第1話 紗央莉の妊娠
紗央莉さんは犬(戌)の化身
会社の上司だった政志さんと結婚して6年。
私達は朝から病院を訪れていた。
「...ありがとう紗央莉」
産婦人科を出た政志さんは呟いた。
半年前、体調の変化に病院へ行くと私の妊娠が分かった。
以来、毎回政志さんは検診に同行してくれる。
主人には離婚歴があり、その原因の一つが彼の不妊だった。
もちろんその事は私も知っていて、正直子供は諦めていたが、まさかの妊娠。
お医者様も驚く奇跡だった。
「はあ...俺が父親か」
「そうよ、パパ」
「...パパか」
乗り込んだタクシー。
隣に座る主人の右手を優しく握り、微笑む。
妊娠が分かって以来、何度となく同じ言葉を呟く彼の喜びは私にも伝わって来た。
「ただいま」
「ただいま戻りました」
タクシーが自宅に到着すると、玄関の前に同居するお義父様とお義母様が私達の帰りを待ってくれていた。
「おかえり紗央莉さん」
「紗央莉さんおかえり。
政志、早く降りなさい」
「分かってるよ」
お義母様は主人を押し退ける。
苦笑いを浮かべタクシーを降りる政志さん、みんな幸せな笑顔だ。
「ありがとうございます、ただいま帰りました。
赤ちゃんは順調です」
「そうか...」
「ありがとうね、紗央莉さん」
ホッとした様子のお義父様とお義母様。
毎度の事だけど早く報告を済ませる、お二人にとっても初孫になるのだから。
『まさか...70歳近くになって孫が抱けるとは』
『...本当に』
妊娠した時、お二人は涙を流して喜んでくれた。
政志さんは一人息子だったからだろう。
「紗央莉さん疲れたでしょう、今日の夕飯は私が作るわね」
「そんな...お義母様」
これも毎回の事、そこまでして貰ったら恐縮してしまう。
「まあまあ紗央莉さん、こんなジジババと一緒に暮らしてくれてるんだ、これくらいはさせてくれ」
「紗央莉、父さん達の好きにさせてあげよう」
「はい...」
同居は私が希望した。
政志さんは大学から東京で、そのまま就職をし、そこで前回の奥さんと知り合い結婚した。
結婚生活も東京だったが、僅か2年で破綻してしまったのだ。
失意の政志さんは会社を辞め、この地元に戻り、再就職をし、三年後その会社に新卒で入社した私と出会った。
私の一目惚れだった。
なんとか親しくなろうとしたが、政志さんはなかなか私と付き合ってくれない。
離婚歴があるのは知っていたが、そんな事は気にならなかった。
時間を掛け、少しずつ政志さんとの距離を縮めて行った。
『...俺は不妊なんだよ』
数年後、政志さんは寂しそうに呟いた。
どうして結婚に向けて本格交際に発展しないか、何故身体の関係に進まないのか、ようやく分かったのだ。
『...そうなんだ』
『だから戌野さん、俺の事は...』
『大丈夫ですよ』
別れを言おうとする政志さんの両手をそっと握り締める。
辛そうな彼に我慢出来なかった。
『子供は授かり物です。
でも夫婦の幸せはそれだけじゃありませんから』
『...良いのか?』
『はい』
こうして私達は結婚に向けて動き出した。
私の両親は不妊である政志さんとの結婚に戸惑っていたが、兄と姉に子供がそれぞれ三人居たから、表立っての反対は無かった。
政志さんの両親からは逆に反対された。
それは私を心配しての事と分かったので、懸命に説得し、分かって貰った。
離婚原因については互いの両親と政志さんを交え詳しく聞いた。
奥さんの浮気、そして妊娠だった。
政志さんの子供だと言い張る奥さんに、何か思う所があったのか、政志さんは検査を受け、不妊が判明した。
『あーバレちゃった、でも種無しだったなら、丁度良いじゃない。
貴方の子供って事でさ』
政志さんの不妊を知った奥さんは悪びれる事なく、言いはなったそうだ。
当然だが、政志さんは納得せず、離婚となった。
しかし奥さんは政志さんに慰謝料を支払う事なく姿を眩まし、行方は分からなくなり、奥さんのご両親が代わりに建て替えたそうだ。
そうした訳で実家に戻った政志さん。
だから私は結婚に際し、政志さん家族と同居を希望したのだ。
子供が見込めないなら、せめて家族仲良く暮らしていきたい、義両親にこれ以上悲しい思いをさせたくなかった。
政志さんの離婚に親である、お二人も深く傷ついただろうに、そんな素振りも見せず家を二世帯住宅に改築までし、温かく私を迎え入れてくれた。
以来六年、主人を始めとして義両親も素晴らしい人で、嫌な気持ちに一度もなる事なく、同居は大成功だった。
正直、子供のいない寂しさはあったが、余りある幸せを私は手にした。
「可愛いもんだ...」
「はい、あと2ヶ月です」
「...うん...早く会いたいわ」
食事の後、病院から貰った赤ちゃんのエコー写真を見ながら涙する義両親。
主人もつられて涙を流す、これも毎度の事、私まで泣いてしまう。
「あら電話?」
「私が出よう」
呼び出し音にお義父様が立ち上がる。
「誰かしら?」
「さあ?」
お義母様と政志さんが首を捻る。
確かに携帯ではなく、自宅の固定電話なんか珍しい事だけど。
「誰からでした?」
数分後、お義父様はリビングに戻って来た。
いつもの笑顔は消え、その表情は険しい。
「楠野さんからだったよ」
「楠野?」
楠野って誰だろ?
「...まさか」
「お義母様?」
お義母の表情から血の気が失せる、これは一体?
「紗央莉、向こうに行ってなさい」
「はい?」
政志さんまで、どうなってるの?
「いや、紗央莉さんにも教えた方が良い」
「...親父」
「あなた...」
お義父様にしっかり頷く。
何があったのか分からない事には不安だ。
「楠野は別れた妻の実家だ」
「別れた妻?」
そんな人が今さら何故連絡を?
「なんでも失踪していた娘を半年前に発見して、一緒に暮らしていたが、働きもせずダラダラと過ごす態度に喧嘩となったらしい』
「は?」
「なんとまあ...」
かなりの人間みたいね。
「家の金を盗んで消えたらしい。
万が一、ここに来る事があったら連絡を、だそうだ」
「...ふざけんな」
「見つかったのを黙ってるなんて...」
怒りを滲ませる政志さん達。
大きな波乱が起きる。
そんな予感がした。