小話 3
3
五限は生物基礎。まっさらなノートの端になかなか猫っぽくならない落書きを描いて、むきになって格闘しているうちに終わった。
六限は古典。林先生の薄い毛の後頭部がちらちらと動くのを見ながら板書をした。暇になって、赤いペンをメモ用紙に走らせてみた。なんとなくできた形が鳥のように見えて少し笑った。
メモ用紙が冷たい風に吹かれて床に落ちる。
クラスメイトがそれに気づかずにメモを踏みつけた。
赤い鳥は、空へ飛び立つ前に黒ずんで死んでしまった。
メモを拾って小さく折る。特に理由もなくペンケースの中に入れて、いや、供養の気持ちだったのかもしれないけれど、丁寧に保管した。
ふと窓の外を見ると、静かに凪いだ青空があった。
今日も空が綺麗だと思った。
下を向いていたら、せっかく綺麗な空が可哀想だと思った。
我ながらおセンチだなあと、他人事のように感じていた。
帰りのホームルームの声を遠くに感じながら、私は今日も、生きていた。
ホームルームも終わり、深青の席へと向かおうと、カバンに手を伸ばした時。
突如、視界が暗転する。なんだ、と驚く前に声が響く。
「だーれだ!」
どうやら手で目を覆われているらしい。小学生の時とかよくやったよね、これ。
でも、完全に深青の声。隠す気ないでしょう。
「深青」
私が答えたすぐ後、パッと手が外される。
目の前でいたずらが成功したように笑うのは深青。
後ろにいたのは……
「柿内くん」
私の幼馴染、柿内慎吾だった。
呼び方についてだが、幼馴染にしてはよそよそしい呼び方をしている。
思春期あるあるではあるが、小さい頃はしんちゃんと呼んでいたが、小学校に上がって慎吾になり、中学からは柿内くんになっていた。
しかし心の中では今でも慎吾と呼んでいる。
「元気……してた?」
相変わらずの口数の少なさ。無愛想。
しかし私は知っている。こやつモテるのだ。
顔よし、黒髪、パーカー男子、学ラン、高身長、バスケ部。
モテる要素をこれでもかと詰め込んだような人間である。
小さな頃からモテてはいたが、高校生になるとそれはもはや神の領域。
近づく女は会員数が学校一を誇るファンクラブに消される。会長はうちのクラスの誰かなのだとかそうじゃないとか。
だーれだ?までされると多分この世から抹消される。怖い。
「うん、元気してたよ」
謀ったな、深青!計画を立てたのであろう深青を軽く睨みながら慎吾に返す。
「そっか、よかった……」
いつも通りのぼんやりとした口調で言い、去って行こうとする慎吾。
なんの用事できたんだ?少ない頭を捻って考えてみるも、わからない。諦めよう。
すると慎吾が何かを思い出したように振り向き、私に何か伝えようとする。
『う、い、あ、お』
口パクだけで何かを言って、自分のクラスに帰っていった。
慎吾はなにをしにきたんだ?本当に深青に誘われたというだけできたのか?やめてくれ、ファンクラブに消されてしまう。
というかなにを言っていたんだろうか。
浮き輪を?茎だよ?寿司だお?
普通の人が言うと変なこと言ってるカウントだが、慎吾はいつもずれたことを言っているのでありうるな判定になる。
なんだったんだろうな。ま、いっか。
私たちの周りのクラスメイトたちはぞろぞろと教室から出て行く。
「お熱いですなぁ」
なぜ持っているのか、つけ髭をつけた深青が慎吾の去っていった方向と私をニヤニヤ笑いながら見比べている。
「なにが。ただの幼馴染」
さっきの恨みの気持ちとニヤニヤに対する軽蔑を込めて、つけ髭をむしり取って腕をつねる。
「最後のアレ、確実にただの幼馴染にはやらないと思う」
痛そうな顔をしながら反論する深青。
「なにが。『寿司だお』だよ?」
怪訝な顔を作って聞く私。
「バカなの?ねぇバカなの?どう考えても『寿司だお』にはならないでしょ」
私の手を払いのけてつねったところをさする深青。強くつねりすぎたかな。
「バカじゃないよ。どう考えても『寿司だお』。それ以外に何があるっていうんだよ」
失礼な、と言い返す私。
「もっとあるでしょ、なんか、こう『好きだよ』とか『付き合お』とかさぁ」
不貞腐れて言う深青。
「ありえないって。あの柿内慎吾だよ?ナイナイ。百歩譲って『茎だよ』だね」
大袈裟な仕草で肩を竦める私。
「あぁ、あり得るね『茎だよ』。変なこと言ってごめん。『茎だよ』だわ」
顎に手を当て、うんうんと頷く深青。
深青にまでズレてる扱いをされている慎吾はそろそろやばいと思う。
「っていうか、なんで慎吾を呼ぶかな。消されるよ。私が」
もう一度深青に嫌な顔を向けると、ソリメンと言われた。舐めてんのか。
「いやぁくっつけたくて」
「何を?糊貸そうか?」
そういうやりとりを五分ほどして。
「……部活、行くかぁ」
時計が視界に入り、その針が結構ギリギリな場所にいたので、深青に声をかけてカバンを持って立ち上がる。
「うぃ。行こーぜっ」
深青も背筋を伸ばして切り替えていた。
ていうか、深青は人の恋愛に口を出すより先に自分の恋愛をした方がいいと思う。君に好きな人がいることを私は知ってるぞ。
そういえば、慎吾。お前はなにが言いたかったんだ?ほんとに『茎だよ』なのか?
