6 少年の決意
「テネース!?」
「そう言ってくれると思ってたわ、テネース君」
「でも」
満面の笑顔を浮かべるイアイラに向けるテネースの顔は険しい。その顔を見たイアイラも、真剣な表情になる。
「僕が聖都に行くのは、アビュドスに行ってからです。それに納得してもらえないなら、僕はどんな手を使ってもあなたから逃げます」
「聖峰に行って、何をするの?」
「わかりません」
きっぱりと言い切るテネースに、さしものイアイラもぽかんと口を開く。まじまじとテネースを見つめ、困ったように首をかしげた。
「ええと、ごめんなさい。なんの目的もなしに聖峰に行こうとしてると、そういうこと?」
「いえ、目的はあります。ただ、僕がそれを知らないだけです」
「神託を受けた聖者みたいなことを言うのね」
「そんな大げさなものじゃないです」
「それにしても、聖峰ね。いくらテネース君の頼みとはいえ、どうしたものかしら」
慌てて首を横に振るテネースににっこりと笑いかけ、イアイラは細い顎に手を当て考え込み始めた。
「テネース、あたしとお兄ちゃんがいるんだから、こんな女に頼る必要ないでしょ!」
イアイラが黙り込んだのを好機と見たか、マリーカはテネースの両肩をつかむと、真剣な眼差しでその目を覗き込む。
「うん。でも、今まで完全に甘えちゃってたけど、僕のせいで二人を危険な目に遭わせてきたわけだし、そろそろけじめをつけないといけないと思うんだ」
テネースが言葉を返した途端、マリーカの両手に力がこもった。痛みを感じるほどだったが、テネースは表情に出すことなく、同い年の少女を見つめ返す。
「さっきも言ったけど、あたしがテネースと一緒に旅をしてるのは、そうしたいから。お兄ちゃんだって一緒。その結果危ない目に遭ったとしても、テネースが気に病む必要はないの」
テネースの肩から手をどけたマリーカの顔には、今回の決断には反対だという意思が色濃く表れていた。
「気にするなって言われたって無理だよ。だって、僕が一緒にいなかったらマリーカは誰かと戦ったりする必要はないんだよ? ギュアースさんだってそうだ。だから、僕がマリーカたちと別れれば――」
「冗談じゃないわ。あたしたちと一緒に旅するのが嫌になったとかならともかく、使われる必要のない気を遣われてさようなら、なんて納得できるわけないでしょ! テネースがなんと言おうと、あたしはついていくからね」
「どうしてわかってくれないんだよ!」
マリーカの言葉は嬉しかった。けれど、だからこそいったん下した決断が鈍ってしまいそうで、テネースは普段滅多に出さない大声で言い返した。
テネースの剣幕に目を丸くしたマリーカだったが、すぐにむっとした表情を浮かべ口を開く。
「テネースこそ、あたしの言ってることちゃんと聞いてる? きちんと理解した上でそう言ってるの!?」
「子供のけんかね」
沈思黙考していたイアイラが、呆れたように、それでいてうらやましそうに呟く。
アリスはどこか安心したような顔でテネースとマリーカを見ているが、今すぐ声をかけるつもりはないようだ。
「子供で悪かったわね!」
興奮していてもしっかりと周りの音も聞いていたらしい。マリーカは剣呑な光をたたえた眼差しでイアイラを睨みつけた。
「悪いなんて言ってないわよ。可愛らしくていいことよ」
余裕に満ちたイアイラの対応に、マリーカの表情はますます険しくなる。
『テネース、あなたがマリーカやギュアースを大切に思ってる気持ちは、きちんと伝わってるわ。ただ、マリーカにも譲れない思いがあるということも、きちんと理解してあげないと』
「わかってる……つもりだよ。でも、ここで別れるのが一番いいはずなんだ」
アリスにしか聞こえないような小さな声は苦渋に満ちていた。アリスは仕方ないなとばかりにため息をつくと、ぐっとテネースに顔を近づけた。
『いい、テネース。たとえ最適解が見つかったとしても、いつもいつもそれを選べるとは限らないのよ。特に個人の強い思いが絡んできたら、合理的な判断なんて一瞬で吹き飛ぶこともあるわ。もし絶対にマリーカたちと別れたいと思っているなら、それが一番いいから、なんて言い方じゃなくて、あなたの感情をそのままぶつけなさい。ただ、あと一回、本当にそうしたいのか考えてからね』
先ほどまでの決意に満ちた表情がどこにもなくなったテネースは、迷子になった子供のような顔でマリーカを見た。
