第一話
梅雨入りというのは、どうしてこうも身体が気怠くなるのだろうか。俺は黒板の文字をぼんやりと眺めつつ、ノートにペンを走らせていた。教師の抑揚のない声は手放しかけの意識を引き戻すのには少しばかり物足りない。退屈な授業、退屈な日常。そんな何の変哲もない日常に、俺は心底うんざりしていた。今のところ、魔法学校への招待状も、異次元へと繋がる空間の歪みも見当たらない。大好きな小説に出てくるような突拍子もない出来事は、現実では起こり得ないのだ。流石に高校生にもなればそのへんの分別はつくものの、なんともつまらないことだと思う。
「おい片桐。」
ふと呼ばれた方に視線を向けると、最近少し話すようになった海藤慶介が目配せしてくる。忙しなく口を動かして何かを訴えかけているようだった。しかしながら、頭をいくらひねってみても、その意図を汲むことはできなかった。海藤もそんな俺に苛立ちを見せ始めたので、仕方なしに頷いておいた。何を言いたいのか把捉できないままではあったが、まぁ大したことではないだろう。それを見た海藤は満足そうに頷き返し、再び手元にあったノート─ではなく漫画へと頭を埋めた。俺はやれやれと肩を落とし、教師のスローペースな語り口に意識を戻すのだった。
キーンコーンカーンコーン──
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、皆一斉に帰り支度を始める。俺も教科書やノートを丁寧に鞄へと仕舞い込む。日課である本屋への寄り道のことに思いを巡らせていると、急に視界が翳る。
「片桐!さっき言ったこと、忘れてないだろうな?」
「あー、なんだったか?」
「お前……」
ブリーチに失敗したような赤髪にピアスという典型的な不良である海藤と、黒髪眼鏡の俺がつるんでいることは傍目にはどう映るだろうか?共通点といえば、目付きの悪さくらいで、タイプとしたら真逆だ。それ以前に俺たちは“友達”というにはあまりにも薄弱な関係であることに間違いはないだろう。まぁそんなことは至極どうでもいいことなのだが。
「その、お前、昨日……司と話してたじゃん。」
「それが?」
「お前らって、仲良いんかなとか思ってさ……。」
司……ああ、委員長のことか。朝霧司は女子からも男子からも慕われている、いわゆる優等生的存在。その立ち居振る舞いや言動の美しさといい、凛々しさといい、生徒の中でも異彩を放っているといえるだろう。人に対して興味を抱くことのほとんどない俺ですら、ある種の敬意を払っているかもしれない。しかし、それだけだ。特別な感情を持ったことは一度もない。
「別に、普通だろう。」
「もしかして、付き合ってんのか?」
俺は長い溜息を吐き出し、首を横に振った。
「いいや。それよりも、何の用事なんだ。急いでいるので手短に頼むぞ。」
「お前さぁ……付き合い悪いってよく言われないか?」
付き合いが悪いという意見はもっともだと思うが、自分の意志を曲げてまで誰かに合わせる必要はないと思う。それほどに無駄なことはない。こういった考えを持ちつつ行動しているから、人からはよく“ひねくれ者”だとか“協調性がない”などと言われたりもするのだが。協調性というのは本来、自分の意志に反した行動を取ることではないはずであるし、不本意ながら誰かと共にいるというのは相手に対しても失礼に当たるのではないだろうか。そういった意味においては、そこらの人間よりは相手と誠実に付き合っていると思うのだが。
「……本屋に寄らねばならない。本屋に向かいながらでいいのなら、話くらい聞くが。」
「……ああそうかよ。まぁそれでもいいけど。」
海藤が呆れたような顔をしたが、俺は気にせず椅子から立ち上がり、鞄を肩に引っ掛けた。二人で教室を出ようとすると、ポニーテールをきつく結んだ、やたらと姿勢の良い女子に呼び止められる。
「あら、涼太くんと海藤くんって仲良かったのね。もう帰るの?」
噂の委員長様のお出ましだ。きりっとした切れ長の目に見据えられ、海藤はあからさまに狼狽えていた。なんという分かりやすさだろうか。クール振りながらも愛想のいい笑みを司に向けていた。筋肉質で体格の良い身体が少し情けなく目に映る。
「ああ、もう帰るところだ。」
そのまま見ているのもなかなかに面白そうではあったのだが、埒が明かなそうだったので助け舟を出してやる。
「そう、私はこれからまだ仕事があるのよ。」
司はそう言って、両腕に抱えたファイルや資料を見せ、肩をすくめる。
委員長というのは大変なのだなと他人ごとのように考えながら、心ばかりのエールを送る。
「おう、大変だな。頑張れ。」
