1 奇妙な組み合わせ
「悪魔が実際にはどういう生き物なのかはわからないんですけど、その姿を見ることができるのは僕だけなんです。あ、でもマリーカはぼんやりとでも悪魔の姿を見ることができるらしいんで、イアイラさんも見ることができるかもしれません」
白銀の森の中、テネースは正面に座っているイアイラを見た。
日はとっくに暮れ、辺りは闇に包まれている。銀の木々は月明かりと星明かりを地上まで中継しているが、闇を打ち払うにはあまりにも儚い光だった。かろうじてお互いの位置の確認はできるが、表情などはとても見分けられない。
たき火をするにも森にある物を傷つけてはいけないと言われているし、そもそも金属に火をつけることなどできるはずもない。薪を持ち歩いているようなこともなく、テネースたちは闇の中で夕食を食べていた――テネースとマリーカは手持ちの食料が少ないこともあり節約しようとしたのだが、イアイラが何も心配ないから普通に食べなさいと言い、一悶着あった。
「それだけ聞くと、アリステラも悪魔みたいな気がするわね」
「そんなわけないでしょ! なんてこと言うのよ。悪魔を見ればわかるけど、大きさは違うし、アリスと違ってぼやけてはいても輪郭をちゃんと見ることができるし、全然違うわよ」
昼間もほとんど音がしなかった白銀の森だが、日が沈んだだけでますます静けさが増している。そんな森の静寂を、マリーカの大きな声が引き裂く。
「悪かったわ。別にアリステラが悪魔だって言いたかったわけじゃないのよ。なんとなく似てると思っただけ」
「当たり前よ」
即座に謝罪したイアイラに、マリーカは鼻を鳴らしただけだったが、テネースはすぐに続きを話すことができなかった。
今日、白銀の森で吸収した悪魔は、間違いなくアリスにそっくりだった。髪の色は違ったし、大きさも違ったが、外見は本当によく似ていた。
悪魔退治の旅のことを言い出したのがアリスだということを考えれば、無関係ということはないだろう。
知りたいと、強く思う。それこそ、今すぐ問いただしたいほどだ。
けれど、テネースは質問を口にすることもできず、黙っていた。アリスは、いずれ話すと、確かにそう言っていた。なら、その時が来たと思ったらアリスの方から話してくれるはずだ。それを待たずに質問をすることは、アリスを信じていないと、言っているように思えて、訊ねることなどとてもできなかった。
「それでテネース君、悪魔というよくわからない存在がいるということの是非は置いておくとして、どうしてあなたが悪魔を倒す旅をしているの?」
黙り込んでしまったテネースに続きを促すイアイラの口調は、あくまで優しい。
ゆっくりと顔を上げたテネースは、アリスと悪魔の関係へと向かいそうな思考を無理矢理イアイラの方に向ける。
「しっかりと悪魔を見ることができるのは僕だけですし、悪魔を吸収できるのもやっぱり僕だけだからです。それと――」
「それと?」
「アリスから頼まれたんです。人々を苦しめる悪魔を倒して欲しい、って」
最初、テネースは拒否するつもりだった。たとえもう帰ることの適わない場所になってしまったとはいえ故郷を離れるのは心細かったし、人を苦しめるほど強大な悪魔を倒すことなど、とても自分にできるとは思えなかったから。
しかし、実際には首を縦に振っていた。家族のように接してくれ、深い愛情で見守ってきてくれたアリスに頼まれて、断ることなどできるはずがなかった。
「テネース君、アリステラに死ねって言われたら本当に死んじゃいそうね」
「アリスはそんなこと言いませんよ」
テネースが、間髪を入れずにイアイラに言葉を返すと、アリスは無言で頷いた。
「たとえ話よ。それくらいしそうなほど、アリステラのことを信じ切ってるみたいだから」
「あー、そうですね。それくらい信頼してるかもしれません。アリスのおかげで僕は今まで生きてこられたようなものですし」
物質的に何かしてもらったわけではない。けれど、時に誉め、時に叱り、時に慰め、常に見守ってくれたアリスは、絶対的な心の支えであり、親代わり、友人代わりなのだ。
「ちょっと酷かもしれないけど、テネース君の再教育はそのアリステラへの盲信を普通の信頼に戻すことから始めないと駄目そうね」
「そこまでする必要はないでしょ。でも、何かあるとすぐアリスに頼る癖は直した方がいいと思う」
