5 異端審問官の誘い
『……ース。テネース!』
この世のどんな音よりも聞き慣れた声が、名前を呼んでいる。
テネースはアリスの声をはっきりと聞いていたが、全身を覆うけだるさは今まで経験したことがないほどひどく、まぶたは蝋で閉じられたかのようで、動かすこともできなかった。
『起きて、起きなさい!!』
だが、アリスは容赦なく覚醒を促してくる。
長年培ってきた関係を反映し、テネースの意識は徐々に覚醒してはいく。
しかし、覚醒が近づけば近づくほど起きたくないという意思が大きくなる。せっかく覚醒しかけていた意識が、再びまどろみに沈んでいく。
『テネース、しっかりしなさい! そんな情けない子に育てた覚えはないわよ』
語調を強めたアリスに、深く眠ろうとしていたテネースの意識が反応し、迷いを見せる。まだ寝ていたいという思いと、アリスに怒られたくないという思いがせめぎ合う。
ただ、いったいなぜアリスがこんなにも焦っているのか、それは気になった。悪魔はきちんと吸収したはずだ。それとも、失敗していたのだろうか。
『テネース、あなたが起きないと、マリーカが大変なことになるの!』
その一言が、釣り合っていた天秤を一気に傾けた。
目を開けて最初に飛び込んできたのは、暗闇。一瞬目を閉じているのかと思ったが、もちろんそんなわけがない。すぐに、土のにおいが鼻孔いっぱいに広がった。
勢いよく身体を起こす。なぜか額がズキズキと痛んだ。
テネースが目を覚ましたのは白銀の森だった。だが、悪魔と戦った場所ではない。悪魔による破壊の爪痕がどこにも見あたらない。
いったい何が、と考え込みそうになったテネースの耳に、鋭い風切り音が届く。
慌てて音の源に顔を向ければ、目を疑うような光景が繰り広げられていた。
右手に握った鞭を鮮やかに振り回す黒衣の女。蛇のように襲い来る鞭を避けながら、必死に狙いを定めようとする緑衣の少女。
イアイラとマリーカが真剣な表情で戦っていた。
「な、何がどうなってるの?」
マリーカが悪魔の影響から回復したのは喜ばしい。だが、なぜマリーカは異端審問官と刃を交えているのか。
そもそもイアイラはどこから現れたのか。最後に見えたのはひと月も前だ。
『早く二人を止めて』
アリスが、テネースの正面に回り込んできた。
「と、止めるってどうやって」
答えるテネースの顔は早くも泣きそうだった。
自慢できるようなことではまったくないが、イアイラはもちろんマリーカと比べてもテネースの身体能力は劣る。そんなテネースが、真剣勝負をしている二人に割り込むのは、非常に難しい。
『そこは男の子らしく身体を張って。ね?』
にっこりと微笑むアリスだったが、本気で言っていることをテネースは疑っていない。
反射的に無理だと言い返しそうになったテネースだったが、ぐっと言葉を飲み込み、立ち上がる。
イアイラの目的はテネースだ。本来、マリーカがイアイラと戦う理由は存在しない。それでも今戦っているのは、マリーカがテネースを守ろうとしてくれたからに違いない。なら、ここで静かに様子を窺っているなど、できるはずもない。
「二人とも、やめて!」
声を限りに叫ぶ。額の痛みがぶり返したが、口元をぎゅっと引き締め耐える。
「テネース?」
「テネース君!?」
ほぼ同時に二人がテネースを見た。
汗ひとつかいていないイアイラも、滝のような汗を流しているマリーカも、どちらも驚きと安堵の入り交じった表情を浮かべている。
「ええと、そのう……」
二人が争うのを止めるという目標は達したのだが、この後どうすればいいのか、まったくわからない。困り切ったテネースはちらりとアリスを見るのだが、アリスはなんとなくおもしろくなさそうな顔で見返すだけで、知恵を貸してくれる様子はない。
「テネース、大丈夫なの!?」
「テネース君、怪我はしてない?」
マリーカとイアイラが、同時にテネースへと一歩を踏み出し、止まった。険しい目つきを交わすと、ゆっくりとお互いの武器を持ち上げ始める。
「ちょ、ちょっと待って、駄目、やめて」
一触即発の気配を漂わせる二人の間に割り込んで、テネースはマリーカとイアイラを一瞥する。
「でもテネース、この女――」
「テネース君がそう言うなら」
不満顔のマリーカとは対照的に、イアイラはいそいそと鞭をしまい始めた。
「ず、ずるい!」
イアイラの変わり身の早さに目を丸くしたマリーカも弓を肩にかけ、矢を矢筒に戻す――二十本近くあった矢も、残り三本まで減っていた。
再度の武力衝突を回避できた安堵に、テネースは大きく息を吐いた。が、すぐに表情を引き締め、頭一つ分は上にあるイアイラの目を見上げた。
