テ、テスト
黒色の髪が窓からの風に吹かれてたなびいている。
殺風景な部屋で感傷に浸りながら飯を食らった次の日、俺たち三人は元気に学校に登校していた。
ゲームでは学校内でのイベントが多いため、転校して次の日にはサボるといったようなワイルドな選択肢はとりづらい。
勇気は「異世界に来てまでどうして学校なんか……」とブツブツ文句をたれていたが、全くの同感である。たまには学校をサボって一日中遊びほうけてみたかった。
まあ、仮にサボったとしても、「俺、このままサボっててもいいのかな?」という謎の罪悪感に襲われることは必至なので、こうしてサボりてえなーと思っていられるのも今の内だけなのかもしれない。
そう考えると、今こうして中年女教師のありがたいお話を聞いている時間こそが大変得難い大切なもののように感じられるが、よくよく考えてみれば、社会に出てもきっと会社面倒くせえなーとか考えるようになるのは物理法則の如く確実であるように思えたので、実際のところ、メガネがより陰湿な印象を与える女教師の話を聞くことは、取るに足らないものなのではないか。
再び黒髪が揺れて、フローラルな香りが鼻孔をくすぐる。
学期明けということで、このメガネの教師こと佐藤女史の話と連絡が終わり次第、本日も解散ということになる。
ただし、問題というか、面倒ごとがひとつ。
「明日からは今年度初の試験となるので、長期休暇の成果を発揮できるように、午後は各自で調整に努めて下さい」
そう、明日から二日間長期休暇明けのテストが行われるのだ。
……これ、俺たちも受けなければならないんですかねえ?
ならないんでしょうねえ……。
俺の前の席の黒髪も、「テスト」の一単語を耳にした途端、少しだけ体積が縮んでしまったかのように見えた。
俺の前の席にはこの世界においてもっとも因縁深い美少女、黒瀬瑠璃が鎮座していた。
席が丁度彼女の真後ろだということもあり、彼女の姿は腰ほどまで伸ばした黒髪しか見えないが、後ろ姿を見ただけで容易に想像が出来るその美しさは、俺の視線を捉えてやまない。
そんな彼女も、どうやら学期明けテストはあまりお気に召さないらしい。
一応彼女のために弁明しておくと、黒瀬瑠璃は勉強が苦手なわけではない。むしろ得意な部類に入る。設定では確か、成績は学年トップクラスだったはず。
おそらく彼女も俺と同じように、その場の雰囲気など諸々を加味した「テスト」自体が嫌いなのだろう。
こんなところでも彼女には親近感を抱いてしまう。変なところで似た者同士なのだ、俺たち二人は。
「では、今日はここまで」
佐藤女史の呪縛から解放され、教室が騒がしさを取り戻す。
ふと黒瀬瑠璃に目を向けると、彼女はせっせかと帰りの支度をしていた。何か用事でもあるのだろうか? ゲームの知識にはない行動だった。
「黒瀬さん、もう帰り?」
無言のまま帰らせまいと、少しでも好感度を上げるべく話しかける。
彼女が振り返る際に、黒髪が扇のようにフワリと柔らかく広がり、なんとも甘い、女性の匂いが嗅覚をこれでもかと刺激する。
「ええ。帰って勉強しようと思って」
「そっか、あんま根を詰めすぎないようにな」
「うん、ありがとう。それじゃあまた明日」
彼女は小さく手を振るとすぐに帰宅する生徒の群れにまぎれてしまった。
とりあえずは会話が出来たのでよしとする。
ゲームではこういう時彼女はたいてい不機嫌なので、いつもビクビクだったのだが、この世界では幸運にも俺と会話をするときは上機嫌でいてくれるので助かる。
油断はできないが、この調子でいけばもしかしたら……という希望も抱くことができるというものだ。
彼女との会話の余韻に浸っていると、バシン、と背中に衝撃が走った。
「おまえら仲いいなあ。まったくうらやましいぜ」
うらやましそうな色などさっぱりそこには含まれてはおらず、からかいの純度百パーセントジュースの声を掛けられた。
