転、校生
2
「……え?」
あまりの驚きに、言語の生成すらままならず、俺の口からは 掠れた吐息が漏れ出た。
ほこりっぽい匂いは消え、代わりに汗臭さと、制汗剤を無理矢理ブレンドしたかのような臭いがした。何とも形容し難い、高校生の教室にありがちな人工的な臭いだった。
隣を見ると、驚愕に満ちた表情を浮かべる勇気と雄大の顔があった。鏡があれば、俺も彼らとたいして変わらない表情を浮かべていることだろう。
よかった。俺が一人だけ幻覚でも見ているのかと思った。彼らの表情から察するに、どうやら俺と同じ光景を見ているらしい。まあ、三人とも幻覚を見ているという線もあるが。
俺たちは夜中、旧校舎のいわくつきの教室、二年三組の扉を、三人で同時に開けた。そして、今現在俺たちが立っているのもおそらく二年三組の教室内部で間違いないだろう。
そこまではいい。
だが、俺たちが突入したのは今やまったく使われることのない旧校舎だぞ? それに夜中だ。
それなのになぜ、どうして生徒がいる?
整然と並べられた机に、一人一人が着席しながらも、時折近くの者と雑談している。彼らは俺たちの学校とは異なるデザインの制服を着用し、その視線のほとんどが、教卓付近にいる俺たちを見据えていた。
そして、彼らの瞳にはどこか期待しているような光が宿っている。間違いない。そう、それは好奇の瞳だ――。
「はい、静かに。彼らが転校生の三人です。では、一番前のあなたから順に自己紹介をしていってください」
メガネをかけた中年女教師といった風貌をした女性がそう告げると、教室がにわかに活気づく。
転校生? 自己紹介? 何を言っているんだこの女は?
頭の中でクエスチョンマークが飛び交う。
周りをキョロキョロと見渡すも、他に彼女と生徒達の視線を集めるモノは存在せず、転校生というのは、やはりと言うかどうやらと言うか、俺達三人のことらしかった。
雄大や勇気も困惑している。勇気に至っては顔中にビッシリと脂汗を浮かべていた。
ここでふと、視線を下に向け、体を見下ろす。驚いたことに、俺の服装はいままで着用していた制服からこの学校の(と思われる)制服に変更されていた。
おかしい。明らかに異常事態だ。
俺は混乱していた。
教室に 日差しが差し込む。差し込んだ光が女教師のメガネに反射し、怪物の複眼のごとく輝く。
「自己紹介を、お願いします」
女教師から催促される。
俺はいまだ混乱を抱えつつも、わずかばかり冷静になった思考で、どうにかこれだけの言葉を捻り出した。
「は、はじめまして。高井涼です。特にこれといった特技もありませんが、仲良くしてくれるとうれしいです。こ、これからよろしくお願いします」
パチパチとまばらな拍手が鳴る。
――まずはこの場を切り抜け、情報収集する必要がある。
――それとも、あの扉をくぐれば、帰れるのか?
