巡り逢い
「もう大丈夫なの? 渓華ちゃん」
「どうした渓華? 暗い顔して。そんな顔してるとまた順崇が心配するぞ」
仁狼と鈴乃も何も変わらず笑いかけてくれる。
「はい……」
「渓華ちゃんが入院している間、順崇ちゃんずっと修行に身が入らなかったみたいだったからね」
遠慮がちの鈴乃の言葉こそが、渓華にとって気がかりなことだった。
同じテーブルに座り、マスターは渓華に一杯のヌワラエリヤ紅茶をそっと差し出す。
店内に流れる曲が三人の周りを流れた。
「俺たち、悪いことしたな。すまない渓華」
「順崇ちゃんと初めてデートできるようにしたことが、あんなことになるなんて」
「あっ、いいんです。それは。私としてもいい修行になりましたから」
「しかし、その、もし俺もコンサート会場にいたのならなんてこと、今さら言えねぇけど」
仁狼が言葉を濁す。
「気にしないで下さい。仁狼さんが来られていたら、鈴乃さんも来られていることになります。そうなったら大変なことになっていたと思いますから」
気丈そうにいう渓華だったが、仁狼も鈴乃も慰めの言葉を思いつくことができなかった。
「……ただ気がかりなのは……この傷なんです」
渓華が声を落として続ける。
「順崇さんの片腕が使えなくなったのは、私がレイネイの服に流された電流に気づかなかったせいです。
かばったと言っても、あの時点で私が戦力から脱落したことの方がずっと順崇さんを危険な目に合わせることになりました。
でも順崇さんは、この傷は自分のせいだと思われています。そして自分を責められています。
順崇さんは私のせいで目に見えない心の傷を負われたんです」
順崇はもちろん本当のことは誰にも言っていない。
「それで順崇の道場に行くの避けてたんだな。あいつ口には出さねぇが気にしてたぞ。
もう治ってるはずなのに渓華が来ねぇってな」
「はい。今は見えないのですが、流衣に着替えると首筋あたりの傷がはっきり見えるんです。
そんな外見上のことを順崇さんが気にされないことは分かっています。私自身は修行でついたものと割り切れますし、実際レイネイと闘ったことはとてもよい修行になりました。
腕の数の違いはありますが、参考になる部分は取り入れるつもりです」
「まあな、順崇もその意味では参考になったと言っていたが」
継承者がなく、消えゆく運命にあった胼彎は、遠い異星の人間に引き継がれた。ある意味レイネイにとって本望だったのかも知れない。
「……でもこれを見るたびに一層自分を責められます。私は順崇さんを苦しめたくはありません。
それならいっそこのまま会うことをやめ、それぞれ道を別れて修行を続けた方がいいのかと」
うなだれて話す渓華の紅茶からは、すでに湯気は消えていた。
「渓華。おまえそれだけ順崇のこと分かっているくせに、あいつが一番悲しむことしようとしているんだぞ?」
「そうだよ渓華ちゃん。このまま会えなくなって本当にいいの?
そうなったらその傷は、一生背負っていかなくちゃいけない過去の不幸だけで終わるし、順崇ちゃんの心の傷だって、同じように一生癒されることのない深い傷になるんだよ」
「あいつのことだ。そんなことになったら自分一人で責任感じて、仕事も辞めて一生山籠りでもしかねねぇぞ。死ぬまで責任感じ続けてな」
「そんな……私、そんなつもりは……これはすべて私の責任です。順崇さんにはなんの責任もありません」
「ったく。順崇も順崇だし、おまえもおまえだな。どっちの責任でもないものを勝手に作り出して、自分のことにしようとしやがって。
おまえらはあの時考えられる限り、最高のことをしたんじゃねぇのか? それとも自分だけは助かろうとして危険なことを押しつけたっていうのか?」
「違います! それだけは絶対にありません!」
仁狼の言い分に、渓華は思わず立ち上がって叫んだ。
「おう、分かっている。詳しいことは順崇からぜんぶ聞いている。
よく二人とも生きていてくれた。それだけでもありがたいんだ」
渓華の叫びに、穏やかな……順崇のような口調で、仁狼が渓華を見つめる。
鈴乃の目も同じことを語っていた。
「……はい」
力なく再び渓華は椅子に座り込む。
「あのね、順崇ちゃんが気にするのは、渓華ちゃんの身体の傷じゃないの……」
