彼女を見た時に思い出したのは
彼女を見た時に思い出したんです。
ピンクブロンドの髪の毛、琥珀色の瞳。痩せて骨が浮いた腕、青白い頬。
今は幼い顔立ちですが、あと数年したら誰もが振り向くほどの美少女になると思います。
何故ならば、彼女はこの『小説』のヒロインだから。
そう、前世でわたしが読んだことのある小説の登場人物。ヒロインの名前は……マーガレット。彼女は母親を病気で亡くし、孤児院へと行くことになりました。彼女は母親の形見のネックレスと、顔も知らない父親からもらった指輪だけを持っていて。そして、その指輪にあった刻印から、とある侯爵家の持ち物だと解るんですが――。
※※※
「それが、わたしのお父様の持ち物だったのですわ」
と、目の前の少女――私の婚約者であるアリーシャ・マクドガルド侯爵令嬢が真っ赤に腫れた目元を隠すように俯きながら言った。
アリーシャは私の婚約者だ。
美しい金色の髪と、冷酷そうに見える濃い蒼の瞳。長い睫毛と、気の強そうな吊り上がった眦。どことなく人慣れをしていない猫のような印象がある。そして何より、凄まじいまでの美貌を持った少女である。
アリーシャは十五歳。私は十六歳。
私が七歳の頃に政略的な意味合いを持って結ばれた婚約であったが、定期的に会って親交を深めるための時間を取るようにしていた。それが義務だと考えていた。
だが――。
我々の関係は、遠ざかることはあっても近づくことはないものだった。とても良好とは呼べないものだ。
何しろ彼女は私と一緒にお茶を飲むときも無表情で、必要以上にこちらに話しかけることもない。私も私で、ここまで冷え切っている感情をどうにかしようという熱情も持てずにいる。
一応、婚約者という立場なのだからと世間話をするだけの、友達とも言えない程度の関係。特にそれで問題はないと思っていたし、諦めていた。
それが、月に一度の定例会というか……マクドガルド家での二人きりでのお茶会で、こんなとんでもないことを言い出されたのだから、途方に暮れるしかない私だ。
「わたし、前世を思い出したのですわ。ええ、彼女を見た瞬間に、解ったのです。彼女はヒロインで、わたしがヒロインを虐げる悪役令嬢だと!」
マクドガルド家の応接室で、ソファから立ち上がった彼女はそう叫んだ後、ぐったりとソファに崩れ落ちて顔を覆ってしまった。
「悪役令嬢……」
私が困惑してそう言葉を繰り返すと、泣き濡れた顔をがばりと上げて私を見つめた。その勢いが激しすぎて、彼女の膝がお互いの間に置いてあるローテーブルに当たってがちゃり、と音を立てた。そして、その音を聞きつけた侯爵家の使用人が風のように現れ、こぼれた紅茶を片づけて新しいカップを持ってくる。使用人がこの場から消えるまで、一分もかからない。相変わらず彼女の家の使用人は優秀だ。
「その小説のストーリーは、よくあるようなものなのです」
震える手で紅茶のカップを手に取り、アリーシャは一口飲んで呼吸を整えた。「ヒロインは平民として生きてきましたが、ある日、とある貴族の隠し子だと解るのです。そして、その貴族の元に引き取られて育てられることになります。しかし、そこには意地悪な令嬢がいて、ヒロインを虐めて虐めて虐め抜くのです!」
「……なるほど?」
「でも、さすがヒロイン、虐められても健気に耐えます。それに気づいたのが悪役令嬢の婚約者であるレックス様。悪役令嬢であるわたしからヒロインを庇い、わたしたちをどうにか仲良くさせようと努力します」
「……私が?」