別れたいかと問われれば、否としか答えようがない。初めてできた同い年の友人。異端者として追われるテネースを、目に見えないアリスと会話をするテネースを、気味悪がることなく接してくれる優しい少女。
でも、だからこそマリーカが危険な目に遭うのは耐えられない。耐えられないが、テネースと一緒にいれば安全とはほど遠いのだ。なら、やはり選べる道は一つしかないのではないか。
「……わからないよ」
ぽつりと漏れた言葉は、今にも泣き出しそうに震えかすれていた。
『今考えたことをそのまま言っちゃえばいいのよ。その結果テネースの望む通りにならなかったとしても、あなたの気持ちは理解してもらえる。そうすれば新しい道を探すこともできるわ』
優しい口調でテネースの背中を押すアリスは、姉というよりも母親のような笑顔を浮かべている。
「そのまま!? そ、そんな……」
世にも情けない顔をしたテネースだったが、大きく息を吸うと、表情を引き締めた。
「あの、マリーカ」
「何!? 今忙しいんだけどっ」
イアイラからテネースへと向けられたマリーカの眉間には、深いしわが刻まれていた。テネースがアリスと話している間に、口げんかはどんどん発展していたらしい。
「さっきの話なんだけど――」
「あたしは絶対についていくわよ」
テネースに最後まで言わせず、マリーカは強い口調で断言した。こうなった時のマリーカを翻意させることがどれほど難しいか、二年の付き合いでテネースは骨身に染みている。
「今まではマリーカやギュアースさんが大きな怪我をすることはなかった。でも、これからも
怪我をしないなんて保証はないじゃないか。今日だって、悪魔が君たちに何をしたか、わかってないだろう?」
「確かに今のあたしはまだこの女より弱いけど、でも、いずれ強くなるわ。そうすれば大きな怪我をする可能性は下がる。それに、悪魔に関してはテネースがいれば問題ないじゃない」
「強くなる前に、ひどい怪我をするかもしれない。怪我なんかじゃ済まないかもしれないし僕じゃどうしようもない強い悪魔が出てくるかもしれない。可能性は否定できないだろう? 僕は、マリーカに怪我をして欲しくないんだ! だから、だから――」
「そ、それなら、それならあたしのことを守れるくらい強くなってよ!! そうすれば、一緒にいても問題ないでしょ」
テネースの言葉を遮ったマリーカの大きな声に、アリスを含む三人の視線が集まる。イアイラは一瞬だけ感心するような顔をしたが、すぐに顔をしかめた。
「あ、えと、それは、確かに、そうかも」
自分が強くなる、などと考えたこともなかった。同年代の少年よりも細身なテネースは、筋力でも体力でもマリーカに及ばない。だからか、身体を鍛えようだとか強くなろうだとか考えたことがなかった。
アリスからの要求がなかったから、というのも大きい。
(ほんとに、僕マリーカたちに甘えすぎてたんだ)
自責と後悔の念が噴出し、ひどい自己嫌悪にこの場から走り去りたいとすら思う。
けれど、テネースはマリーカから視線をそらすことができなかった。
「も、もちろん、あたしだって強くなるわよ。あたしとテネース二人で強くなればお兄ちゃんへの負担も減るし、この女も圧倒できるだろうし、いいこと尽くしでしょ、ね、ね?」
急に頬を真っ赤に染め、テネースの視線から逃げるように顔を背けたマリーカが、早口にまくし立てる。
「さっきからこの女この女って、私にはイアイラというきれいな名前があるのよ」
「テネースを無理矢理連れて行こうとするような女、この女で十分よ!」
頬が赤いままのマリーカの声は、いつもより荒い。
「それが仕事なんだから仕方ないでしょう。まあいいわ。テネース君、さっきの提案だけど」
「あ、は、はい」
ほんの一瞬だったが、なんのことだっけと思ってしまったテネースは、急いで気持ちを切り替えた。イアイラたちと聖都に行くと決断した時の自分を思い起こす。
「いいわ。私が聖峰アビュドスに連れて行ってあげる。でも、その後ちゃんと聖都までついてきてね?」
「え、あ、あの、はい」
「テネース、簡単に頷かない! どうせろくでもないこと考えてるわよ」
「私がテネース君を相手に企み事なんてするはずがないでしょう。せっかくのテネース君の提案を無下にするわけにはいかないと思っただけよ」
「ありがとうございます、イアイラさん」
こわばっていた身体から力を抜いて、テネースが頭を下げる。
