叱咤
怪物の一体が渓華に向かって駆けてきた。大型の剣を振り上げ、ジャマだとでも言いたげに彼女に振り払ったその時、怪物は頭に強い衝撃を感じた。
怪物の身長約二メートル。
60センチ以上の身長差がありながら、渓華の踵が怪物の頭頂部に直撃したのだ。
それはただの蹴りではない。踵を怪物の頭を踏み台にしてさらに頭上に飛び上がるための蹴りだ。怪物は突然の衝撃に戸惑っている。
空中で一回転して勢いをつけ、もう一度、頭頂部の同じ場所に膝蹴り。
剣を取り落とし、ふらついた怪物の頭に一度手をつき落下を止め、両膝の内側でこめかみを挟んだまま、勢いをつけて背中側に倒す。
怪物の身体は弓なりに反りかえり、硬い床に後頭部が打ちつけられた。
ほんの一瞬。
人間なら最初の踵蹴りで即死はまぬがれない。オンデアは何が起きたのかさえ分からず、身体をビクビクと痙攣させながら失神した。
怪物たちは息を飲んだ。レイネイの差し金ではなかったのか?
「さあ! 今すぐやめなさい!」
ちっぽけな獲物の発する言葉の意味は分からなかったが、ただの獲物ではないことだけは理解できた。
わずかな変化に気づいた人々の心にかすかな変化が起ころうとしていた。
あんな小柄な女性に倒されるということは怪物は見た目より弱いのではないか? 突然の異常な状況に怯え、パニックになっていたために、これまで気づかなかったのではないか?
群れの一部から、急速にパニックがおさまり始める。
考えてみれば相手はたった七体。
そのうちの一体はやっつけた。
自分たちはこれだけの数がいる。
これだけの数で攻めれば勝てるのではないか?
パニックに陥っていた一匹の虫は別のものに変化しようとしていた。それは変化というよりも勘違いと呼ぶほうが正しい。
『群体』……カツオノエボシのように、たくさんの個体が集まって、一個の生き物のように振る舞うこと。
集団による心理作用は、人間をもそれに近い行動を起こさせる。誰かがここで誰が最初に向かって行くのかを問わなければ、簡単に作用を始める。
レイネイだけがその変化に素早く感づいた。この星の、とくにこの国に棲む獲物は他の国に棲む獲物に比べて一斉行動を取りやすい。だからこそ獲物として選んだのだ。
「気をつけろ。獲物の様子が変わった」レイネイが促すと同時だった。
「やっちまえ!」誰かの叫び声が行動を与えた。
5000の個体からなる一匹の生物は、六体の怪物に襲いかかる。それは一方的な大量虐殺から圧倒的な集団殺戮に変わるはずであった。
個はあくまで個でしかないことを理解していない集団。数は確かに5000。だが実際に怪物に対して直接攻撃することができる者は、10人にも満たない。
一時的な、発作的な感情だけで行動しているため怪物を攻撃する時でさえ、たがいがジャマになり、興奮状態のまま再び仲間同士で争いを始める者もいる。
レイネイは押し寄せる獲物の手が触れる瞬間、二階席に飛び上がり、先頭を走っていた一団は不意を突かれ、転んだところに狂奔した大衆がなだれ込み踏み潰される。
さらにそれに足を取られた者も同じ運命をたどる。
「ククク……カカカカ」
……面白い。こんな楽しいことは久しぶりだ。これを応用すると、さらに面白い趣向を生み出せるかもしれない。
階下を見下ろすと、仲間たちが押し寄せる獲物を楽しそうに次々始末していく。カウガイなどは歌まで歌っている。
こんな愉快な趣向を作ってくれた、せっかくの獲物は……先ほどまで奴らのいた場所にも、獲物の群れが押し寄せ、姿は見つけられなかった。
……惜しいことをしたな。ワシが直々に闘いたかったが。
集団は五分とたたずに個としての無力さを思い出した。
いくら押し寄せても無残に殺されていく事実を見せられては、恐怖が再び頭をもたげてきた時は、すでに三分の一の数を減らしており、それだけの犠牲を払って得た成果は、七体の怪物のうち二体……。
失神していたオンデアと、最初に押さえ込まれていたケウナエは、防護服のおかげで原形だけは留めている。
このきっかけを作ってくれた二人は……自分を取り戻した集団は二人の姿を探す。しかし、すでに山と積まれた無残な死体に変わっているのか、どこにも見あたらない。
「ククク……なかなか楽しめたぞ。虫ケラども」
二階席から見下ろすレイネイの声が人々の間に流れ、深く暗い絶望感が人々を襲う。
「さて、続きを始めるか。生き残るのは誰だ?」
タイシエ、カウガイ、ラオノイ、エンギウが一斉に笑う。ケウナエとオンデアが死んだ事は、もう気にも止めていない。
そしてまた人々はパニックに陥り始め……
「みなさん! こっちです!」
凛とした声が会場内に響き渡った。
レイネイたちも含め一斉に声のした方を見ると、拡声器を持つ小柄な女性がいた。手にはどうやったのか壊れた絢爛を下げている。
間違いない。オンデアを倒した女性だ。
「ここからなら外に出られます!」
救いを求め、人々が先を争って走りだすと、
「危ないでしょう! ちゃんとならびなさーい!」
再び大声で、しかも慣れた口調で叱る声に人々は少しだけ……ほんの少しだけ人間らしさを取り戻せたような気がした。