「ええ。レックス様は一見、お金にしか興味のない男性ですが、根は真面目で優しい方。悪役令嬢の前ではツンしか見せない問題児ですが、ヒロインはそんなレックス様の良いところを次々と見出し、レックス様もヒロインに影響されて、世の中お金だけじゃないと気づくのです」
……今、もの凄く貶された気がする。
確かにお金にしか興味のない……いや、他にも興味はあるはずだ。
「もちろん、お金は重要ですわ。わたしだって解ります。お金がなくては生きていけませんし、レックス様のご家庭に色々あったことも知っています」
アリーシャが僅かに躊躇いがちに言う。
そう。私の家は昔、金策に走り回ったことがあった。
我が家門……メイトランド伯爵家は、魔道具の研究に力を入れている。魔道具技師を多く雇い、王都だけではなく地方にも多くの魔道具店を開いていた。
だが、家庭用の魔道具で事故があり、多額の負債を抱えたために援助してくれる人間が欲しかった。そのための婚約だ。私は――いや、私の父であるメイトランド伯爵は、マクドガルド家に頭を下げた。
マクドガルド侯爵は、メイトランド家が発明した魔道具は便利だから、と笑って受け入れてくれた。かなりの金額を援助してもらい、我が家の商売を立て直した。それについては感謝している。それこそ、心の底から。
何しろ、一時期は食べるものにも困り、家財もほとんど売り払ったのだから。
「でもレックス様。レックス様がお金に執着しているのは知っていますが、手にするのは綺麗なお金だけにしておいてくださいませ」
「綺麗な、って」
「悪事に……黒く染まったお金は駄目ですよ? レックス様の足枷になりますから。悪事は絶対に暴かれる時がきます」
「何か私について誤解してないか?」
「してません。少なくとも、小説の中のレックス様は道を誤る可能性もあるのです」
――小説。どこまで本気なんだろうか。
私が顔を顰めると、アリーシャは困ったように微笑んだ。
「でも、そんなレックス様を助けるのはヒロインなので」
「やがてヒロインはわたしと一緒に同じ魔法学園に通うことになり、そこで新しい出会いがいくつもあって。この国の王子殿下、騎士団長の息子や魔法士長の息子、学園の先生や隣国からの留学生、そしてレックス様も含めて恋のトライアングルどころか複雑怪奇な編み物ができてしまうような、イケメンパラダイスの学園生活が始まるのです!」
「……へえ」
私はおそらく、顔を顰めていたと思う。
アリーシャの言っている内容は妄想なのではないだろうか。何か目つきがいつもと違って思いつめているような気がする。
「レックス様の心を癒すのはヒロインなんです。わたしではなくて……でも、それが運命なら仕方ないというか……男性が可愛らしい女の子の方が好きだというのは事実ですし」
「まあ、それは……」
「わたしは最終的に、婚約破棄されて修道院に放り込まれる運命なのです。小説では……そうでした」
がくりと肩を落とした彼女は、視線を床に落として唇を噛んでいる。
明らかに未来を決めつけているが――。
「だが、そうとは限らないのでは――」
私が言いかけた言葉は、遠くから聞こえてきた耳障りな音によって遮られた。
がしゃん、という何かが壊れる音と、誰かの叫び声。その緊迫した雰囲気に、つい私たちの表情も強張った。
「申し訳ありません」
アリーシャがそこで、小さく囁いた。「父が昨夜、ヒロインを……マーガレットを我が屋敷に連れ帰ってきました。彼女をわたしの妹として育てると言い出してから、母と血で血を洗う戦いに発展していまして……騒々しくて申し訳ございません」