三組である私たちは第一学年棟の三階にいる。
私たちが所属している部活の部室は特別棟の二階にあるので、渡り廊下を渡って一つ階段で降りるだけで部室に行ける。
部室の扉を開けると、紙とインクの独特な匂いが風に乗ってやってきた。
私たちが所属している部活。それは——
【読書・文芸部】
部屋に入った時、一番に目に入るところに、大筆で書かれた迫力のある書が飾られている。
それは初代部長が書いたらしい。ちなみに今は三代目。
図書館に隣接したこの部室は、四方を漫画がたっぷり詰まった本棚で囲まれた畳の匂い香る和室であり、本好きにはたまらない空間だ。
入学した最初に部員数が少ない部活ナンバーワンだったので、ちょっと見てみたところものすごく素晴らしい部活なことが判明した。全く最近の若いもんときたら読書の素晴らしさを知らない。
私と深青は即決で入部届を出しに行った。
そして具体的になにをする部活かと言うと、本を読んで共有したり、小説や漫画を書いたり、それをみんなで読んだりする部活である。
「あ、夕希ちゃん、深青ちゃん、お疲れ様!」
部屋の奥にいた部長が私たちに気づいて挨拶をしてくれた。
榎下先輩。控えめに言って絵がバカクソ上手い。そしてサラサラヘアが素敵。高二男子のくせに(?)とっても優しい。
奥をのぞいてみるが、他の先輩はいないみたいだ。いない事が結構多かったりする。
「お疲れ様です榎下先輩」
「お疲れ様ですー」
靴を脱いで畳に上がると、先輩がなにやらソワソワしていた。
「夕希ちゃん、深青ちゃん、あのさ、ちょっと報告があるんだけど……」
私たちの座布団を用意してくれながらもずっとソワソワする先輩。
お礼を言って話を聞く。
「僕、漫画を描いてみたんだ。でね、それを、二人に見て欲しくて……」
なんだと。イラストでさえ神な先輩が漫画だと。そんなの好きでしかないじゃないか。
「私たちでいいんですか?」
深青と顔を見合わせて困惑しながら先輩に尋ねる。
「う、うん。二人だから頼んでる……」
恥ずかしそうに下を向く先輩。
密かに先輩を推している私たちはギュン!と胸にくるものがあった。
「はい!喜んで!」
深青が張り切ってそこそこ大きい声で言うものだから、先輩はちょっとびっくりしていた。
「じゃあ、これ、どうぞ……」
先輩が背後から取り出した大きな分厚い茶封筒には、題名が書いてあった。
『ヘイコウセンセカイ』
先輩らしい柔らかい文字で書かれた題名に、高揚を覚える。
渡されたものの確かな重みに、わぁ、と感嘆の声を漏らしてしまって、先輩は少しびくびくしていた。
早速開けて見てみようとすると、先輩の声が止めに入る。
「家で見てくれる……?ここで読まれちゃうと恥ずかしいから……」
はい、と素直にしたがって、封筒を大切にカバンに入れる。
私はすっかり、うわぁ楽しみ、と心躍ってしまっている。
深青と目配せして意思疎通を図る。家で一緒に読もう。そうしよう。
「先輩、今日はなにします?」
深青がワクワクした感情を隠さずに先輩に聞く。
活動内容は毎回先輩が考えてくれているのだ。
「えと、今日は、………——」
「……………!………」
先輩と深青が楽しそうに話す声を聞きながら、私は考えていた。
あぁ、今日も生きている。
死ねない。甘い生を手放せない。
でも、同時に暗い死に魅入られている。
曖昧な場所で、都合のいい時に都合のいい方に寄って行く。
生でもなく、死でもなく。
実は、そんなことどうでも良くなるくらいの何かが欲しかった。いい方に行くのか、悪い方に行くのかはわからないけれど。
よくある物語のテンプレートのような劇的なものを欲していた。
例えば転生だとか、この世界に私以外いなくなるだとか。
でも、今だけは。全部置いておいて、ぬるま湯のような幸せに浸っていたかった——
ちょっとずつ読んでくださる方が増えていてとても嬉しいです。
今後ともよろしくお願いします
七々海