「うるさい、おまえもなるべく早い内に攻略相手を見つけないと帰れなくなるからな?」
雄大は手のひらを上方向に向け、やれやれだぜといった風のポーズをとると、
「分かってる分かってる。俺も早い内にかわいい女の子を押し倒しとくからよ、おまえもそんなに焦んなくて大丈夫だって」などと言いおった。
……このやろう。
「だからっ、あれは事故だったって一億万回は言って聞かせただろーがっ!」
「ま、そんなこともあったかな。でもなあ、あんなかわいい子が最凶のヒロインだなんて信じらんねえよなあ……」
「ったく、まあ、そうだな。あれの凶悪さも言って聞かせたとおりだ」
今のところ安全圏ではあるが。
ん? そういえば……。
「あれ? 勇気はどこいった?」
雄大は苦笑しながら、
「ああ、勇気ならゲームショップさ」と言った。
ああ。それはそれは……。
「なるほどな、勇気らしい!」
「まったくだ!」
二人でしばらくの間笑い合う。
そうだ。まったくもって勇気らしい。
どうやら異世界に渡ってまでも勇気のゲーム愛は健在らしい。まあ、縋る物が何もない異世界だからこそ、なのかもしれないけど。
いまだ口元に笑みを浮かべた雄大がこう尋ねてきた。
「今日はどうする?」
攻略のことか。
「そうだな……。うん、今日はなにもしなくてもいいか。それよりもおまえは少し勉強した方がいい。新年度早々悪い点を取って、教師に目をつけられると、悪い展開になる。それは避けたいからな」
まあ、嘘だけれども。
いい機会だ。元の世界に戻った時のために、将来のために、雄大もここらで少しは勉強した方がよかろう。
雄大はウグっとのどに飴をつまらせたような声を発しながら、
「涼、なにも異世界に来てまで勉強しなくても……」と言うも、
「そういうのはある程度の学力があるやつが言うセリフだ」と切って捨てた。
「マジかよ……。異世界に来て初めて本気で帰りたいって思ったぜ……」
「まったく、ある程度は教えてやるから。今日の午後は勉強会な」
はあ、とこれ見よがしにため息はつくが、一年後もこうして嫌々勉強を教える羽目になるんだろうなあ、と考え、案外それも悪くないかもな、などと思ってしまう俺だった。
荷物をまとめ、席を立つ。
二人で並んで、校舎を後にした。
今日は太陽が雲に隠れ、暖かすぎる日差しは差し込まないが、時折雲間から覗く光は、たしかに太陽がそこにあることを示していた。
「……そこ、間違えてる。そこ、そこも。……いやそれは中学生レベルだぞ……」
「わっかんねー!!」
……テスト前日の夜は長い。
テストは一日目を終え、二日目も残すところ数学のテストだけとなっていた。
余談だが、テスト初日の雄大のいびきはすさまじく、監督の教師に一発いいのをもらっていたが、体罰ではない。教育的指導を受けていたのだということをここに記しておく。
なにはともあれ、まずは数学だ。
この学校の偏差値は意外にもそこそこ高いらしく、なかなか難しい問題も出題されていた。
後半の問題に差し掛かったが、パッと見解答を思いつかなかった。問題のとっかかりが掴めないものかと頭を捻るがなかなか思い浮かばない。
――ここで一息入れるか。
ふと顔を上げると、丁度前の席の黒髪の女子も顔を上げたところだった。
もしかしたら、同じ問題の同じ場所で躓いているのかもしれない、などと考えると自然と顔がほころびそうになるが、とある出来事に気づいたため、それは中断されることになった。
黒瀬瑠璃が顔を上げる際、思わず消しゴムを落っことしてしまったのだ。
消しゴムは列を挟んだ男子の足元にまで転がった。
手を挙げて教師に訴えようにも、教師はパソコンに必死な顔で向き合っており、気づいた様子はない。 ちなみに教師が見ているのがエロ画像かナニ、ではなくなにかだったらとても愉快だと思う。先生! 学校でなんて物見てるんですか!
