アリスの説明は、今までの大前提を崩す言葉から始まった。
テネースは今の言葉の意味をなかなか理解することができず、何度も瞬きを繰り返した。
『堕ちたる神って言ってね、神様の力の一部なのよ』
「で、でも、悪魔は人間に危害を加えてたよ!? アリスを疑うわけじゃないけど、神様のやることじゃないよ」
何を言われたかようやく理解したテネースは、神と名のつく存在が人間を苦しめているなど、信じられず声を荒げた。異端者と呼ばれようと、両親たちのような強すぎる信仰心を持ち合わせていなかろうと、テネースだって神を崇めてはいる。神がこの大陸に祝福を授けているという教会の教えも信じているのだ。
『だから「堕ちたる神」なのよ。神ではあるけど、信仰の対象になっている神そのものではないの』
「神様が複数いるってこと?」
十五年生きてきてそんなこと聞いたこともない。自然、問いかけるテネースの声は小さくなる。
『テネースも含めて人間が神として崇めてる存在は、神がこの世に誕生してからずっと同じ存在だったわけじゃないの』
「ごめん、よくわかんない」
『神様はね、三百年に一度くらいの割合で代替わりしてるのよ』
「へー、代替わり……え、代替わり!?」
この大陸に多大な祝福を与えている偉大な存在が、人間と同じように寿命を有しているとでも言うのだろうか。アリスの言うことならたいていのことを信じるテネースだったが、さすがに素直に頷くことができなかった。
『肉体的な寿命はないんだけど、精神的に耐えられなくなるのよ。神の精神が弱っていくにつれて、その身体から神の力がこぼれ落ちていくの。それはやがてこの大地へとたどり着き、堕ちたる神となる。それが、今まで悪魔と呼んでいた存在の正体よ』
「たとえ神様の身体から抜け落ちたものでも、堕ちたる神も神様なんでしょ? どうして人間を襲うの?」
『あくまでも推測だけどね、神の力がこの大地に祝福を与えているのは、あくまでも神の強い意志があってのことだと思うの。でも、堕ちたる神にはそれがない』
「それって、神様が元々は人間に敵対的な存在だってこと?」
『そこまでは言わないわ。それに、神は決して人間に敵対はしない。その力はどうかわからないけれど』
いったん言葉を切ったアリスは、しばらく自分の身体を見下ろしていた。テネースは一連のアリスの説明を理解するために必死に考えていたので、声をかける余裕などなかった。
『だから、テネースが吸収して集めてきたのは悪魔なんかじゃなくて、神の力の欠片だったの』
「……僕の中に神様の力の一部が宿ってるってこと?」
想像しただけで、気が遠くなりそうな事実だった。テネースのおそるおそるの質問に、アリスはこくりと頷いた。
『堕ちたる神の話はこんなところかしら。次にわたし自身のことについて話すんだけど……このまま続けていい? 少し休む?』
「大丈夫、続けて」
アリスという一般的ではない存在とずっと一緒にいたテネースの常識すらも覆す説明にくらくらしていたテネースだったが、休憩を挟もうものなら続きを聞く気力が失われるような気がして、虚勢を張った。
『わかった。わたしもね、神の一部なの』
「は!?」
『だから、イアイラが最初にわたしと悪魔が似ていると言った時は、さすがにびっくりしたわ』
驚愕を顔に張り付けたテネースを見て、アリスはくすりと笑った。テネースを硬直させた衝撃発言をした直後とは思えない、気安い笑顔だった。
『堕ちたる神とは違って理性も感情もあるけどね。それでもわたしは神の一部。さすがに人間とは思ってなかったでしょ?』
「……それは、まあ。大きさだって違うし、僕にしか見えないし。え、でもごめん。何言ってるのかよくわからないよ」
アリスの言葉は、いつも頭の中に直接響く。耳を通して聞くよりもずっと近くに感じられるのだ。しかし、今はものすごく遠くから風に乗って聞こえてくるかのようだ。しかも、ひとつひとつの言葉は理解できるのだが、それらが意味するものが理解できない。
