哀、相合い傘
学期明けテストも終わり、本格的に第二学年の授業が開始された。が、現状は惨憺たる有様だ。
授業は受けながらも、決して集中しているわけではない。皆上の空で、心ここにあらず、といった様子だ。
目の前の黒髪の少女もそうなのではなかろうか。
原因はこの空模様にある。
今日も太陽は顔を見せず、空は濁った雲に覆われていた。
おまけに湿度が高いのか、ジメジメしていていやな感じだ。今にも雨が降り出しそうなこの感じはどうしても好きになれない。
黒髪の少女、黒瀬瑠璃は、なんとか授業に集中しようと、時折手の甲をつねったり、両手で頬を軽く叩いたりしている。そうしてほのかに赤く色づく肌は、やけに艶めかしく見えた。
しかし、このように真面目に授業を受けている、あるいは受けようとしている者などはほんとうにごく少数で、大半の生徒はやはりボンヤリとしている。
生徒の大半が集中していない授業などさして意味がないわけで、授業開始直後は公式を呪文のようにブツブツと唱え、次々と問題を解いていたヒゲが特徴的な男性教師も、俺達の関心が自分の授業に集まっていないことを悟ったらしく、授業の進行速度は目に見えて遅くなり、牛歩じみたものとなっていた。
いったいこの時間になんの意味があるのだろうか。たぶんこの教室にいる全員にそんな疑問が浮かんだであろう丁度そのとき、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
ようやく昼休みだ。
「ほら、雄大起きろ。昼休みだぞ。購買行こうぜ?」
「……ふん、ふが? ……うン。……おお涼、おはようさん。今何時……って昼か。じゃあ購買か」
「ああ、ほら、勇気も。こっちに戻ってこ~い! 購買行くぞ~」
「……っは! た、高井君か。び、びっくりしたあ」
いったいなんだと思ったんだろう……?
ぐーすかぴーすかいびきをかいて、授業中常に周囲に騒音被害を発生させていた雄大をたたき起こし、まだどこかポーっとしている勇気を現実世界に帰還させ、購買に急ぐ。
この学校の購買部は、飯に飢えた男子高校生の腹を満たすために、大量に物資を調達しているらしく、昼休み開始直後に買いに行かなければ食いっぱぐれてしまうというような事態にはならない。
ただし、腹を空かせた男子高校生の群れは、おまえらはハイエナかとツッコミを入れたくなるほどの勢いで食い物に向かって殺到するので、昼休みが始まるとすぐに向かうか、奴らが去った後に向かうかしなければ、むさ苦しい男共の暴風雨の中で飯を買い求めることになる。
男共が去った後は、さながら大嵐が過ぎ去った直後のような有様で、在庫がないということはないものの、人気の商品は余さず持って行かれてしまう。
つまり、何が言いたいかというと、購買で好きな物買いたかったら急がないとヤバい、ということである。
「……混んでるなあ」
見渡す限りの黒、黒、黒。
それも、黒瀬瑠璃のような純粋な、何物にも染まらぬ黒ではなく、どこか安っぽい黒色だ。
ときどき濁った茶色や、くすんだ赤色も見えた。配色が小学生のパレットの様。
加えて、男子の汗臭さが混じり合い、なんともカオスな空間が形成されていた。
この空間、女性は耐性がなければ耐えられないだろう。改めて購買のおばちゃんはすごいなと思いました。
この中に入るのか……。いやになってくる。
男子高校生やめようかな……。
閉口しつつも、なんとかハイエナの群れに押し入り、食料を求める。
小銭を握りしめ、焼きそばパンに狙いを定めて手を伸ばす。
指が脂染みた袋に触れる。
取った! と思ったが、俺の右手はむなしく空を切っていた。
では、焼きそばパンは何処へ? と視線をうごかすと、
そこには。
柔らかな薄緑があった。
薄い緑が舞う。
きれいな、草原の緑だった。
純粋。
生きた、自然のグリーン。紛い物では決してたどり着けない。
緑色の境地が、そこにあった。
「もしかして……」
そう思い、もう一度草原の緑を見ようにも、どこへ行ってしまったのか、二度とあの薄緑を見つけることはできなかった。
「涼。パン買ったか~?」
雄大の言葉でこの場における当初の目的を思い出す。
俺は手近にあったパンを二つほどひっ掴むと、男共の群れを抜け出し、雄大達の元へ向かった。
教室には黒瀬瑠璃がいたので、精霊の話は後回しにするのが賢明だろう。
彼女は、コンビニで買ったと思われるパンをひとり咀嚼していた。
俺達も自分の席に座ると、それぞれの食料に取りかかる。
黒瀬瑠璃は時折お茶で喉を潤しながら、誰とも話すことなく、小さく小さくパンを侵略していく。
……おかしいな。
彼女は確かに、超の付くほどの美少女ではあるが、決して取っ付きにくい子ではない。むしろ、昨日の会話から鑑みるに、てっきり友達は多いものだとばかり思っていた。
いったいどうなっているのだろうか?