「それは……大丈夫なのか」
「今のところ、母が優勢です」
「そう」
応接室の窓の外はとてもいい天気で、白い光が差し込んで床に落ちている。鳥のさえずりも聞こえてきて平和そのものだったが、どうやらマクドガルド家の中は平穏から遠い場所にあるらしい。
そして。
「あなたはわたくしを馬鹿にしていらっしゃるの!?」
アリーシャの母親――マクドガルド夫人が玄関ホールでそう叫んでいる。アリーシャによく似た髪の色と瞳を持ち、肉感的な色気を放つ美女。彼女はスカートを指先で雑に摘まみ上げ、階段の上から降りてきて、玄関の扉の前に押しやられてきたらしいマクドガルド侯爵に詰め寄っていた。その迫力たるや、ネコ科の猛獣のような獰猛さを孕んでいる。
それに対するマクドガルド侯爵は背が高く、よく鍛えられた肉体を持ちながらも線の細い危うさを持つ美男子だ。短い銀色の髪の毛と緑色の瞳、笑顔を見せれば多くの女性を魅了することだろう。
彼は剣の腕では知られた存在であり、王宮騎士団に所属している。
しかし、安全な王都で働くよりも戦いの場で自由にしていたいとの理由で、辺境の砦を守るためにこの地を留守にすることが多い。
そこで、辺境の村での女癖の悪さでは右に出る者がいないようで――、現地妻が両手でも数え切れないのだとか。
黙っていれば、そんな悪い男には見えないのだが――。
「馬鹿になどしていないよ。いつだって君以外の女は遊びだし、ただ、ちょっと今回は失敗したというか、いや、本当に愛しているのは君だけなんだよ。そのくらい、言わなくても解るだろう? 本妻である君が慌てる必要なんてない……」
口を開けば軽い男であることはすぐに解る。薄っぺらい弁解を続けている侯爵の口調は、間違いなく嘘をついているものだった。もちろん、その嘘は夫人にもお見通しだったようだ。
「ふざけないでくださいまし! 愛などどこにありました!? あなたの女遊びは目を瞑ってきたとはいえ、子供ができるなんて言語道断ですわ! こうしていきなり連れてきて、アリーシャが傷つくとは考えていらっしゃらないのね!?」
夫人の右手には扇子が握られていたが、今はどうやら、武器として使おうとしているらしい。閉じた扇子をびしりと侯爵の鼻先に突きつけ、冷や汗をかいた侯爵はじりじりと後ずさりを続けている。
そしてもうすでに、その頬には扇子で叩かれたであろう赤い筋ができている。
――情けない……。
私はアリーシャと共に、目の前で繰り広げられている現実を見つめていた。あまりにも騒々しかったから気になったということもあるが、憔悴しているアリーシャの今後を気遣ったということでもある。
「……お父様はいつだって」
アリーシャの声は強張っていて、僅かな敵意も含まれていた。私は隣に立つ彼女を見下ろして、その細い肩が震えているのを見た。
「男の方って皆様こうなのかしら。わたしが幼い頃から、お父様はこんな感じでした。お母様のことも、わたしのこともどうでもいいみたい。だからレックス様もそうなの? きっとそうよね、って思ってました。だから期待するのはやめようって思って、仲良くならないように……あまり話さないようにしていたんです。傷つきたくなかったから」
なるほど、と思った。
いつだって彼女はどこか余所余所しかった。それは、私のことも信用できなかったからなのだろう。侯爵を見て育ったのだとしたら、仕方ないのかもしれない。
「彼女がマーガレットですわ」
そこで、アリーシャが苦々し気に声を低くさせた。