『わたしは、あなたを守り導くために神が自らの意志で切り離した神の一部なの。だから、堕ちたる神と違って、こうして話をすることができる。ごめんね、今まで言えなくて。最後まで黙っていてあげられなくて』
アリスが青い瞳に涙をたたえ頭を下げる。
テネースは、痛いほどに心臓が跳ね、身体が震え、手足の先が冷たくなっていくのを止めることができなかった。けれど、不思議と涙だけは出ない。
「一緒にいてくれたのは、神様に言われたから仕方なくってこと?」
うつむいたテネースは上目でアリスを見つめる。
アリスは愕然とした表情を浮かべた後、顔をくしゃくしゃに歪めた。
『違うわ! 確かに最初はわたしの意志とは無関係だったけど、今は――いいえ、もうずっと前から、あなたと一緒にいることが、あなたの成長を見守ることがわたしの喜びなのよ。ずっと隠していたことは謝るから、お願い、そんな風に思わないで』
アリスが本当にそう思ってくれているのだろうということは、頭では理解できた。そんな風に思ってくれて嬉しいという思いもある。けれど、素直にそう口にすることはおろか、顔を上げることすらできなかった。
『本当にごめんなさい。わたしがもっと早くに決断して伝えておくべきだったわね』
悲しみに満ちたアリスの声に、テネースは無言で首を横に振った。
裏切られたという思いは確かにある。驚きもしたし、悲しみは深い。アリスの言った通り、最初はともかく今はもう誰かに言われたから一緒にいてくれるわけではないことも、わずかに残った冷静な部分は正しく理解している。記憶に残るアリスはいつも真剣にテネースと向き合ってくれた。もちろんいつも笑っていてくれたわけではなく、時には叱られたし喧嘩だってしたこともある。アリスが向けてくれた感情は、決して上辺だけのものではなかった。
アリスが、秘密にしたくて黙っていたわけではないのもわかっている。
それでも、返すべき言葉が見つからなかった。だから、せめてアリスのせいじゃないと伝えたくて、力いっぱい首を振った。
『ありがとう、テネース』
まだアリスの声から悲しみは消えない。アリスにそんな声を出させているという事実も、テネースを打ちのめす。
(もし、もしそんなこと気にしないでいいよ、って笑えたら、アリスも笑ってくれるのかな)
『残りの話は、また今度にしましょう。ちょっとわたしも気持ちを落ち着けたいし、テネースも今までの話をじっくり考えたいだろうから』
まだ顔を上げることのできないテネースは、反射的に首を左右へと振っていた。
確かに精神の許容量ぎりぎりの話をされたように思う。だが、続きがあるのなら、今聞いておきたい。
それに、あまりにも衝撃が大きすぎて気が付かなかったが、多少なりとも落ち着いてみれば、神様はなぜアリスに僕の所へ行くよう命じたのか、という疑問が浮かんでくる。
悪魔――堕ちたる神を見ることができ、吸収をすることができるからだろうか。それだけで神様がたった一人の人間に注意を向けるだろうか。
『わかったわ。テネースがそう望むなら。残りの話は、ほとんどがあなたにまつわる話よ』
それは、なんの変哲もない前置きの言葉だった。けれど、今までで一番テネースへの気遣いに溢れていた。
思わず顔を上げたテネースは、自分をじっと見つめているアリスの眼差しに出会った。心配そうに眉根を寄せた真剣な目。
テネースは無意識に身構えた。
『テネース、あなたは神殺しなの』
***
「あの、テネース?」
アビュドスまであと一日。そこまで近づくと、離れて見ていた時以上に聖峰はこの世のものとは思えぬ不思議な光景を現出している。真下からというほどではないが、アビュドスの底面の多くが見えている。山の底を見る。宙に浮く巨峰を遠くから眺める以上に常識を疑いたくなる眺めだ。
だが、マリーカにそんな奇観を楽しむゆとりはなかった。
黙々と隣りを歩くテネースをちらちらと眺めながら、歩調を合わせる。無言で返事を待つが、テネースは前に据えた視線を動かそうともしない。
息を吸い込んだマリーカは、しかし声にすることなく吐き出した。