自分が精霊であることに引け目、とまではいかなくても、他の人間との距離を感じているのだろうか?
「……分からないことだらけだ」
やはり他人の心情を推し量るのは難しい、というか無理だ。
そんなことよりも、どうすれば彼女を落とせるのかを考えた方が有益にはたらくだろう。
彼女の小さな背中が、やけに印象的だった。
俺はパンを食べている間、ずっと黒瀬瑠璃を眺めていた。
……弁明させてほしい。
黒瀬瑠璃は俺の攻略対象なのだ。
ただでさえデータが中途半端だというのに、昨日はまったく知らないイベントが起こった。今後も確実に起こるだろう。適切な対処をするには、彼女の一挙手一投足を見張る必要があるかも知れないのだ。
彼女の攻略の糸口を掴むためには、些細な変化も見逃すわけにはいかなかった。
黒瀬瑠璃は何を思ったのか窓の方へ顔を向けた。俺もつられて窓を見ると、幾粒もの水滴がナメクジのようにガラスに張り付き、下方にゆっくりと垂れていくのが見えた。
次いで、雨の臭いがした。
コンクリートが濡れたときに発する独特の臭い、それが雨の臭い。幼稚園の時分に母親にそう説明して笑われた記憶がある。
雨の日は、いつも小さな頃を、まだ何も知らないけれど、代わりにすべてを持っている時のことを思い出す。
いつもは遠くに向かう思考も、雨の中では、自分の内側にしか向かって行かない。
だから俺は、雨がきらいだ。
雨足が強まる。
まるで地面に白の弾丸を打ち付けているかのようだった。
黒瀬瑠璃の方に向き直ると、彼女も何か思うところがあるのか、いつもと違う表情をしていた。
雨の下ではすべてが隠される。
黒瀬瑠璃の表情も同様で、はっきりとした感情は読み取れなかった。
けれどもなんとなく、しまったと、顔をしかめているのではないか。
そう思った。
あれからさらに二時間の授業を耐え抜き、ようやく終業のベルが鳴った頃、もう一度窓を見た。
窓は閉まっている。
ガラス越しに見える雨足は、先程よりかは幾分かマシになったものの、それでもまだまだ勢いの衰えない透明な軍隊の行進であった。
カバンから折りたたみ傘を取り出しつつ、雄大と勇気に声をかける。
「おまえら傘持ってきたか?」
勇気は持ってきていないようだが、雄大には母親(仮)に無理矢理持たされたかなり大きめの傘があるらしいので、なんとか三人ともずぶ濡れドブネズミにはならなくて済みそうだ。
昨日も話したようなバカ話をしながら、廊下を歩いていくと、校門で意外な人物を目撃した。
「ね、ねえ高井君、あれって……」
「そうだな。どうしたんだろう?」
そこには、黒灰色の空を見上げ、物憂げな表情を浮かべた黒瀬瑠璃がいた。
…………またか。
またなのか。
ゲームには、このようなイベントはやはり存在しない。
「いったい、どうなってるんだよ……」
「ど、どうしたの、高井君?」
勇気にまで心配されてしまった。
……もはやため息すら出ない。
雄大は何も言わないが、瞳には疑念が潜んでいるように思えた。
言うか、言わないか。
でも、まあ。
……二人にはいずれ知られることだろうし、今の内に白状してしまうか。
「いやな、ここ最近、というか、黒瀬瑠璃に関してなんだが、おかしいんだ。ゲームにはまったくなかったイベントが起こってる。いったい何が起こってるんだ?」
それを聞いた勇気の表情が青ざめていく。
「そ、それって……。じゃ、じゃあ、他の、僕たちの攻略相手にもオリジナルのイベントが発生して、た、高井君のゲームの知識が通用しない、なんてことも……?」
「うん、起こりうる。今のところはプラスになりそうなイベントが続いているが、この先どうなるかはさっぱりだからな。丁度困ってたところだ」
二人して頭を抱える。