「だからテネース! ああもう。いいわ。テネースに変なことをしないように、あたしがずっと監視するから」
テネースに食ってかかったマリーカは、すぐに視線をイアイラへと転じ、ぎろりと睨みつけた。
他人に対してここまで敵意をむき出しにするマリーカなど今まで見たことのないテネースは、どうにかしないといけないと思いつつ、何もできず立ち尽くす。
「変なことっていうのがどういうことなのか、教えて欲しいわね」
「え!? そ、それは、その。じ、自分で考えなさいよ!」
意地悪そうに目を細めるイアイラ。マリーカは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「そうするわ。ところでテネース君、さっき悪魔がどうとか言ってた気がするんだけど、悪魔って何?」
イアイラはそれ以上マリーカの相手をしようとはせず、さっさとテネースに向き直る。
「え、え、ええと?」
突然話を振られたテネースはうろたえ、すがるようにアリスを見た。
『吹聴するようなことでもないけど、絶対に隠さないといけないことでもないから、話してもいいわよ。もっとも、異端審問官が信じるかどうかはわからないけど。ただ、今話す必要はないでしょうね』
「うん。あの、イアイラさん。悪魔については後で話すってことでいいですか?」
「え? ええ。別に構わないわ。いつまでもここにいるのもあれだしね」
テネースとそのすぐ側、アリスのいる当たりを怪訝そうに見つめていたイアイラは、若干声を裏返らせて頷いた。
「悪魔のことはいいんだけど、いつもテネース君の近くに浮かんでる人型の光については今教えて欲しいかなあ。さっきから見ていると、テネース君、その光と会話してるわよね」
あまりにも予想外の質問に、テネースは返事も忘れてイアイラの顔を見つめた。マリーカもアリスのことをぼんやりと見ることはできるのだから、同じような人間が他にいてもおかしくはない。おかしくはないが、まさかこの人が、という思いは捨てきれなかった。
「あれ、ひょっとして訊いちゃいけないこと訊いちゃった?」
「別にそういうわけじゃないですけど、その」
『話しても問題ないわ。むしろ、わたしのことを話しておいた方が後で悪魔とあなたの旅のことを話す時、すんなり理解してくれるでしょうし』
テネースの視線に答えるアリスも、若干驚いた顔をしている。
ちらりと目をやると、マリーカは驚いたような、それでいて拗ねているような表情でイアイラを見ていた。
「あの、信じられないかもしれませんけど――」
そう前置きをしてから、テネースはアリスのことを話し始めた。
物心ついた時にはもうアリスはずっと一緒にいたこと。アリスの姿はテネースにしか見えず、アリスの声を聞くことができるのもテネースだけだということ。そのくせアリスに意思を伝えるためには声に出す必要があること。たとえぼんやりとした光としてでもアリスのことを認識できたのはマリーカとイアイラだけであること。
アリスがテネースにとってどれだけ大切な存在であるかは、恥ずかしくてとても言えなかった。
「それって、アリステラがいなければテネース君が異端者として告発されることはなかったってことよね」
説明が終わるまで黙っていたイアイラの第一声は、静かだがアリスを咎めるものだった
「ち、違います。マリーカと会うまではアリスは僕にしか見えなかったんだ。だから、僕が異端者になったのは、僕のせいで、アリスのせいじゃないです」
子供の頃、まだアリスが他人には見えないのだと理解する前は、確かに人前かどうかなど気にすることなくアリスに話しかけていた。そんな時、アリスは困ったような顔で他に人がいるから、とテネースをたしなめていた。だから、すぐにテネースは一人の時以外はアリスに話しかけなくなった。
マリーカたちと出会ってからは、マリーカがアリスを見ることができたし、ギュアースも特に偏見を持っていなかったので普通にアリスと話すようになったが、それは異端者として教会に引き渡された後の話だ。
「ごめんなさい。怒らせるつもりはなかったのよ。余計なことを言っちゃったわね」
言葉通り、本当に申し訳なさそうにするイアイラの姿に、ようやくテネースは自分の表情に気が付いた。怒ってなどいなかったはずなのに、顔の筋肉がこわばっている。
「いえ、その、別に怒ってないですから。ほんとに」
