練習だから
蓮を部屋に招いて三時間が経とうとしている。手作りのクッキーを喜んでもらえて嬉しかったのも束の間、その後はといえば蓮はずぅーっと真剣に少女漫画を読み耽っていた。
さっきは仮恋だって事も忘れて幸せな気持ちに浸っていた私だったけど、蓮はそもそも仮恋をしているって自覚はあるんだろうか? 漫画の内容がもどかしいのか「あ~」と呻いたかと思えば、今度は眉間に皺を寄せてうんうんと頷いたり。
仮恋だってわかってる。わかってるけど仮にも付き合ってるっていう感じが全くしないんだけど。もしかして私、空気だって思われてる? ただの幼馴染として遊びに来た感じ?
イライラが募ってきて咳払いをしてみたり、テーブルを爪でトントン叩いてみたり。
とにかく、察してよ! とアピールしてみるが、蓮は全く気にする素振りを見せない。
それどころか本を閉じるとすぐさま次の巻に手を伸ばす始末。流石にこれ以上は容認できず「ちょっと」と釘を刺した。
私の声色に不穏な雰囲気を察したのか、蓮は伸ばした手を引っ込め「えっと、さくら……どうした?」と探る様に問い掛けてくる。
「あのさ蓮。私たち仮にも恋人っていう設定忘れてないよね?」
「え? お、おう! 忘れてねぇよ」
何よ、そのすっとぼけたリアクションは。
「嘘。絶対忘れてた。蓮は嘘下手すぎ」
「うっ。ごめん、漫画が面白すぎてつい……でもさ、具体的にどうすりゃいいんだ?」
蓮は困り顔で訊ねてきたが、私はそっぽを向いた。
でも確かに問題はそこなのだ。蓮からすれば恋人の演技をしなければいけないわけで、それは想像以上に難しい事だと思う。
本当に付き合っているのなら、私のこといつから好きだったの? 私のどこが好き? 今度ペアリング買いに行きたいな。とか、やりたい事も聞きたいことも一杯ある。
だけどそれは仮恋愛の範疇を超え、本当の恋愛でなければできないこと。
蓮のことが大好きだから、仮恋じゃなくて本当の恋人同士になりたい。だけどそれは叶わない。きっと蓮にとって私は幼馴染という枠を超えることはないから。
「なあ、さくら」
もどかしく思案している私に蓮が話かけた。
「なんで俺と付き合ってくれたんだ?」
ばッと蓮の方に顔を向ける。急に辺りの音が何も聞こえなくなり、しんと静まり返った空間で蓮の言葉が反芻される。
え? 今何て言ったの? つ、付き合ってくれたんだ? え? え? どういうこと?
私はどんな顔をしていたのだろう。とにかく蓮を見つめることしかできない私に対して、蓮は頭をがしがしと掻くと困ったような不貞腐れたような顔を私に投げ掛けていた。
「なんだよ、仮恋とはいえ付き合ってる設定って言ったのはさくらだろ。そんなマジなリアクションされると恥ずいな。だから、さくらは告白だってされたことあるんだからよ、仮恋ならその内の誰かとだって構わなかったんじゃないのかってことだよ」
「あ」
そういうことか。蓮は仮恋の設定に乗ってきてくれたんだ。唐突な恋人っぽい台詞はそんな設定すらふっ飛ばす威力があったし、蓮の照れたような困った顔は可愛かった。
だけど私は浮かれた態度を隠し「そういうことね」と表情を澄ます。
「だって、そんなことしたら告白してくれた子に失礼じゃない」
「俺にだって失礼だろ」
「蓮はいいでしょ。私のこと好きってわけじゃないんだから。私を好きって言ってくれる人にそんな練習みたいなことできないよ」
「……変なとこで優しいよな。………………ほら、さくらからは何かないのか?」
蓮が促してくれる。言うなら今だろうか? 仮恋愛を提案してシミュレートしてきた身としてはとてもズルいのは承知の上なんだけど……。それでも。
「じゃあ……さ」
ぽつりと語りかけ、私はベッドに腰掛ける蓮を見据えた。きょとんとした表情を浮かべる蓮と目が合う。
「キスの練習とか、するのどう?」
「はあっ!? キスぅ!?」
重たそうな目蓋が見開かれ、素っ頓狂な声を上げる蓮。対して提案した私の心臓も急速に慌ただしくなる。
「そう、恋人同士だったら二人きりでいればキスくらい当たり前でしょう? それにどうせ蓮だってキスなんてしたこともないんでしょ? だったら練習できる機会だって思えばいいじゃない」
「いや、だけどよ、流石に仮恋でキスってのは……」
暴れ回る心臓にチクリと針が刺されたような痛みが走る。蓮が渋るのは照れや恥ずかしさではなく、そもそも私とキスするなんて考えられないからなのかもしれない。
だけど私は後ろ向きな考えを切り捨てもう一押しする。
「キスくらい減るもんじゃないしいいじゃない。それに、蓮だっていつか付き合う子ができた時にキスが下手くそだったら幻滅されるよ」
「俺がキス下手くそだって決め付けんじゃねえよ」
多少ムッとした蓮が言い返す。
「へぇ~、キスしたことないのに自信はあるんだ?」
私は自分のことは棚に上げて蓮を詰ることを止めない。理由は二つある。一つは蓮をムキにさせた方がもしかしたらがあるかもしれないから。そしてもう一つは本物の関係にはなれないと嘆く心の寂しさからの八つ当たり。
蓮は目を瞑りセットされた髪をがしがしと掻き「さくら、じゃあこっち来いよ」と、蓮が腰掛けるベッドへ私を促した。
小刻みにけたたましく動いている心臓がドキッ、と一際大きく高鳴った。
まだ何もない。蓮はまだ何も言っていないのに、私は蓮と一緒にベッドの上に座るという事を想像するだけで、心臓が口から飛び出すんじゃないかというくらいドキドキしていた。
それでもあれだけ強気に詰っておいて、おろおろとした態度を取りたくないという負けん気は残っており、私は言われた通りベッドに腰掛ける。
お互いが向き合う様に座り、蓮の瞳が真っ直ぐに私を捉えていた。
顔が熱い。たぶん真っ赤になっていると思いつつ、私は顔を背けず蓮の瞳を見つめる。
「いいんだな?」の問い掛けと同時に蓮の両手が私の肩を掴んだ。条件反射でビクッと身体が震えたが「お、おう。どんと来い」とあくまで強気を崩さず返した。
全身が心臓と一体化してしまったんじゃないかと錯覚するくらい鼓動が敏感に伝わる。
唇を一文字に結んだ蓮の顔。
僅かな沈黙。
だけど私にはそれが凄く長く感じられ、つい視線を外してしまう。
蓮の喉仏が上下にゆっくりと動いた。
まだ沈黙。
私の緊張はとうとうピークに達した。