ここで、いままでずっと口を閉じたままだった雄大が口を開いた。
「ま、分かんないことずっと考えてても仕方がねえさ。それよりも涼。あれってチャンスだろ? どう見てもあの子、傘がなくて困ってますって顔してるぜ?」
「あ、ああ。それは分かってるんだが……」
分かってはいるのだ、そんなことは。
しかし、先程の彼女の表情が気になる。
もし、彼女の機嫌が今現在最悪だとしよう。その場合、ゲームではどんなアプローチをしても、マイナス判定が下り、バッドエンドに繋がってしまう。
もしこの世界がゲームを、〈セカトモ〉を忠実に再現しているならば、ここは安易に接触しないのが絶対的な正解。大正義だ。
逆に、このイベントが攻略に必須な要素だった場合は? その場合、接触を避けた途端にバッドエンド直行、すなわち自我の損失という最悪に自ら駆け足で飛び込む形となる。
飛び込むか、飛び込まないか。
考えたくもない最悪の展開としては、このイベントが攻略に必須で、なおかつ黒瀬瑠璃の機嫌が悪かった場合だろうか。
接触するしないに関わらずバッドエンド、完全に詰みである。
さすがにそれはない、と思いたい。
「なにブツブツ言ってんだ? あの子を攻略しなけりゃならないんだろ? だったら相合い傘でもしてきたらどうよ?」
雄大が意地の悪い笑みを浮かべていた。
こいつは俺が今大ピンチに陥っていることに気づいているのだろうか?
もし気づいていながらからかっているのだとしたら悪魔の所行だった。鬼だよ、雄大さん……。
けれども雄大の言うことにも一理ある。相合い傘は置いておくにしても、攻略しなければならないということに違いはなかった。
相手の機嫌が悪いから接触しない。たったそれだけで自我を失い、自分を殺してしまうなんて、あまりにも愚かではないか。
それに、わずかながらの担保として、これまで、ゲームのレールから外れたイベントはすべてプラスにはたらいていた(と思う)。
よし。
二度あることは三度ある。そんな精神で行こう。
「勇気、雄大、行ってくる」
「おお、しっかりな」
「が、がんばれ高井君」
そうだ。女の子とちょこっと会話するだけじゃないか。
何も恐れることはない。
黒瀬瑠璃は、静かに、ひっそりと立っていた。
無限の水流を背景にした、一枚の騙し絵のように。静かに、けれども確かにそこにいた。
俺は一歩一歩彼女に近づき、虚構の絵画を引き裂いた。
「く、くろすえさん!」
……噛んだ。あるある。
いますぐ後ろで大笑いしているであろう雄大に一発お見舞いしてから明後日の方向に走り出したい。
そんなことを考えていると、彼女がこちらを振り向いた。
目が合い、一瞬ドキリとしたが、咳払いをして言い直す。
「黒瀬さん、傘持ってきてないのか?」
「ええ。まさか雨が降るとは……」
「そ、そっか。迎えは?」
「そんなのないわ。……だからこうして小雨になるのを待ってるの」
「なるほど……。家は遠いの?」
「いいえ、そんなに。……雨は苦手なのよ。あまり濡れたくないわ」
……俺はどうして彼女と話し込んでいるのか。ただ用事を済ませばいいだけだろうに。
あくまで事務的に。……よしっ。
「くろ――」
「あのっ」
見事に声が重なってしまった。漫才か。
「……黒瀬さん、先どうぞ」
「……やっぱりなんでもない。高井君こそ、わたしになにか用事?」
首をかしげる黒瀬瑠璃を見ていると、恥ずかしさがこみ上げてきた。
早く用事を済ませてしまおう。
「用事っていうか、……えー、と」
「うん、なに?」
この時の俺は本当にどうかしていたとしか言いようが無かった。
ええい、ままよ! と口を開く。
「お、おまえは今、傘がない!」
「……え?」
ああもう、やけくそだ!