『確かに、そろそろ自分一人で決断できる強さを身につけた方がいいかもしれないわね』
「あ、アリスまで!?」
イアイラとマリーカの尻馬に乗ったアリスに、ついついテネースの声が大きくなる。
テネースの慌てぶりに、女性陣が声を上げて笑う。テネースは恥ずかしいやら悔しいやらで憮然としていたが、おもむろに口を開いた。
「で! ですね。悪魔は無差別に人を襲っているので、見つけ次第できるだけ早く倒すようにしてます。今日も、エウロポスの人たちを苦しめていた悪魔を倒しました」
無理矢理に自分の話題から元の話題に戻そうとする。
「人々を……うーん、ひょっとして天罰って言われているものと同じなのかしら」
イアイラはテネースの話題転換に素直に応じ、首をひねる。
「この二年で十体近い悪魔を見てきたけど、天罰ってそんなに頻繁に落ちてるの? さすがに天罰を落とされるような町なんかがそんなにいっぱいあるとは思えないんだけど」
「そう言われると、反論するのも難しいわね。ただ、神の意志は教皇様だって完全には理解できないし、可能性は零ではないと思うわよ」
神の下す天罰に関しては、説教で司教が口にすることがたまにある。世界に、そして人に惜しみない祝福を授けてくれる神だが、あまりにも人道にもとるような行為には、天罰を下す、と。
特定の一人を雷で打ち据えることもあれば、ひとつの町をまるまる地割れに飲み込むこともある。大きな都市を一瞬で塩の町にしてしまったという言い伝えもある。ここ、白銀の森はまさに天罰の爪痕を残す見本だ。
天罰にまつわる説教は、神への畏れを新たにし、信徒の気を引き締める効果があるので、収穫祭の後や年越しの祭りの時などにされることが多い。
「現役の聖職者でもわからないなら、あたしたちがどんなに考えても悪魔の正体なんてわからないでしょ。アビュドスが最終目的地だって言うんだから、そこまで行ったらわかるのかもって期待するくらいしか、できることはないわよ」
悪魔について知ってから二年が経ち、実際に悪魔を目にしたこともあるマリーカはあっさりと、これ以上考えるつもりはないと宣言した。
テネースにしても、マリーカと似たようなもので、何か新しい材料でもなければこれ以上考えても無駄だと思っている。
何か教えてくれるだろうかとアリスを見てみるが、何事かを考えている風情のアリスは、テネースの視線にも気付かずじっと虚空を見つめていた。
「そうね。仮に悪魔について納得のいく仮説が立てられたとしても、聖峰に行くことには変わりはないものね。とりあえず聞いておきたいことも聞けたし、ご飯も食べたし、明日からの旅に備えてそろそろ眠りましょうか。白銀の森の中なら見張りもいらないわね」
「あなたが今までの言葉を覆してテネースを無理矢理さらっていかなければね」
さすがに信じ切ることができないのだろう、マリーカの声は固い。
絶対の信頼を置けないという点ではテネースもマリーカと同様なのだが、イアイラが嘘を言ってはいないだろうと思う程度には信じている。
「大丈夫だよ、マリーカ。イアイラさんはちゃんと約束は守ってくれるよ。僕はそう信じてる」
「ありがとう、テネース君。疑い深いだけの誰かさんとは大違いね。お姉さん嬉しいわ」
蕩けるようなイアイラの甘い声に、マリーカの悔しそうなうめき声が重なる。
「そんなに信用できないのなら、一晩中私のことを監視していたら?」
あからさまな挑発。マリーカはますます悔しそうに息を吐いた。
「あなたのことは信用できないけど、テネースのことは信じてるから。テネースが大丈夫って言うなら、それでいいわ」
本心は違う。テネースですら理解できるほど悔しそうな声で、マリーカが言う。
「そう。それじゃ、おやすみなさい」
「……おやすみ、テネース」
「あ、うん。おやすみ」
低く抑えられたマリーカの挨拶に、テネースは明日からの旅を思いそっとため息をついた。
***
「で、おまえはいつまでついてくるんだ?」
歩みは止めないまま、ギュアースは後ろからついてくるネイオスに声をかけた。もう何度この質問をしたか覚えていないが、かといって問わずにはいられなかった。
「テネースたちがどこに向かっているかを聞くまでだ」
質問をする度に返ってくる答えも変わらない。さすがに二年間テネースを追い続けているだけあって根気は人一倍あるらしい。