ではなく。
今は黒瀬瑠璃の消しゴムだ。
彼女は消しゴムを拾うのをあきらめたらしく、がくっと肩を下げると、渋々といった体で他の問題に取り組み始める。が、突発的出来事に動揺しているのか、何度もビクっ、ビクっとしている。
あ、また間違えたな……。
消しゴムを落っことしてしまったのは、どうやらかなりの痛手だったみたいだ。
「残り十分か……」
小声で呟いたつもりだったが、彼女にも聞こえてしまったらしく、またもビクっと肩を震わせた。正直ちょっとかわいい。
しかし、疑問に思うことがあった。彼女はこんなにもドジというか、おっちょこちょいだったのか? ゲームではそんな素振りはまったく見せなかったため、完璧超人かなにかだと思っていたが……。実際は試験中にシャーペンを落とすこともしょっちゅうだったし、ひどいときはテスト用紙を落としてすらいた。
ゲームとは設定が異なるのか? でも、チョークの魔法使いは、〈セカトモ〉の世界だと言っていたしなあ……。
たしかに嘘をつかれた可能性は残るわけだが、向こうのメリットもわからない……。
――どうしたものか。
時間だけは刻々と過ぎていく。
タイムリミットは迫っている。テストも。ゆっくりとした足取りではあるものの、この世界の脱出期限も。
「ま、女の子は助けなきゃ、だな」
自分のテスト用紙を見る。まあ、こんなところでいいだろう。教卓を見る。まだパソコンを見ている。 ホントにエロ画像なんじゃないの?
よし。
黒瀬瑠璃の肩を静かにたたく。何気に二回目のボディタッチだった。柔らけえ……!
黒瀬は再びビクっと震えた。かわいい。
制服越しにでも伝わる柔らかさと名残惜しくもサヨナラしつつ、当初の目的を遂げることにする。
ビクビクと震える様は眼福なのでもう少し眺めていたかったが、なにぶん時間がない。
消しゴムを彼女のわきから机にうまく乗るように投げる。
黒瀬はまたもビクっとして、目の前に消しゴムが転がってきたのを見て、驚きこちらを見ようとするが、こちらの意図に気づいたのか、結局こちらを振り返ることはなく、消しゴムを両手に乗せて、小さくお辞儀をした。
ここから見えるのは、長く麗しい黒髪のみで、その表情はうかがい知れない。
だけど。
なんとなくではあるものの、俺には彼女が柔らかくほほえんでいる様子が想像できた。
「高井君、消しゴム貸してくれて、ほんとうにありがとっ!」
数学のテストが終わり、佐藤女史の解散宣言を聞き入れた後、彼女はすぐさま振り返り、俺と目を合わせるようにしてこう言った。
「い、いや。もう大体解き終わってたし、黒瀬さんが消しゴム落とすところもみえたから」
「う……」
彼女のドジを指摘すると、恥ずかしかったのか、頬がさっと朱に染まる。
しかし、これはいったい、何が起こっているのです?
ゲームではこんな表情、一度も見たことがなかった。
喜び、どこか興奮の色を秘めたような表情も、こうして恥ずかしがっているような表情も。
「まるで、本当に生きているみたいじゃないか……」
「ん? なにか言った?」
「い、いや、なにも?」
なおも上機嫌の黒瀬瑠璃を見やり、やはり疑問が浮かぶ。
――ここは、ゲームの世界ではないのか?
ゲームでは、絶対にこんなルートはなかった。それは断言できる。
これから先のことを考えると、思わず溜息が漏れる。
「……はあ、分からん!」
「なにがわからないの?」
答えはたしかに気になるが――、
「いや、黒瀬さんておっちょこちょいだなあって思って。人間見た目に依らないものだよなあ」
「え? え!? わたし、そんなにおっちょこちょいに見える……?」
再び羞恥に染まる黒瀬瑠璃。本当に綺麗な顔立ちをしている。
瑠璃色の瞳に、黒色の髪。陶磁器の白に、桜色のライン、頬の赤。
頬の朱色は実に自然に、彼女の美に寄り添い、人形に生命の息吹を与える。そして、彼女は真に完成したのだろうと思わせる。
彼女は今真に「生きて」いた。
「ああ、とっても」
「――っ!? ふんっ!」
赤らめた顔を隠すようにそっぽを向く黒瀬瑠璃を見て、なぜだか俺も赤面しつつ、しばらくは分からないままでもいいか、なんて思ってしまった。