「ありがとう。それじゃあ、そろそろ出発しましょうか」
にっこりと笑ったイアイラが、颯爽と歩き出す。
「そっちじゃないでしょ。お兄ちゃんたちはあっちよ」
マリーカが、イアイラが進んでいく方向とは真逆を指さす。
テネースはつられてそちらを見たが、もちろんギュアースたちの姿は見えないし剣戟の音も聞こえない。それどころか、木々が密生していて森の外までどの程度あるのか予想すらできない。
「だからよ。このまま白銀の森を突っ切るわ。その方が早いし」
立ち止まったイアイラが、顔だけで振り返る。
「お兄ちゃんたちはどうするのよ! まさか置いていくなんて言うんじゃないでしょうね」
「置いてくわよ?」
不思議そうに小首をかしげるイアイラ。テネースとマリーカの驚きの声が重なる。
「やっぱりテネースをアビュドスまで連れてくつもりないんでしょ!? だからお兄ちゃんが一緒だと都合が悪いのね」
「違うわよ。自慢じゃないけどうちの弟はものすごく頭が固いの」
テネースたちに向き直ったイアイラは、不信感丸出しで睨むマリーカを見て肩をすくめた。
「? それがお兄ちゃんたちを置いていくこととなんの関係があるのよ」
「その頭の固い弟が、テネース君を聖峰に連れて行くことに同意するはずがないでしょう。だから、私たちだけで行くのよ。もちろん、あなたがあの男の所へ戻るというなら止めないわよ」
『確かに、ギュアースと合流しようとしたらネイオスにも説明しないといけなくなるわね』
アリスはさっさと納得してしまったようだが、テネースはマリーカと同じ気持ちだ。今まで一緒に旅をしてきたのに、そして散々守ってもらってきたのに、事情も説明せず置いていくなどできるはずもない。アビュドスへの旅が終わったら聖都に行かなければならないのだから、なおさらだ。別れを告げる機会は、アビュドスに向かう間しかない。
「あなたとテネースを二人きりになんてできるはずないでしょ! いいわ、お兄ちゃんも目的地は知ってるし、とりあえずあたしたちだけで先に進みましょう」
しかし、テネースがイアイラに反対を告げる前に、マリーカが口を開いていた。しかも、ギュアースへの信頼故か、三人――足すアリス――でアビュドスに目指すという方向で。
「ま、マリーカ?」
「大丈夫よ。お兄ちゃんが負けるはずないし、勝負がついたらすぐにあたしたちのこと追いかけてきてくれるわ。合流するまでは、あたしがしっかりこの女から守ってあげるから安心して」
マリーカは、実に力強く頷いた。
仮に無理をしているのだとしても、テネースにはかける言葉が見つからなかった。何がマリーカをここまで駆り立てているのか心当たりもないが、とてもありがたいということだけは、疑いようのない事実だ。
「結論は出たみたいね。結局テネース君との二人旅は遠のいてしまったわね。残念」
「あなたとテネースの二人旅なんて、永遠にあり得ないから」
黒衣の背中に言い放ったマリーカは、小さく鼻を鳴らすとテネースに向き直った。
「あたしが一緒に行くこと、文句なんて言わせないわよ」
「うん。ありがとう、マリーカ」
「お、お礼を言われるようなことじゃないわよ。あたしがしたいからしてるだけだし、何よりテネースは世間知らずだから、あの女の言うことをなんでも聞いちゃいそうで心配だし。って、何を言わせるのよ。ほら、あたしたちも行きましょう」
マリーカはテネースの右手を取ると、大股に歩き出す。
「わ、わわ。そんなに引っ張らないでよ」
転びそうになりながら、テネースはマリーカについていく。マリーカの後ろ姿、今は外套に隠れているが、その背中が華奢なことをテネースは知っている。
「マリーカ、僕、マリーカのことをまも――」
言葉の途中で何を言おうとしていたのか気付き、慌てて口を閉じる。聖峰アビュドスにたどり着いたら、そこでマリーカとは別れることになる。そんな自分が、口にしていいことではない。
「何? 何か言った?」
マリーカが振り返る。微笑の浮かんだ顔の奥深い所には、やはりギュアースを置いていくことへのためらいがある、ようにテネースには思えた。
「ううん、なんでもない」
テネースは首を横に振った。そして、声には出さず、先ほどの言葉の続きを口にする。
(僕が、一人勝手に決意するだけなら、迷惑をかけないよね)
アリスは、そんなテネースをいとおしそうに、目を細め見つめていた。