彼女の視線の先、玄関の脇に目立つ髪色の少女が不安げに立ち尽くしていた。その近くには使用人たちも並んでいたが、誰もが無表情で痴話喧嘩――と呼ぶには深刻な雰囲気の夫妻を見守っている。
「何か感じるものがございます?」
そう言ったアリーシャが必死に感情を殺そうとしているのが解る。
「いや、ないな」
私が瞬時にそう返すと、アリーシャが長い睫毛をぱちぱちと瞬かせた。
「え、本当ですか?」
「ああ。私は嘘が得意じゃない」
「……それが本当なら」
――嬉しい。
そんな小さな声が、辛うじて私の耳に届く。
その瞬間、何だか私の胸がぎゅっと苦しくなった気がした。その理由は解らないが。
マーガレット嬢は不安げに肩をすくませていたが、離れた場所にいる私たちに気づくと口をうっすら開けて固まった。マーガレット嬢はアリーシャの姿を見つけて眉を顰めたが、私に気づくと間違いなく目を輝かせたように見えた。
細身の身体は栄養が足りていなかったのか、少し病的だ。そういう意味では、誰かの庇護欲を誘うのだろう。幼い顔立ちと同情を引きやすい見た目。
後にマーガレット嬢がアリーシャと同い年だと聞いてびっくりすることになる。アリーシャが大人びた顔立ちだからなのかもしれないが、間違いなく我々より五歳くらい若く見える。つまり、子どもっぽすぎる、ということだ。
「……お姉さま」
マーガレット嬢がおずおずと我々に声をかけてきて、隣にいたアリーシャが一歩後ずさったのが解る。つい彼女の方に目をやると、青いドレスに添えられた白い指がきつく握りしめられていて、咄嗟に彼女の手を取ってしまった。
「え」
「あ、ごめん」
私は自分でも困惑しながらも、何とか微笑んで見せる。すると彼女の目元がぱっと赤くなって、私から慌てて目をそらす。それが何だかとても可愛く感じて、それを自覚した瞬間にどうしたらいいのか解らなくなってしまった。
「あの、お姉さま。お父さまが……その」
我々が微妙な空気を放ちながら硬直しているのに気付いていないのか、マーガレット嬢はぱたぱたと足音を立ててこちらに駆け寄ってきた。
淡いクリーム色のドレスに身を包み、ピンクブロンドの髪の毛を揺らして小首を傾げるその様子は、確かに世間一般的に見れば可愛いのだろう。
だが私は、別のものが目に入って首を傾げる。
「そのネックレスは?」
私がマーガレット嬢に声をかけると、きらきらした瞳を私に向けて両手を胸の前に合わせて声に喜色を滲ませた。
「これはわたしのお母さまの形見です! 宝物なんです!」
「ふうん?」
マーガレット嬢の白い喉の下に、銀色の鎖に付けられた赤い石があった。小さい石だがかなりの魔力を放っているのが解る。もしかしたら、希少性が高いというドラゴンの血、と呼ばれる魔石なのかもしれない。
もっと大きければ、ドラゴンの心臓と呼ばれてかなりの高値がつくはずだ。いや、彼女のものだって小さいとはいえ、金貨百枚はくだらないはずだ。
母親の形見と言うのなら、きっと彼女の母親は裕福な女性だったのだろう。
「あ、あの。お名前を伺っても?」
マーガレット嬢は無邪気な――いや、一見無邪気に見える打算的な微笑みを口元に浮かべながら私に訊いた。
「……私はレックス・メイトランド。アリーシャの婚約者だ」
「そうなんですね!」
僅かに上気したその頬と、潤んだ瞳。
何だか危険な感じがするな、と背中に這い上がる寒気を感じた瞬間、隣にいたアリーシャが私の上着の裾を掴んで引いた。
「やっぱりそうなんですよね?」
――ちょっと待て! 誤解だ!
