第二話
海藤と駅で別れた後、俺は日課である本屋に寄っていた。心理学、哲学書や自己啓発本が並ぶ棚の前に立ち、何か好奇心を擽るような内容のものはないか、手にとっては目次にざっと目を通す。学生の分際なので小遣いが限られているため、こうして本屋で立ち読みをすることにしているのだが、店員にとっては迷惑な事この上ないだろう。心のなかで詫びを入れながら、今日も読ませていただくことにする。俺は足の間に鞄をおろし、本格的に読む態勢を整えた。
「ほぅ、これは面白いな。」
俺のハートを見事に掴んだ本は、行動心理学の本であった。行動心理学の立場というのは、人間の自由意志を認めず、その行動は遺伝や環境に因って決定されていくものであるとしている。また、心理学の中でも“心”や“意識”のような主観的対象でなく、客観的観察のできる“行動”にスポットを当てているため、今や欧米では従来の心理学とは区別し、“行動科学”と称している研究機関も多いそうだ。
ページを更に進めると、見覚えのある言葉に目が留まった。
「パブロフのイヌ」。
生理学者イワン・パブロフは、イヌが食物の刺激に対しどのように反射するかについての研究を行なっていた。その実験の最中、毎回食物を与えていた係の者が部屋に入ってくるだけでイヌの唾液腺が反応していることに彼は偶然気づいたという。本来の無条件反射では、イヌが特定の人物に反応して唾液腺を分泌することはないので、これを「条件反射」と名付けたそうだ。人間も同様にあらゆるものに条件付けされているのであり、例えば梅干しやレモンを見るだけで唾液が出てきたりするのも条件反射の一つであるとされる。
「人間は知らないところで、様々なものによって条件付けされているのか。広告やCMなんかにも惑わされていそうだし、ある意味恐ろしいことなのかもしれないな……。」
ぶつぶつと独り言を漏らしつつ、本に読み耽っていると、遠くから雷鳴が響き渡ってきた。意識が現実に引き戻され、顔を上げる。
いつのまにかどんよりと垂れ込め始めた分厚い雲。窓ガラスにぽつぽつと雨粒が跡をつけているのが見えた。雨は徐々にその勢いを増してゆき、窓を軽く叩き始める。今朝見てきた天気予報では、確か夜から雨になると伝えていたはずなのだが。店内にあるアナログ時計に目をやると、針は大体16時半をさしていた。
「帰るか。ひどくなられても困るし。」
本を最後までパラパラとめくり、閉じる。それを元あった場所に丁寧に戻すと、鞄を拾い上げ、その場を後にした。
本屋を出て数分、雨はその勢いを止める様子もなく降り続いていた。梅雨の雨のまとわりつく感じはやはり好きになれない。鬱陶しそうに顔をしかめつつ、水たまりを蹴散らす。既にぐっしょりになったズボンが足に引っ付いているので、これ以上濡れようが構わない。最短のルートで帰れればよいのだ。俺は無意識に、いつもより早く足を動かしていた。
車の多い大通りから脇道に入ると、閑静な住宅地が広がっている。日はすっかり雲の中に身を潜めているので、まだ17時にもなっていないというのにずいぶんと暗く感じる。
車の音が遠く聞こえる。一度だけ、傘の前方部分を少し上にずらすと、等間隔に設置された電柱だけが道の奥の方まで続いているのがうっすらと見えた。ただし雨のせいで視界は悪い。人っ子一人いない道に、自分のパシャパシャという足音だけがやけに耳に響く。濡れた服の冷たさが身体を這いあがってくる。一度身震いして寒さを意識してしまった身体は、やや硬直し、足の動きを鈍らせているような気がした。
足が重たい。寒い。早く帰りたい。
不気味に静まり返った薄暗い道。そこに順番に灯りだした外灯も、雨によってちらついている。いや、おそらくちらついているのは雨のせいだけではない。切れかけの球が弱々しく明滅を繰り返す白色灯も混じっているようだ。頭を上げてまで確認する気にはなれないが。地面の波紋ばかりに目をおとして歩いているせいで、ぼやけた光が滲んで見える。
なんだろうか、いつまで経っても家に到着する気配がない。この道を抜けた所に見えるはずの自宅は、一向に見えてこない。何故だ?目を凝らしても、道の奥は霞がかかりぼやけていた。あれ……?頭の底が急に冷たくなり、一抹の不安がよぎる。
先程から同じ道を延々と歩いている気が──いや、歩かされて……いる……?
ダレニ──?
不吉な考えが頭をもたげ、背筋がぞくりとした。感覚のなくなってきた指先に有らん限りの力を込めてみるも、かなわない。身体が小刻みに震え出す。それは寒さからなのか、恐怖からなのか。背後には不気味な気配。背中に視線が張り付いているような、気味の悪い気配を感じ取ってしまった。雨脚が強まり、いよいよ恐怖感に苛まれる。心臓が、脈が、どくりどくりと血管を圧迫する。後ろを振り返ってはいけない、本能がそう叫ぶ。
雨音と鼓動が混ざり合って、頭の中にがんがん鳴り響く。耳をふさぎたい衝動に駆られながら、足がもつれそうになりながら、いつのまにか駆け出していた。邪魔になった傘は無意識に放り出し、ずぶ濡れになりながら足を懸命に動かす。雨は俺を嘲笑うかのように視界を遮る。行く手を阻む。一種のパニック状態で、何がなんだか分からなくなっていた。明らかにいつもの道とは異なっていた。その証拠に、走れども走れども直線の道でしかなかった。似たような風景の、人間の気配のない道が延々と続いていた。現実と切り離された空間をただひたすら走っているかのような感覚。ぐにゃりとねじまがる目の前。誰もいない……誰もいない……ダレモイナイ。
俺はどうしたっていうんだ!これは夢なのか!?