「知らないことを教えられるはずないだろ」
振り返ることなく答えるギュアース。
テネースたちが姿を消してすでに七日。この一連の流れを何度も繰り返してきた。
あの日、ギュアースはマリーカとテネースを追いかけるために、ネイオスとの決着を急ごうと出し惜しみせず全力で大剣を振るった。にもかかわらず、日が沈んでも決着はつかなかった。
体力の限界も近づき、相手の動きがろくに見えなくなると、どちらからともなく剣を引いた。それでもしばらくの間は睨み合いが続いたが、白銀の森に入り込んだ三人が戻ってくる気配がまるでないことに気が付いたギュアースは、ネイオスを無視して森に飛び込んだ。
すぐに後を追ってきたネイオスと共にテネースたちを捜したが、明かりを持たずに行ける範囲で三人を見つけることはできなかった。
ギュアースは翌日限界まで行動するためにも寝てしまおうと即断したが、なぜかネイオスもそれにならい、実に心休まらない睡眠を取る羽目になった。
夜が明け、目を覚ましたギュアースは、すぐに行動を開始した。森を出て、エウロポスに戻ったのだ。
驚いたネイオスに詰問されたが、ギュアースは完全に無視した。イアイラがテネースとマリーカの二人を捕まえ、すでに森を出ているという可能性はもちろんあるが、ギュアースはその可能性は低いと考えたのだ。もし捕まえているのなら堂々と戻ってきて人質にでもすれば、ギュアースに剣を引かせることもできた。テネースを人質扱いすることに抵抗を感じても、マリーカならためらわずに人質にするのがイアイラだと、ギュアースは理解していた。
だからこそ、細かい事情まではわからないものの三人がアビュドスを目指しているのだと判断することができた。推論でしかなかったが、これに関しては今もギュアースは疑っていない。
馬を買って白銀の森を迂回した方が早いのだろうか、と考えもしたが、路銀の残りを考え断念した。結局宿に置きっぱなしだった荷物を回収し、保存食の補充を終えただけでギュアースは白銀の森に戻った。マリーカが森に飛び込んだ地点からそのまま北上していこうと、そう思ったのだ。
予想外だったのは、森の外にネイオスがいたことだった。
不信感も露わにネイオスを睨めつけたギュアースは、しかし何も言わず森に入った。また戦いになりでもしたら、負けはしなくても時間が無駄になる。そう判断しての無視だったが、ネイオスは無言でギュアースの後をついてきた。
「……で、俺のケツを追っかけて楽しいか?」
「テネースたちがどこに行ったか知っているようだからな。利用できるものは利用する」
「何を根拠にそう思ったか知らないが、俺はこれからマリーカたちの足取りを捜すんだぞ?」
「本当に知らないのなら、荷物など取りに戻らず妹を捜し続けただろう。そうしなかった以上、知っているはずだ。そもそも、私たちが気付いていなかっただけでおまえたちの旅には何か目的があったのではないか」
「ねえよ、そんなもん。おまえらから逃げて大陸中駆け回ってるだけだ」
そんなやりとりをした時には、ギュアースはもうネイオスがずっとついてくることを覚悟していた――そして、その通りになった。
結局白銀の森で得られた痕跡は、地面に刺さった矢だけだったが、その近くに血の一滴も落ちていなかったので、怪我をした人間は一人もいないらしいことを、ギュアースたちは知ることができた。
「いったいおまえたちはどこを目指して旅をしていたんだ」
あまりにも変化に乏しい旅についつい意識が過去に戻っていたギュアースは、若干いらつきを滲ませたネイオスの声に大股に動かしていた足を止めた。
「何度も同じこと言わせるなよ。おまえらが追いかけてくるから必死に逃げてただけだ」
アビュドスに向かわずこのままネイオスを連れ回した方がいいのではないか、とすら思うギュアースだったが、マリーカとテネースのことが心配だという気持ちに嘘はない。イアイラのテネースへの執着ぶりは、そう深い付き合いがあるわけでもないのに目を背けたいほどよく知っているから、放っておいてはいけないという思いも強い。
(結局、このまま北へ向かうのが一番か)
ため息をつき、ギュアースは再び歩き出した。
背後から聞こえてくる足音に、ギュアースはさっきよりも大きなため息をついた。