その後は多少、騒ぎが大きくなった。マクドガルド夫妻が我々の様子に気が付いて、侯爵はこちらに逃げてきたし、夫人はそんな侯爵を追いかけてきた上にアリーシャの前にいるマーガレット嬢に気づいて目尻を吊り上げていた。
金切り声を上げる夫人、宥めようとする侯爵、泣きそうな顔を両手で覆うマーガレット嬢、真っ青な顔色で逃げ出そうとするアリーシャ。
そして自分でも混乱していて何が起きたのか解らないが、気が付いたら私とアリーシャはまた応接室に戻っていて、私は誓約書にサインをすることになっていた。
『誓約書』
私、レックス・メイトランドは、以下の事項について誓約します。
・私は浮気をしないことを誓います。
・私は婚約者のアリーシャ・マクドガルド嬢を誰よりも大切にすることを誓います。
・私はアリーシャ・マクドガルド嬢を裏切った場合、針千本飲まされても文句を言いません。
ちょっと待て。
最後の一文はかなりまずいのではないだろうか。もちろん、私がアリーシャを裏切らなければいいだけだが、目が据わっているアリーシャを目の前にして誓約書の最後に自分の名前を書くことになった。
しかも、アリーシャも立場を変えて同じ内容の誓約書にサインしてくれたから、まあ……いいだろう。多分。
「っていうことがありまして」
と、私はその三日後、幼馴染であり将来の主君となるであろうフェリックス・フェルトハード殿下に報告をした。
彼はこのフェルトハード王国の第二王子であり、アリーシャが言うところのヒロインの恋の相手になるかもしれない存在である。私と同じ魔法学園に通い、クラスメイトとしても一緒に行動しているのだが――。
「……マクドガルド嬢に新しい妹ができたという話は知っているよ」
フェリックスが王宮の中庭を歩きながら、その後をついて歩く私を振り返った。「しかし、小説の話というのは信じがたいね」
陛下とよく似た柔和な顔立ち、長い金色の髪の毛、深い緑色の瞳。幼い頃からの教育なのか、穏やかな口調の裏に狡猾な計算高さが隠されていることはほとんどの人間が気づかないだろう。
アリーシャから聞いたこれから起こる話を彼に伝えると、困ったように眉尻を下げていった。
「マーガレット嬢が持っている資質については、父からも聞いているんだ。彼女はどうやら、浄化魔法が使えるんだとか。浄化魔法が使える人間は、この国では希少だけれど……来年、マクドガルド姉妹が魔法学園に入ってきたとして、問題を起こされるのは困るね」
「ええ、私もそう思います」
アリーシャ曰く、マーガレット嬢の母親は精霊の加護を受ける隣国の人間だったらしい。そこでは、ピンクブロンドの髪の持ち主は精霊に愛され、浄化魔法を使いこなせるらしい。我が国では浄化魔法を仕える者は神職につく、ということが多い。浄化魔法と治療魔法は誰もが欲しがる能力であるから、それが年頃の女性なら誰もが婚約者に欲しがるのだ。
「しかし、そんなに魅力的な少女なのか?」
殿下が苦笑交じりにそう続けたが、私も苦笑を返すことしかできない。
「まあ、見ようによっては?」
そう言いながらも、私は少しだけ足を止めて考え込んでしまった。
「どうした?」
「いえ、殿下。少し気になることがあるのですが、殿下のお力で調べていただくことは可能でしょうか」
「調べる?」
「はい」
私はマーガレット嬢が首に着けていたネックレスを思い浮かべ、僅かな懸念を口にすることになる。「あれは魔道具であることは間違いないでしょう。そしておそらく……」
その調査の結果が出るまでの間、それなりに私もアリーシャに配慮することにした。アリーシャはとても情緒不安定で、マーガレット嬢の動向に一喜一憂しているようだったからだ。
私はアリーシャと婚約者としての共有の時間を過ごすため、マクドガルド家を訪れたが、そのたびにマーガレット嬢が私に接触するようになって警戒していたし、アリーシャは私以上に不安を覚えていたみたいだった。
何しろ、マーガレット嬢は――。
「あの、わたしはずっと平民として育ってきているので、解らないことが多くて」
とか。
「レックス様はお姉さまと仲いいのですか? わたしは嫌われているみたいで」
とか。
「どうすればお姉さまと仲良くなれると思いますか?」
と、泣きそうな顔でぷるぷる震えながら私に声をかけてくるのが、あざとすぎて無理だった。これが小説とやらのヒロインだというのは、かなり問題だ。どこが魅力的なのか解らない。
だが確かに、浄化魔法が使えるのは間違いないらしいが――。
「もう、お父様なんて大嫌い」
アリーシャはある日、暗い瞳を窓の外に向けて小さく呟いていた。いつもの通り、私と彼女だけで応接室に入って紅茶と焼き菓子を目の前にしていた時のことだ。