自分のぶっきらぼうさ加減に内心苦笑してしまう。しかしながら、手伝うなどということは毛頭考えていなかった。海藤が隣で俺を睨もうと、関係のないことだ。俺には俺の予定というものがある。やりたいならば、自分でお手伝いにでも何でも立候補しろ。俺も精一杯の念を込めて海藤に視線を送ってやる。
「ありがとう。それじゃあ、また明日ね。」
「ん、またな。」
司はそのまま踵を返し、ポニーテールを揺らしながら去っていった。無駄のない動きに惚れ惚れしてしまう気持ちはわからないでもない。しかし何故そこまで取り繕う。海藤を横目でちらりと見ると、不機嫌そうに唸っていた。
「お前……なんで司に下の名前で呼ばれてんだよ!俺は名字なんだけど?」
「そこかよ……。さぁな。」
俺は再び長い溜息をつきながら、歩みを再開した。
校舎から出ると、雲間から太陽が顔を覗かせていた。やや湿気を帯びた空気がじっとりとまとわりついてきて、あまり気持ちのいいものではない。しかしこの学校は緑が多く、風が吹くたびに木々が揺れ、葉のこすれ合う音だけは耳に心地よかった。
俺と海藤は、談笑しながら大勢で下校する生徒の間を足早に通り抜けていった。校門を出てから数分して、その速度を少しだけ緩める。
「で、なんの用だって?」
「ああ。その……こんなこと言ったら笑われるかも知んねえけどさ。」
「なんだ?」
海藤は躊躇いがちに口に出す。
「どうやったら、お前みたいに女子の前で堂々としていられるのかと思って……だな」
はははっと乾いた笑いをこぼしながら視線を遠くへと投げる。俺はそんな海藤の横顔を見てから、同じように遠くへと視線を移した。
「お前、俺の話聞いても笑わないんだな。こんなチャラチャラしたナリしてるくせに女子にも話しかけられねえのかよって。」
海藤は自嘲気味に言って、苦笑い。
ああ、こいつの周りの人間は……。俺はずれ落ちそうな鞄を肩に掛け直し、再び海藤の方に向き直り口を開く。
「人が精一杯話していることを笑うなんて俺にはできないな。それは最低な奴のすることだ。もしお前がそんな奴らとつるんでいるのだというのなら、俺はそんな奴らと付き合うのはやめておけと忠告させてもらう。いちクラスメイトとして。」
海藤は呆気にとられたような顔をし、目を瞬かせた。
「お前変わってるな。そんなこと言う奴、初めて見たぜ。」
そう言って笑みをこぼす海藤は、心から嬉しいと言っているようであった。俺もこんな物言いなので、他人からそういった感情を受け取る事は稀だ。こういうのも悪くはないのかもしれない。久々に人間らしい感情を噛み締め、表情に出さないまでも心がほっこりと温かくなるのを感じていた。
「それから、何故俺が女子の前で堂々としていられるかについてだが。」
海藤は先ほどとは一転して期待を一杯に湛えた眼差しを送ってくる。俺はわざとらしく空咳をして言葉を続けた。
「まず、男というものは特に好意を持っている女性と話すとき、極度の緊張を強いられる場合がある。そしておそらくお前もこの緊張によってうまく話をすることができなくなっているんだ。」
食いついてる。俺は海藤の反応を見ながら話をすすめた。
「さて、ここで何故緊張が起こるのか。それは、男が無意識に自分の良い所を女性に見せようとして、本来の自分以上の自分を見せようとするからだ。つまり、背伸びしようとしてしまう。しかもそれは、相手が魅力的であればあるほど大きくなる……。」
思い当たる節があるのか、時折頷きながらも海藤の表情が渋くなっていく。
「だから、俺は相手に自分のスペック以上のものを見せようとはしない。無理な背伸びはしないってわけだ。だから緊張なんてしなくても済むというのが結論かな。ありのままの自分であればいい、ただそれだけのことなんだよ。そうすればいつもの調子で話せるんじゃないか。」
俺が話し終えると、海藤は感嘆の声を漏らす。やはり、俺の予測は間違っていなかったらしい。
「すげぇ。すげぇよ、お前すげぇな!」
ボキャブラリーの乏しさを晒すほどの衝撃だったらしい。海藤は子どものように目を輝かせて感謝の言葉を重ねてくる。しかし、この様子だと海藤は肝心なことに気づいていないようだ。仕方あるまい、最後にとどめをさしておくべきか。
「それで司に実践してみるといい。」
「おぅ。これで司を絶対俺のものに……って、てめぇいつから気づいてた!?」
あれで隠す気があったのかと問いたくなったが、俺はあえて沈黙を決め込んだ。耳まで紅潮させて喚いてくる海藤を軽くあしらいながら、見えてきた駅前の本屋に思いを馳せる。ああ、やっと心静かに本が読める。
思わず足取りが軽くなっていたのは、本が楽しみなだけではないのかもしれない。俺は頭の片隅でそんなことをぼんやりと考えながら本屋へと足を進めるのだった。