「イアイラさんがいるってことは、そのう」
「ええ。異端審問官として、テネース君を捕まえに来たのよ」
笑顔を曇らせることもなくしれっと答えるイアイラに身をこわばらせつつ、テネースは辺りを窺った。ギュアースとネイオスの姿はなく、離れた所で戦っているような物音もしない。
「お兄ちゃんなら、その女の弟の相手をしてるわ」
「今頃はもうネイオスが勝ってると思うけどね」
「お兄ちゃんが勝ってこっちに向かってるに決まってるでしょ」
マリーカはイアイラを睨みつけるが、赤毛の異端審問官は目を合わせようともせず、テネースを見ていた。
「だからマリーカが僕を守ってくれていた……」
「あたしが好きでやったことなんだから、テネースがそんな顔する必要ないでしょ」
暗い顔をしかけたテネースの背中を、マリーカが軽く叩く。
イアイラはそんなマリーカを一瞬睨んだが、何も言わなかった。
『気を失ってたのはテネースのせいじゃないし、今は後悔したりマリーカに感謝するよりも、この場をどう切り抜けるか考えた方がいいわ』
「うん……でも、切り抜けるって言っても、どうしたらいいか」
アリスの言葉に頷いたテネースは、ちらりとイアイラを見た。きつめの顔のイアイラだが、今は笑み崩れてテネースを愛でている。双子の弟の鋭い目で睨まれるより、微笑むイアイラに見つめられる方がテネースにはきつい。
「難しく考える必要はないわよ。テネース君は私と一緒に聖都に行く。たったそれだけで万事解決よ」
「なんにも解決しないわよ。異端者っていうだけでどんな目に遭わされるかわかったもんじゃないわ」
「あなたが考えてるようなことは何一つ行われないわよ。ただ、私と一緒に神がいかに人間のために力を振るってくれているか、そんな神に人としてどう応えればいいかを学んでいくだけだから」
呆れたように肩をすくめるイアイラを、マリーカが鋭い眼差しで射貫く。
「拷問を伴う再教育よりも、その方がよっぽどテネースの害になるわ」
「異端者に拷問をしているなんていうのは迷信よ。仮に異端者がテネース君じゃなくてあなただったとしても、拷問なんて一切しない。それは、あなたのお兄さんが異端者とされた場合も一緒よ」
真面目な、聖職者の顔になったイアイラ。しかし、マリーカはうさんくさそうに見上げるだけで、とても信じてはいなそうだった。
「イアイラさんは僕をその……再教育するまでずっと追ってくるんですか?」
二年前、異端者として両親の手で教会に引き渡されたテネースを聖都に連れて行こうとしたのがイアイラたちだった。それ以来幾度となく顔を合わせてきたが、こうしてまともに会話をするのは実は初めてだった。
「そうね。テネース君は是非私の手で再教育してあげたいから、そういうことになるわね。大丈夫、優しくするから怖いことはないわよ」
「その顔が怖いのよ」
ぼそりと呟かれたマリーカの声は間違いなく聞こえていたはずだが、イアイラの笑顔は微塵も揺らがなかった。
テネースはイアイラの返事のごく最初の部分だけを意識に残し、どうするべきか考え始めた。
マリーカとイアイラはもちろん、アリスも黙ってテネースが結論を下すのを待っている。
三人の視線を痛いほど感じながら、テネースは考え続ける。この場を切り抜け再びマリーカたちと旅に出たとしたら、今日みたいにマリーカを危険な目に遭わせることもあるだろう。そもそも、こうしている今もギュアースが戦ってくれているのだ。
テネースがイアイラたちと行くと言えば、少なくともマリーカたちがイアイラたちと戦う理由はなくなるし、悪魔の力に晒されることもなくなる。
だが、その答えはアリスに対する裏切りになる。アリスは、テネースが聖峰アビュドスに行くことを望んでいるのだ。
全員が満足を得られる答えなどないのかもしれない。となると、必要なのは何を、あるいは誰を犠牲にするのか、ということだろう。
「ねえ、アリス。今まで大陸を旅してきて初めて具体的な目的地を言われたけど、アビュドスが僕の旅の最終目的地なの?」
テネースがアビュドスの名前を口にした瞬間、イアイラが驚きも露わにテネースを見た。何か言いたげに口も開いている。が、結局何も言わないまま、唇を閉じた。
『ええ。あなたの、そしてわたしの旅が、アビュドスで終わるわ』
答えるアリスの声はどこかしんみりとしていた。
「そっか。うん、決めた」
頷くテネース。マリーカは心配そうに、イアイラは信じ切った表情で、アリスは穏やかな笑みで少年を見る。
「イアイラさん、僕は聖都に行きます」