どうやら、侯爵はマーガレット嬢をこの屋敷に置いて、辺境での任務に戻ってしまったらしい。あんな劇物を置いて放置するとは、無責任にもほどがある。
マクドガルド夫人は何か思うところがあるはずだが、マーガレット嬢を貴族として教育するために家庭教師を雇ったらしい。
尻ぬぐいはわたしたちがやらなくてはいけないのよね……と呟くアリーシャの横顔は疲れ切っていて、このままではいけないと考えさせられる。
「アリーシャ。私は絶対、君の父上のようにはならないと約束する」
私がそう言うと、彼女は探るようにこちらを見つめてくる。
「本当?」
「ああ」
とはいえ、そう簡単に信じられないのだろう。彼女はそれでも、少しだけ期待を込めた光を宿す瞳を向け、小さく微笑む。それから、何か言おうとした瞬間。
「失礼します、お姉さま!」
軽いノックと共に、返事すら待たずに入ってきたマーガレット嬢と、それを引き留めようと続いた使用人の姿に、私とアリーシャはため息をこぼしたのだった。
フェリックス殿下から王宮に呼び出されたのは、それから数日後のことだった。
そして、調査が終わったと書類を私に渡してきた彼の表情は、いつになく厳しかった。
「学園に入る前に解ってよかった。」
フェリックスがそう言って、私も小さく頷く。これで早々に片を付けることができる。
だが、間違いなくこれは侯爵がやるべきことだった。
後で、夫人が侯爵の頬を張り倒してくれることを心の奥で祈った。
「……何てこと」
私がアリーシャに例の書類を差し出し、それを読み進めた彼女の頬が怒りで赤く染まっていくのを見つめていると、いつものように『マーガレット嬢』がノックと同時に応接室の扉を開けて入ってきた。
「お姉さま! マナー教育で解らないことがあるのです!」
そう叫びながらも、視線は私へと向けられている。そう、小説で言うところの恋の相手の一人であるレックス・メイトランドへ。
彼女は熱に浮かされたような潤んだ瞳をしていて、私に微笑みかける。
「レックス様、こんにちは!」
――全く、とんでもない人間を招き入れたものだ、侯爵は。
私は苦々しく思いながらも、薄く微笑んで彼女に言った。
「こんにちは、マーガレット嬢。いや、本当の名前は……マリーだったかな?」
「え」
マーガレット嬢――いや、マリーという名の少女はさっと顔色を失い、後ずさって私たちを見ていた。
※※※
彼女を見た時に思い出したんです。
ピンクブロンドの髪の毛、琥珀色の瞳。痩せて骨が浮いた腕、青白い頬。
今は幼い顔立ちですが、あと数年したら誰もが振り向くほどの美少女になると思います。
何故ならば、彼女はこの『小説』のヒロインだから。
そう、前世でわたしが読んだことのある小説の登場人物。ヒロインの名前は……マーガレット。彼女は母親を病気で亡くし、孤児院へと行くことになりました。彼女は母親の形見のネックレスと、顔も知らない父親からもらった指輪だけを持っていて。そして、その指輪にあった刻印から、とある侯爵家の持ち物だと解るんですが――。
わたしは不公平だと思いました。
彼女はわたしとよく似た髪の色をしていて、瞳の色も変わらない。
一緒に孤児院に行くことになったのは、同じ時に人身売買の商人に捕まって、協力して犯人たちから逃げ出したからです。
「わたし、マーガレット。あなたは?」
ナイフを持って追ってくる商人たちから逃げ出して、安全な場所を探して夜道を彷徨っている時に彼女は言ってきました。安全な場所は神殿か孤児院だと。神殿で暮らすには、それなりの寄付金が必要となります。でも、孤児院なら無一文でも逃げ込める。
マーガレットは母親を亡くした直後で、誰も頼れないから孤児院の扉を叩くために大通りを歩いていた時に誘拐されたんだと言います。わたしは両親の記憶なんてものはなく、ただ路地裏で何か食べられるものを探していただけ。それなのに、珍しい髪の毛の色だからという理由で連れ去られ、どこかの金持ちに売られていくはずでした。
でも、彼女を見た瞬間に。
この世界が小説の世界で、マーガレットがヒロインだと知ってしまって、不公平だと思ったんです。彼女はこの後、本当の父親の元に引き取られ、貴族の子息たちと楽しい学園生活を送ることになるって。
前世の記憶が教えてくれたんです。
彼女の力は、彼女が持っているネックレスのものなんです。それは魔道具で、元々持っている人間の魔力を底上げしてくれます。だったら、わたしだって。
わたしだって、少しくらいなら魔力があります。
そのネックレスがあれば、わたしだって。
だって、そういうことでしょう?