ひと息ついて、鈴乃が話し始める。
「順崇ちゃんが気にするのは、渓華ちゃんが身体の傷を気づかう順崇ちゃんを苦しめていると思って苦しんでいる渓華ちゃんの心の傷のほう。
順崇ちゃんは身体だけじゃなくて、そのことで心にもっと深い傷を負った渓華ちゃんのことを心配するんだよ」
その言葉に渓華は強いショックを受けた。傷つけてしまうと思い込んでいた順崇は、そう思い込んでいることを心配している。
もしここで順崇の元から離れてしまえば、おたがいの心はもっともっと深く傷ついてしまう。
「それに、おまえの身体の傷だけどな。あいつはほんとに気にしないぜ。
さっきからの話だと、まだ順崇から聞いてなかったみたいだから……」
「仁狼ちゃん、それは……」
鈴乃が仁狼を見る。
「おう、この際代わりに言ってくれってさ」
「え?」
「すっかり冷めたようだが、お替わりはどうかな?」
三人の間にマスターが割り込んできた。
長いつき合いで、こんな時のお替わりはマスターのおごりとはいえ、彼が話の途中に割り込んできたのは初めてのことだ。
仁狼と鈴乃の前に新しいコーヒーが置かれ、渓華のまだ口もつけていない紅茶も取り替えられ、誰もいないはずの彼女の隣にも、もう一つ……。
「よ、順崇さん!?」
いつの間にか、渓華さえ気づかない間に、隣に順崇が座っていた。やはり仁狼とマスターは気づいていたのだろうか。
穏やかな雰囲気を漂わせ、いれたての紅茶、順崇用のダージリンのセカンド・フラッシュのストレートティをひと口飲むと、いつものようにフワッと心地いい雰囲気が彼の周りから漂う。
その雰囲気に、渓華も紅茶をひと口。
いつもと同じ味だった。
「これは仲間内でも俺と鈴乃しか知らねぇことなんだが」
仁狼から教えられた話は、にわかに信じられるものではないが……言われてみれば確かに思い当たることばかりだった。
順崇は瑞帋流の鍛練によって鍛え上げたサツによって、人なら人、美術品なら美術品が出す雰囲気・本質そのものを感じ取っている。
彼がこれほどの若さで一流と言われる美術品鑑定眼があるのはそのためであり、そうならざるを得なかったサツの大きさと繊細さこそが、瑞帋流をここまで極めることができた理由とも言える。
そしてそれは、なぜ普段の彼が表情に乏しく、他人に譲り、自分を出さない性格になったのかのすべてを説明するただ一つの理由でもあった。
「だから、傷なんて気にならない」
微笑む順崇が、紅茶をもうひと口飲んだ時、同時に渓華も飲んだ。少し塩味になっていた。
仁狼の言う通り、どちらの責任でもないものを自分の責任にすることで、相手に、より大きな責任を押しつけようとしていたのかもしれない。
知らなかった。気づくことさえできなかった。何でもないことのように、いつもよりもっと細めて微笑む彼の目は、生まれつき見えなかったのだ。
「……でも」
いつになく話す順崇を見る仁狼と鈴乃が息をのむ気配に、渓華も顔を上げる。
「渓華さんが病院で目覚めた日から、少し変化があった」
閉じていることに見慣れた彼の瞳が、うっすらと開いている。
「まさか……順崇ちゃん目が?」
「鈴乃の親父が診断して絶対に……いや待てここは疑うところじゃねぇ! ひょっとして順崇、俺たちが見えるのか?」
「輪郭ていどなら」
少し首をひねりながら順崇はうなずく。
「うお! すげえぜ!!」
「良かったあ! そうだ、お父さんに連絡して、すぐ診てもらえるか尋ねてみるよ」
騒ぐ二人に彼は手をあげて制する。
「これはまだ、総師範にも。騒ぎにしたくない」
「そうなのか? うおお、祝いてぇ!」
「順崇ちゃんがそう言ってるんだもの、しょうがないね。どのくらいで回復しそう?」
「サツの流れから、ひと月もあれば」
鈴乃の問いに答えながら、順崇は渓華へと視線を向ける。
「渓華さんの姿を見るのは、その時が初めて。だから、それが自分にとっての渓華さんに他ならない」
渓華の頬にいくつもの涙が筋を描く。
知るよしもない遠い過去から背負ってきた、後悔という呪縛から解放された二人。
たがいの歴史の深み……深いからこそ覆せなかった事実が撤廃されるのは、もう、時間の問題だった。