「黒瀬さんは今、傘がない! このままではずぶ濡れだ! 困った!」
「う、うん」
黒瀬は目を丸くしていた。
それはそうだ。事故とはいえ、初対面で押し倒された男にいきなり意味不明なことを捲し立てられているのだから。
正直、通報されるレベル。
いまだ無事なのは、ひとえに彼女の優しさによるものだ。
ならば限界まで、その優しさに縋ろう。
「小雨になるまでここで待つ? それもいいかもしれない。けれど! こんなに寒いところにいたら、明日風邪を引いてしまうかもしれない! それは大変だ!」
「そ、そうね」
「傘がないことが非常に悔やまれる。……やや!? なんとこんなところに折りたたみ傘が! なんて都合がいいんだ!」
「…………」
「だから、い、い……」
「……い?」
「い、いっ……、……。この傘、明日まで貸す!」
「え? え?」
「今日はもう、受け取らないからな!」
……俺はヘタレだった。
いまだ混乱しているのであろう黒瀬瑠璃を尻目に、俺は雄大達のいる昇降口内部へかけだしていた。
そして最後に、捨てゼリフらしきものをひとつ。
「か、必ず明日、返すこと!」
あー、恥ずかしい!
雄大には当然のごとくからかわれた。
「よっヘタレ」
「うるさい。だいたい相合い傘ってなんだ、相合い傘って! おかしいだろ! 普通に考えて女の子引くわ! って、それに乗せられた俺もアホか!」
「た、高井君が混乱してる……。めずらしいね」
「勇気、そっとしといてやれ。あいつ今夜は枕に顔を埋めて悶えるぞ、ぜったい」
思い返してみればみるほど恥ずかしさがこみ上げてくる。なんだ明日までなって、あんなの俺のキャラじゃないだろうが!
あー、もう!
外を見ると、黒瀬瑠璃は丁度帰ろうとしているところだった。ちゃんと俺の傘を差している。よかった。
ここからは、彼女の美しい横顔が見えた。
彼女は今何を思っているのか。
雨の下ではすべてが隠される。
黒瀬瑠璃の表情も同様で、はっきりとした感情は読み取れなかった。
けれどもなんとなく、柔らかい笑みを浮かべているのではないか。
そう思った。
「雄大! 傘がなくなった! 俺もおまえの傘に入れてくれ!」
「悪いな。この傘は二人でいっぱいいっぱいだ。おまえを入れてやる余裕はねえ。ひとり雨に濡れて帰りな。あるいは黒瀬を追いかけて相合い傘してもらいな」
「おまえが濡れて帰れや!」
「はあ? なに言ってんだおまえは。……まあいいか。今夜眠れなくなるであろう涼への、せめてもの情けだ。三人でちと狭くなるが、入っていきな」
「おお! つかえねえゴミだと思ってたがたまには役に立つな!」
「入れるのやめるぞ、この野郎!」
「ふ、ふたりとも、お、落ち着いて……」
勇気の制止も振り切って俺たち二人のくだらない言い争いは続く。
「……なあ涼。二人だと相合い傘だろ? じゃあ、むさ苦しい男の三人パーティが傘に入っている状態はなんて言うんだ?」
「知るか! あ! また濡れた。おまえの体積でかいんだよ!」
いくら大きめの傘といえども、高校生三人の体には布の面積が足りない。
時折傘が大きく逸れ、傘を差していないのと大して変わらないのではないかという疑問が沸々とわき上がるが、たまにはこんなのもいいのかもしれない。
天上からの水流は、火照った体を冷やすのに丁度良い。
雨の日もいいものだ、なんて思ったのは生まれて初めてだった。