そう考えて後ろを向くと、扉が閉まっているのが見えた。
視線を横にずらす。
雄大と目が合った。彼はニヤリ、と笑みを浮かべ、一度大きくうなずくと、
「前田雄大だ。気軽に雄大って呼んでくれ」
自己紹介を、始めていた。彼はどうやら、俺の視線を「おまえも自己紹介やれやオラ!」のようなニュアンスでとったらしい。実際のところは、扉がどうなっているのか。開いているのならば、夜の旧校舎に繋がっているのかどうかを確認したかっただけなのだが……。
尚も雄大の自己紹介は続く。
「――つうわけで、俺達は突然ここに来ることになったんだ。今も正直わけ分かんねえ! だけど、こうして新しい出会いもできたわけだしな……。ま、これから仲良くしてくれや、以上!」
心なしか俺の時よりも大きな拍手を背景に、どこか照れているような笑みを浮かべた雄大を眺める。
前田雄大。身長は百八十センチをゆうに超え、筋肉を無駄なく余すところ無く張り付けたかのような恵まれた体格。頭髪検査の度に地毛だと訴える茶髪、そして、どこか野性味を残した顔立ちはそれなりに整っている。
そんな雄大は、次はおまえだとばかりに勇気に視線を向ける。
雄大の視線を受け止めた勇気は目をぎゅっと閉じ、一度大きく深呼吸すると、つっかえながらも自己紹介を始めた。
「お、お、小野、ゆう……きです。よ、よろしく、おねがいし……します」
小野勇気。身長は百六十センチくらいか。体格は……うん、太っている。それはもう。その代わり、柔和な顔立ちをしている。また、親がどこかの企業の社長をしているだとかで、家は相当の金持ちである。将来性を考えると、俺達三人の中で、勇気は一番の勝ち組だと思う。
「はい、自己紹介ありがとう。では、それぞれ後ろの空いている席にどうぞ」
勇気の自己紹介が終わったところで、メガネの女教師からそう指示が出された。
「席順はどうすれば?」
「お好きにどうぞ」
席順は好きに決めていいらしい。
学校側の配慮かは分からないが、後ろの列の真ん中の机が丁度三人分空いていた。
俺は、とりあえず適当に座って、後で調整するのがよかろうと考え、向かって右側の席に向かって歩き始める。後ろの二人も付いてくる。
足元の 真新しい、よくワックスがけされた床のマス目を数えながら、一歩一歩、いつもよりも小さな歩幅で歩く。
一歩一歩、歩く。
昔一度だけ花屋さんに行ったことがある。そのときに嗅いだことのあるような、どこか懐かしい花の香りが鼻腔をくすぐった。
生徒の間を歩きながら、何気なしに顔を上げる。
するとそこには、
妖精がいた。
どうして、いまのいままで気づくことができなかったのだろう。
宇宙の神秘を秘めたかのような黒髪、肌は、髪と対照的な、白磁のような洗練された美しさときめ細やかさを感じさせる。桜色の唇に、すっと通った鼻筋は一見すると日本人ではないかのようだ。
そしてなによりも、その目の、瞳の、どんな宝石にも劣らない瑠璃色。
それは、――まるで、『セカトモ』の黒瀬瑠璃のような。
完全に、見蕩れていた。
美しい花に吸い寄せられるハチのように。
どのようにして元の旧校舎に戻るのかとか、これからどうするべきなのかとか、何も考えることができなかった。
ただ、その美しさに、見蕩れていた。
また一歩、彼女に近づく。
視界には美しい彼女しか入らない。
あと二、三歩で彼女とすれ違う。
あと、いっぽ。
そこで、俺は、自身の足が何かに引っ張られるような感覚を味わった。正確には彼女の前の席の男子が、カバンを床に置いており、それに足を引っ掛けていた。
次いで、襲ってくる浮遊感。
「――え?」
それは、俺と彼女のどちらが発した 声だったのだろう。
気がつくと俺は、盛大な効果音と共に、彼女を押し倒していた。
とっさに彼女の頭だけでも守ろうと思ったのか、俺は彼女の頭を抱え、ちょうど抱きしめるような形になっていた。
彼女を解放し、その端正な顔を覗き込む。
不幸中の幸いとでも言うべきか、どうやら彼女に目立った傷は無いようだった。
傷がないことは確認したのだが、なかなか彼女の顔から目を逸らすことができない。
改めて、まつげの長さや、顔のシャープなラインを眺めて、もし、神が人間を創造したというのであれば、この娘を創造する際に、一体どれだけの労力と時間がかかったのか、想像もつかない。
くだらない妄想がそこまで及んだところで、彼女の瞳が潤んでいることに気づいた。
その瞬間、俺は神速のスピードで現状を理解した。
転校初日に美少女を押し倒す 高井涼。周りは騒然。
即座に御用になっても、まったくおかしくはなかった。
「あ、あ……」
なんと言えばよかったのだろう。「ごめんなさい」か、それとも「大丈夫?」だろうか?
結果から言うと、何も言えなかった。
その直後に彼女から、強烈な一撃を頂いたからだ。
俺は意識を失った。
意識がなくなる直前「ごめんなさいっ」という声を聞いた気がした。