性格
二人の組み手が終了した。
「あ、あの。わ、私にも瑞帋流を教えて頂けないでしょうか」
それが受け入れられない願いであることは承知していたが、押さえきれない衝動のまま、渓華は寿悟朗に申し出ていた。
だからと言って鐔瓊流を捨てるつもりはない。同様に瑞帋流も修得したいと本気で思ってのことだ。
「うむ、それを決めるのは儂ではない。先ほども聞いた通り、今の瑞帋流は師範である順崇の判断次第じゃ。
儂は総師範と呼ばれてはおるが、しょせん名ばかりじゃよ」
寿悟朗はかぶりを振る。
「お願いします! 私にも瑞帋流を教えて下さい!」
演舞が終わり、青畳に端座している順崇の前に進み出た渓華が深々と頭を下げる。
しかし、順崇は黙ったまま困惑の表情を浮かべている。
「いいんじゃねぇか? こいつこれだけ強いんだから、すぐ憶えるだろうし、おまえの目指してる新しい瑞帋流にも幅が出るだろ」
仁狼はドカッと胡座をかいて、人ごとのように順崇に言った。
それにも順崇は答えず、細い目はおそらく閉じているのだろう黙考したまま身じろぎ一つせず時間がすぎる。やがて……。
「……教え……られない」
ようやく口を開いた順崇の答えは、最後まで迷っていたかのようだが、予想通りの返事だった。
「やはりかつて一族の敵だったということに」
「本当は修得してもらいたい。両方を修得した時、さらに新しい流派が生まれるだろうことにはとても興味はある……その前に」
順崇は姿勢を正し、渓華にまっ直ぐ顔を向ける。連られて渓華も背筋を伸ばし、順崇を見返す。
「修得性の難しさから歴史から消えた鐔瓊流は、もう極めたと?」
鐔瓊流を極めたかどうか。
確かに彼女は、今でさえ鐔瓊流の歴史に名を残すに恥ずかしくないほどの腕だろう。しかし、奥義を知れば知るほど、奥の深さにもがいていることに間違いない。鐔瓊流でやらなければならないことは、まだまだある。
「どちらも片手間に修得できるものじゃない」
順崇のいう片手間が、『噛った程度』を意味していないことは充分すぎるほど分かっている。
生涯をかけて。それこそ命懸けの鍛練を繰り返し、少しは納得できるようになるかもしれない。それほどの奥深さを持った武術なのだ。
「だから、鐔瓊流を極めて欲しい。そのためなら瑞帋流は全面的に協力する」
「分かりました。私は鐔瓊流を極めます。そして順崇さんが瑞帋流を極めるためなら鐔瓊流は全面的に協力しますから」
「これまで以上にがんばる」
この日、両派の歴史を綴る書には正式に争いの歴史が終わったことが記された。
実に一三〇〇年ぶりのことだった。
そして渓華は一人ではできなかった鍛練と充実した組手ができることもあり、頻繁に瑞帋流の道場にやってきた。
最初はとてもかなわなかった順崇とも互角の組み手ができるようになり、次第に瑞帋流の道場に入り浸るようになっていった。
あれから七年たった今では渓華は保育園の保母をしている。鐔瓊流武術どころか、格闘技のことさえ口にしないようにしているため、保母さん仲間では『小柄だけど力持ちの先生』になっている。
実際、子供たちの相手は毎日が真剣勝負だ。
心身ともに大いに修行になっている。
二人の会話は、第三者には理解しようのない流派の理論的追求におよんでいる。この七年間それぞれの流派を極めるためにたがいに技を磨き、競い合ってきた。高度なライバルの存在が二人をそれまでよりもはるかな高みに押し上げていた。
「……ところで順崇さんは、アシャッルのコンサートなんか興味ありますか?」
話がそろそろ終わりに差しかかった頃、渓華は遠慮勝ちに、この電話で一番言いたかったことを話し始める。
アシャッル。それは、ここ1、2年で人気、実力ともに伸び上がってきたグループで、広い年代層に受けている音楽グループの名前だった。
「……嫌いじゃない」
「あの……私、知り合いから今度のアシャッルのコンサートチケットを二枚もらったんですけど……順崇さんと一緒にどうかなと思いまして」
「渓華さんの友達にもファンは多いと思うから、その人を一緒に誘えばいい」
鍛練をしている時以外の彼は、信じられないほど穏やかな性格をしている。
すべては他人から先。電車の座席は基本的に座らず、道を歩いていてもすれちがう人や自転車、車を先に通そうとし、買物のレジの順番待ちさえ他に誰もいなくなるまでジッと待とうとする。
とにかく自分は後回し。他人を押しのけて、自分を主張することは決してない。それがかつて、彼のことを知らない者からウドの大木と呼ばれていた原因だった。
時に渓華もそんな彼の性格にはがゆさを感じたこともあったが、今ではもうそんなペースに慣れてしまっている。気づかないうちに、自分も同じことをしていることがあり、指摘されて我に返ることもしばしばだ。
「他の人は全員誘いました、残るは順崇さんだけなんです」
頼むように渓華は言った。
「順崇さんが来ないと他に誘う人がいないんです。私も一人ではいけません」
切り札と呼ぶべきセリフだ。
そう言わなければ絶対に誰かに譲ろうとするが、そう言えばどんなことがあっても来てくれる。彼の性格を知り尽くしている鈴乃のアドバイスだった。
鈴乃だけでなく、もはや誰の目から見てもたがいを必要としていることは明らかな二人だったが、どちらもそれを言い出す性格ではない。特に順崇からは絶対にあり得ないことで、周囲の者をやきもきさせていた。
この七年、この二人は組み手以外にデートすらしていない。
修行の合間に近くにある通いつけの喫茶店に行くことはあるが、そこは仁狼たち親しい友人たちとのたまり場のようになっていて、二人きりの空間ではない。
もちろん時には二人きりになることはある。修行に熱中するあまり、歯止めが利かなくなって鍛練が深夜まで及ぶ時くらいは。
「行こう」
相変わらず鷹揚のない、穏やかな口調で答える。彼は決して大声を張り上げたり怒気をはらむ言葉を話したりすることはない。
自分を押さえ込んで、そう振る舞っているわけではなく、彼にとっては他人に譲ること同様、それが当たり前だった。
電話を切って、再び順崇は胡座をかいて座り、また意識の中に深く潜り込んでいく。
今度の組手には渓華を選んだ。
彼の周りを包む空気が張り詰める。
一匹の蚊がかすかな二酸化炭素の匂いを嗅ぎつけ、窓の隙間を拭ってその部屋に侵入した。
他の部屋は猛毒の臭いがたちこめ、危険を犯してまで侵入するにはリスクが大きい。しかし、その部屋だけには猛毒の臭いはない。
侵入できた段階で、種族保存の糧を得るための七割が成功したと言える。
だが、それは叶わなかった。
目の前の板張りの床に胡座をかいて座っている相手に近づけないのだ。
本能がそれを拒否している。
この相手には近づくな、触れるな。
あきらめざるを得ない。




