正体
一か月前すれ違った時に感じたサツは、それまでの彼女の常識を大きく変えさせられたほど強烈なサツだった。
今思い出してもまさに鬼神のサツと言える。
「……天凪さん」再び問いかける。
「仁狼でいいぜ、堅っ苦しい」
振り返って親指を立てながらニヤッと笑う姿に多少の違和感はあったものの、彼から感じる気配は、楽しさだった。試合前の緊張感は感じられない。
隣の順崇からも敵意やそれに類するものはない。ただ穏やかな気配が伝わってくるだけだ。
たった今、勝負を挑んできた者と一緒に歩いている者の気配ではない。街のゴロツキなら、視線を感じただけでもたちまち攻撃的な気配に変わり、隙あらば狙おうとする。数か月とはいえ、そんな連中の中にいて行動は分かった。
多少の参考にはなったが、修行の足しになるものは得られなかった。
それに比べてこの二人はどうか。なんの警戒もせず、隙だらけの背中を向けている。よほどの者か、それとも……。
彼女はかすかにサツを発した。
多少経験を積んでいる者なら感じ取れる程度のサツだが、これにすら気づかないようなら後者と考えられる可能性が高い。
「ところでおまえの着てる制服って南寛成高だろ? ひょっとして、わざわざ俺と勝負するためにきたのか?」
気づいたのか、そうでないのか……ヒョイッと振り返って仁狼が尋ねるが、それまでの気配は変わっていない。
「はい。電車を使えばすぐですから」
「すぐって言っても一時間近くかかる距離だろ、授業終わってすぐにこっちに向かっても、それまで俺がいるかどうか分からねぇじゃねぇか」
「いえ、六時間目は自主休講しましたので」
「サボッてまでくるかぁ?!」
大げさに驚く格好をする仁狼という人物に、渓華は不思議な親近感を感じ始めていた。
やがて順崇が大きな門のある一軒の屋敷の前で立ち止る。見上げなければならない表札には、磐拝と書かれてあり、順崇が門の隅に取付けられてあるインターホンを押すと、しばらくして返事があった。
「正門を開門してください」
インターホンに出た相手に、順崇が告げる。
「なんだ? いつもはこっちから出入りしてるじゃねぇか」
通用門を指す仁狼にはおかまいなく、電動式の巨大な重い扉がゆっくりと開かれると、中には広い日本庭園があり、周囲の喧騒から突然切り離された空間が広がっている。
木々の隙間からは純和風の邸宅と、離れと呼ぶには大きすぎる板張りの建物……順崇を先頭に、三人はその建物に向かう。
「すげえな、あの正門が開くなんて、正月しか見たことなかったぜ」仁狼が感心している。
「特別だから」
順崇の言葉に、仁狼も彼女も戸惑ったが意味を問うより先に、離れの前にたたずむ老人に迎えられた。
「おう爺さん、元気か?」
礼節もわきまえず、仁狼が老人に声をかける。
「試してみるかね?」
「絶対にやらねぇ」
仁狼の言葉をにこやかに流しながら老人は渓華の正面に立つ。
「……さて、よくいらっしゃった」
達人だ。はっきり分かる。動き一つ、呼吸の仕方一つとっても隙がない。年齢によって円熟味も増している。
「は、はい。私、北畠渓華と申します」
「そうか……儂は磐拝寿悟朗というて隠居の身じゃ。今は孫の順崇にすべて任せておる」
そう言って順崇を見上げる。
「おまえ渓華っていうのか」
いまさらながら仁狼は大げさに驚く。
確かに彼女はまだ名前を名乗っていなかった。しかし、名乗らなかったとはいえ、普通ここまできて相手の名前も知らないというのは……おおざっぱにもほどがある。
「道場に入り右が更衣室。流衣の着替えはそこで」
順崇が離れを道場と呼んだ。中をのぞくと、畳敷の広い道場以外のなにものでもない場所だ。一礼して、指示された通り右手の更衣室で常に持っている流衣に着替える。
その時、渓華はふと気がついた。なぜ順崇は、着替えがあることを知っていたのか。
野試合をするつもりだったため、制服の下にはジャージを履いていたが、カバンの中には流衣が入れてある。
持っているカバンは学校指定のものではないが、少し大きめとはいえ珍しいものではない。
その上、流衣と呼んだ。高校でも、彼女がなんらかの武術を学んでいることは知られている。
ふざけてかかってきた男子生徒五人を軽く……本当に軽くあしらったつもりだったが、それ以後彼女に対してふざける者だけでなく、気安く話しかけてくれる者も極端に減った。
それがより一層、彼女を鍛練の道へと進ませる原因の一つになったことは間違いない。
しかし、どんな武術なのか本当のことを誰にも教えたことはないし、また、知られるような技を使う機会さえなかった。
普通、武術着と言えば道着などと呼ぶ。流衣と呼ぶのは彼女自身、自分が修得した武術でしか聞いたことがない。
道場の中心で、渓華は仁狼と向き合って座っていた。
彼女は自分の流衣を身につけ、仁狼はこの道場の弟子の一人であるという、円山と名前の入った道着、あるいは流衣を着ている。
自分の流衣がないというのは、仁狼はここに通って武術の指南を受けているのではないのか? 道場の上座には、流衣に着替えた寿悟郎と、順崇が同位で座しているのも気になる。
すべて任せたと言われたけど。
渓華の頭に様々な憶測が流れたが、今は勝負に集中することにした。
順崇の腕が上げられ、渓華と仁狼が立ち上がる。
無言で降り降ろされた腕が合図だった。
立ち上がった二人がたがいに間合いを取り始めた時、渓華の構えを見た寿悟郎の目が大きく見開かれ、額から汗が一筋流れ落ちる。
「……や、やはり。よ、順崇……承知の上か?」
「はい」
眉一つ動かさず、彼は答える。
「彼女の流派は、我が瑞帋流にとって一三〇〇年に及ぶ……怨敵」