古事記
彦成は閃いた。
自分にサツは失われているが、利用できるサツが周囲にはある。すでに事切れ、倒れ伏している死者たちの持つ最後のサツ。霊魂やもののけ、妖怪などと呼ばれ、恐れられている最期の者の思い。思い残しというサツ。
サツを操る瑞帋流の継承者であった彦成は、もののけが本当の人間の魂ではないことを知っていた。
残留思念こそ、もののけや妖怪と呼ばれる物の正体であり、それは実際に物理的な作用を起こす。
十種の神宝を振りながら『天地の数詞』を唱えることで、まかった、死んだ人間も生き返るという古事記や日本初紀にはみられない記述……。
江戸時代初期までは記紀と同様に重要な史書として扱われてきたが、一六七九年に将軍侍講の儒学者であった林羅山が全巻の検討もせず、二、三日見ただけで偽書の烙印を押しつけて以来、現在なお異端書とされている『先代旧事本紀大成経』に記された記述からも、現代よりもはるかに霊の存在が信じられていた時代だ。信じるということそのものが、さらに力を具現化させる。
……鬼火を見て思いついたこと。
……すでに死んだ人々の力を借りること。
そのことから生み出された技。
周囲に無数に転がる死体から、思い残しを彼の体内に取り込み始めると、無念や苦しみとともに、それはサツとして蓄えられていく。
しかし、その思い残しには余りにも苦痛や怨嗟が蔓延し、その想念に逆に取り込まれそうになる。
歯をくいしばって堪えながらサツを取り込むと、身体は回復しサツも爆発的に高まった。しかし、邪悪な想念によって思うように支配できない……このままでは、我もまかることになる……。
その時であった。
まるで意思を持っているかのように、先ほどの鬼火が彦成の前に現れて他の想念と同じように彼の中に取り込まれ、彼とともに悪念を押さえつける手助けを始めた。
彦成は鬼火の正体がようやく分かった。
……また、助けられたのか。
五年前の大凶作の年に起こった大規模な一揆に巻き込まれ、危うく命を助けられた代わりに命を失うこととなった妻、おふう。
最期の瞬間まで、彼女は彦成の腕の中で変わり果てた自分の姿は見せたくないと言って、弱々しい腕で彼の目をふさいでいた。
今でも目を閉じると、いくらサツを送り込もうと眼をふさぐ手の指先からだんだん体温が失われていくことに、どうすることもできなかった悲しさ、やり切れなさを思い出す。
『私のせいだから、私のことは気にしないで……』
それが最期の言葉だった。
彼女のせいではない、自分が油断したためにこんなことになったのだ。
後悔してもしきれない責任の重さに潰されそうになりながら、願いに従い目隠しのまま、おふうが命がけで盗みだした流派の争いの歴史を記した書と共に手厚く葬った。記憶には美しいままの姿しか残っていない。
鬼火の正体が分かった以上、こんな悪念に負けるようなことは絶対にできない。愛するおふうが供にいてくれるのだから。
さらに大きくなっていくサツと悪念を感じながら、なぞらえて見たくなった。古事記に曰く、黄泉の国にイザナミノミコトを迎えに行ったイザナギノミコトが見ることとなった黄泉の国での妻の姿。
全身に雷をまとわせる恐ろしい姿に驚き、逃げ出さねばならなかったイザナギノミコト。
しかし彦成に逃げることはできない。
それならば、我も同じ姿となろう。
「布瑠辺……由良、由良と布瑠辺……由良、由良と布瑠辺……布瑠辺、鬼……由良、由良と布瑠辺」
神道の『布瑠辺』を唱えながら、体内に入り込んだ悪念を鎮めつつサツを高めていく。
本来『鬼』は布瑠辺には含まれていないが、死者の霊魂そのものを表すものだ。力を借りるサツ同様に入り込むのならば、それを含めることで悪念そのものも弔ってやろうとの考えたのだ。
サツは体内に、悪念は古事記に記された通り八つに分けて身体のおのおのへ振り分けると、不思議なことにサツと悪念が調和していく。
あるいは神話の時代、すでにこれを行った者がおり、その方法を神話の形として残したのかもしれない。
全身に雷をまとわせた恐ろしい姿の彦成は、敵領主の本陣を目指した。
これ以上、無意味な殺生はしたくない。狙いは敵領主ただ一人。
……お命を頂戴した暁には、その思い残しも我が持つすべての思い残しと共に弔ってやろう。
泥沼の戦にようやく終止符が打たれる夜明け前のことであった。