俺は無我夢中で走っていたが、とうとう身体が悲鳴を上げた。それなりに鍛えてはいるものの、恐怖感に抗いながらの疾走は無下に体力を削ぎ落としてくれた。呼吸はうまく整わず、肺が締め付けられる。痛い、痛い、痛い──。
身体をすぐにでも投げ出してしまいたくなった。足は今にも動かなくなりそうだった。
もう、駄目かもしれない……。
──と、その時突然右手に公園が現れた。何故こんなところにとか、そんな思考は一瞬にして消え失せた。とにかくここに飛び込もう、そう思っていた。第六感的に、ここならば“ヤツ”はこられないのではないかと。絡まる足に叱咤しながら、最後の力を振り絞って公園に飛び込む。公園入り口の車止めを越え、なんとか公園内に入ることに成功した。越えたところで、地べたにへたり込む。
肩で呼吸を繰り返しながら唾を飲み込むと、口内に血の味が広がった。喉の奥がズキリと痛む。吐き気さえも込み上げてくる。頬に張り付いた髪、どろどろの制服、眼鏡も使い物にならなくなり途中ではずし、右手に握りしめていた。
今のは、一体なんだったのだろう……。俺の身に何が起きたのだろうか……?
思考をいくら巡らせようともその解を得られるはずはなく、この未知なる現象を前に俺は立ち竦んでいた。後頭部がずきりと痛む。瞑った瞼の裏にぼんやりとした外灯の光ばかりが焼き付いている。戦慄く自身の身体を抱きしめながら、長くゆっくりと息を吐き出した。
恐怖感も徐々に薄れ、呼吸も整い始める。鞄に頭をくっつけて項垂れる。世界がぐるぐる回っている。力のこもりすぎていた全身が、嘘のように軽くなってゆく。宙を揺蕩うような心地に、全てを預けてしまいたくなる。
だめだ……、意識を手放し……たら……。
フラフラになりながらも引っ張られるようにして立ち上がり、もう少しマシな、せめて雨の避けられる場所まで行こうとした。霞む視界の中、本能だけで足を運ぶ。雨は容赦なく、俺の身体を打ち付ける……──。
やがてひどく身体が重たくなり、どこへ辿り着いたとも分からぬまま、どさりという音とともにその場に頽れてしまった。
俺はとうとう深い闇の中へと引きずり込まれてしまったのだった……。
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「大丈夫ですかっ?」
鼻を掠める仄かに甘い香り。柔らかな感触。微かに揺らされる身体。回る、世界。
「あのっ。もしもし。」
泣き出しそうな、か細い声。……声?
ん……。
「あ、気がついたっ。」
俺は重たい瞼を無理矢理にこじ開ける。眩しさに顔をしかめながら、目の前のものに焦点を合わせようと試みる──……顔。
「うわっ!」
「きゃっ!」
俺は素っ頓狂な声を上げ、どこかから転げ落ちた。腰を派手に打ち付け、その痛みにより脳が完全に覚醒した。腰をさすりながら視線を上げると、そこには透き通るような真っ白な肌、短く肩の位置で切りそろえられた銀髪、それにルビーをはめ込んだような瞳をした美少女が座っていた。驚きと、心配気な表情で端正な顔立ちが少々歪んでいる。俺は目を白黒させながら、状況把握に忙しかった。
どうやらここは公園内にある屋根付きの休憩場であるらしかった。ベンチに座った少女は改めてみても美少女であり、彼女の纏う純白のワンピースは、どんよりとした風景から切り離されて発光しているようにさえ見えた。不思議な色香を醸し出しているのに、それとは裏腹に子どものようにあどけない表情でこちらを窺い見ている。背も小さいようだ。そして、この子に俺は介抱されていたとみて間違い無いだろう。彼女の手には泥で汚れたハンカチが握られていた。せっかくの純白のワンピースも、真ん中から裾にかけて薄汚れているところからみると、俺を膝枕してくれていたのだろうか。
「あの……?」
彼女はしばし無言で考え込んでいた俺を、心配そうに覗きこんでくる。
「あ。大丈夫です。ありがとうございます。」
俺はベンチに座り直し、彼女に向かってぺこぺことお辞儀をした。すると彼女は曖昧な笑みを浮かべながら、しかしおずおずと俺の眼鏡を差し出してくる。彼女のルビーの瞳が不安気に揺れている。少しばかり怯えたような彼女に、俺は不器用な笑顔を向けて礼を言った。するとようやく安堵したような表情をみせ、今度は綺麗に笑ってみせた。俺はどきりとして目を逸らし、手渡された眼鏡の汚れを拭い取りにかかった。少女はそれを目で追いながら、黙りこくっていた。俺も黙っていた。しばしの沈黙が降り、降りしきる雨音が静かに横たわる。
いろんな事が一遍に起こりすぎた。延々と続く道、俺を恐怖に陥れた何者か、公園、不思議な少女、そして俺自身の混迷──。ごちゃごちゃの頭を整理するのに精一杯で、思考の追いつかなさを焦れったく思う。しかし、今はまずこの目の前のことを片付けようと考えをシフトさせていく。俺は綺麗になった眼鏡をかけ、彼女の顔をもう一度見た。