三日前、アリスと二人きりで話をしてからずっとこんな調子だ。いや、これでもましになってきたのだ。
今はもう自分から食事もするし、こうして歩くようにもなった。しかし、最初は食事を用意しても食べようとしなかったし、無理矢理引っ張っていかなければ先に進もうともしなかった。それでいて、何があったのかはどんなに強く訊ねても答えない。
(口をきいてくれないのは今も変わってないけど)
それでも、マリーカは定期的にテネースに話しかけているし、隣りを歩き続けている。
イアイラがテネースの意思を尊重して多少距離を置いているのとは対照的だった。
(テネース君テネース君って鬱陶しいくらいにべったりだったくせに、なんて薄情なのよ)
そう思うのだが、隣りを歩くテネースの思い詰めた顔を見ていると、ひょっとしたらそっと見守る方が負担にならずにいいのかも、という考えがちらついたりもする。
しかし、そんな時はいつも、生まれ故郷を捨てざるを得なくなった時、兄が隣りにいてくれたことがどれだけ心の支えになったかを思い出して自らを奮い立たせていた。
(アリスもなんかおかしいし、今テネースを支えてあげられるのはあたしだけなんだから)
丘の頂上に戻ってきてからずっと、アリスはテネースに近づかないようにしているように見えた。指定席だった右肩には一度も座っていないし、移動している時も休憩している時も、テネースとマリーカの距離以上の距離を開けている。
テネースの態度と無関係ではないだろうが、アリスの姿をはっきりと見ることができず、意思の疎通もできないマリーカでは確認のしようがない。あの丘での会話はテネースの声も聞こえなかったから、どんな話をしていたのか想像を巡らせることすらできない。
だから、たまらなく心配だったけれど、マリーカはその心配を押し隠して笑顔を浮かべる。
「テネース?」
***
「テネース?」
不安と懸念を隠しきれていない笑顔でテネースに呼びかける少女を見て、イアイラは小さく微笑んだ。
テネースを巡っては手を取り合えない関係ではあるが、その根気強さには感心させられる。テネースが今の状態に回復するまでマリーカは、無理矢理食事を食べさせ、時に背負い、時に肩を貸して歩き続けた。イアイラが手を貸す隙すら見せなかった。
あまりにも世話を焼き心配しすぎるのはテネースにとってよろしくないと思うイアイラだったが、無理矢理引きはがすのをためらわせる何かが、確かにそこにある。
(マリーカがいなければ、かいがいしく世話をしたり、ちょっと距離を置いて見守ったりと変化をつけて、より深く強く私のことを意識させられたのに)
半分以上は冗談だが、そんな思いが浮かぶ。
(それにしても、アリステラはテネース君に何を吹き込んだのかしら。こんなに長い間思い詰めているんだから、並大抵のことではないと思うんだけど)
おそらくはアビュドスを目指す理由であり、悪魔のことも無関係ではないはずだ。だが、聖峰と悪魔の間にどんな関係があるというのか。そもそも、悪魔とはいったいなんなのか。どことなく不吉な響きの言葉だが、白銀の森で聞くまでは一度も聞いたことのなかった言葉だ。
推理をしようにも圧倒的に情報が足りない。アリステラと話ができれば。そう思わずにはいられない。
三日前の話し合いは、テネースだけでなくアリステラにも影響を及ぼしているのは間違いない。なぜなら、あれから一度もアリステラはテネースの右肩に座っていないし、はっきりと距離を置いている。
イアイラとしてはテネースとアリステラの間に溝ができるのは望むところなのだが、やはりテネースが苦しむのは見たくない。慰めたいとは思うが、そもそもの原因がわからないのでは下手に声をかけたら傷つけてしまうかもしれないとためらってしまう。
(やっぱり見守るしかないのかしらね)
態度にはまったく表さないが、もどかしい思いは強い。
ぎゅっと抱きしめれば元気になる。それくらい単純ならばどれほどいいことか。
(試してみようかしら)
そんなことを思いながら、イアイラは前を歩く二人の背中を見つめた。