前世の記憶が蘇ったってことは、何か理由があるんです。神様がそうしろ、って言ってるって思ったんです。
わたしがやるべきこと。
幸せを手に入れたいと思うのは、罪なんですか?
誰だって人生を変えたい。ゴミを漁って暮らす生活にはもううんざり。美味しいものを食べたい。素敵な人と恋をして、結婚をして、幸せになる。
それを望んで何が悪いの?
だから。
孤児院まで道のりは結構遠くて、二人でそこに向かっている途中、野宿を繰り返していた時に、わたしは眠っている彼女の荷物からネックレスを盗りました。それと、彼女の身元確認のために必要になるとある貴族の家の紋章入りの指輪も。
それから、夜が明ける前に彼女を揺り起こしました。そこは小さな村で、路地裏に入ってしまえば誰も通らない場所もありました。
「ごめんなさい、あなたのネックレスを落としてしまった。ちょっとだけ付けて見たかったの。でも、歩いていたら鎖が切れてしまって」
泣き真似をしてそう言ったわたしを、彼女は青ざめた頬を見せながらも必死に微笑んでくれました。
「大丈夫よ。どこで落としたの? 探しに行くから」
彼女がそう返してきたので、わたしは彼女の手を引いて夜道を走りました。
それはその村にある、いくつかある井戸の前。水が枯れているらしく、荒れ果てた井戸の周りには雑草が生えていました。その前に立って、わたしは井戸の中を指さしたんです。
「ごめんなさい、この中に」
「嘘……」
マーガレットは声を震わせながら、真っ暗な井戸の中を覗き込んで。
その背中を押しました。
誰かがそうしろって言った気がしました。多分、あれは神様だったんだと思う。
わたしとマーガレットはよく似ていたから。
もしかしたら、最初からこうなるべきだったんじゃないかって思ったの。
わたしはこの小説を知ってる。未来がどうなるのかも。でも、マーガレットはそうじゃなかった。彼女はこの世界が小説の中だって知らないみたいだった。だったら、わたしだっていいじゃない。わたしがヒロインになってもいいじゃない?
そう考えて、孤児院に行った時に名乗ったんです。
「わたしの名前はマーガレットです。母の名前はミカエラ。辺境の村で貴族の男性と恋に落ちて、わたしが生まれたみたいです」
そう言いながら指輪をシスターに差し出したら、すぐに紋章を見たシスターの顔色が変わって――。
※※※
「誰か、あの人の首に鎖をつけて連れ戻して! 変な女をこの屋敷に連れ込んだ罪は軽くはないわよ!?」
荒れ狂うマクドガルド夫人の声が響き渡る屋敷の中、アリーシャはぼんやりとした目つきをしながら廊下を歩いていた。
「……どうなるんでしょう、彼女」
その隣を歩く私は、ただ苦々しく笑うことしかできない。
「まあ、人ひとりを殺したんだ、かなりの罪になるだろうね。しかも、殺した相手が貴族の血を受け継いだ人間なんだから」
「そう、ですよね」
私たちはいつものように応接室の中に入り、使用人がお茶を運んでくるのを待った。アリーシャはずっと何か考え込んでいたようだが、やがて私をじっと見つめると頭を下げてきた。
「本当にお騒がせしました。まさか、こんなことになるなんて」
「誰も思わないだろうな」
私が違和感を覚えたのは、マーガレット嬢のネックレスが魔道具であると気づいた瞬間だ。ドラゴンの血と呼ばれる魔石がついているなら、その効果は凄まじいものとなるはずだ。ドラゴンの血を使っている魔道具なら、普通はその持ち主である人間の魔力を上手く引き出すために魔道具技師が調整をしているはずだ。
だが、マリー嬢との相性は凄く悪いように見えた。
もしもその魔道具が彼女の家族の物であれば、魔力の質も近いはずだ。それなのに魔道具と彼女の魔力が反発しあっているように思えたから――。
おそらくそれは、彼女の物ではないのだ。
彼女、もしくは彼女の家族の物でもなく、他人の持ち物であった。
そう考えるのが自然だ。
そうなると、次に疑問に思うのは、平民として生きてきた彼女は、その魔道具をどこで手に入れたのか、だ。彼女が買えるほどの金を持っているはずがない。だとすれば、考えられる道は一本だけ。
彼女から聞き取り調査は進んでいるようで、殿下からも説明があった。
その時、殿下が最後にこう付け足したのが心に残っている。
『ピンクブロンドの髪の毛は、隣国に見られるけれど。もしかしたらあのマリー嬢も、血筋を辿ればどこかの貴族にたどり着いたのかもしれないね。何故か? 魔道具の力で底上げされたとはいえ、彼女は浄化魔法が使える素質があった。ただの平民ならもっと弱い生活魔法がせいぜいだと考えられる。だとすれば』
「何だか、脱力してしまいましたわ」
アリーシャがそう呟いて、私は我に返った。
「脱力か」
「ええ。だって、この世界は小説とは違う道を進んでいるのですもの。これからどうなるんでしょう?」
「普通だったら未来なんて誰も解り得ないものだよ」
私がそう言うと、彼女はテーブルの上に置いてあった紅茶のカップを手に取ってそれを覗き込んだ。
「そうですわね。わたしはレックス様に婚約破棄されるはずの悪役令嬢でしたのに。何も悪役らしいことしないまま、終わってしまいました。でも、喜んでいいのか悲しんでいいのか解らないんです。ヒロインが死んでいたなんて……ちょっと、予想外でありましたし、もやもやします」
「そうだろうな」
マリー嬢がもしも殺人を犯すことなく、普通に孤児院で生活していたら。誰かが迎えにきたのかもしれないのに。そうすれば、マーガレット嬢のような煌びやかな生活とまではいかなくても、食事には困らない生活が待っていたのかもしれない。
まあ、単なる可能性でしかないけれど。
そこで少しだけ私たちの間に沈黙が降りる。
僅かに気づまりな時間が流れた後、私は彼女にこう告げた。
「誓約書は有効だよ、アリーシャ。私は君を裏切らないし、これからも君を大切にすると誓う。だから」
「だから?」
「その、我々はもう少し……色々と時間を作るべきだと思う」
「時間」
「学園に入って、君が私より魅力的な男性に合わないとも限らない。それまでに、できるだけ点数を稼いでおきたいんだ」
「点数?」
アリーシャは本当に私が何を言いたいのか解っていないらしく、首を傾げて固まっている。
「まあ、早い話、君が好きだってことだよ。だから、もっと今のうちに仲良くなっておきたいと思う」
「え」
そこで、ぱっと彼女の頬に朱が散ったが。
「レックス様はお金よりわたしのことが好きですか?」
「まず、そこから君の考えを変えていきたいと思うよ」
私が目を細めてそう言うと、彼女が慌てたように首をぷるぷると横に振った。振りすぎて眩暈を覚えているようだが、そこも面白い。
「ふ、不束者ですが、その、よ、よろしくお願いします」
彼女が震える声でそう言った時、彼女が持っていた紅茶のカップから中身がこぼれたようで――使用人が素早くそれを取り換えて応接室の外へ出て行った。
相変わらず、マクドガルド家の使用人は優秀だ。私はつい、笑ってしまった。