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神様と縁側

作者:

 牛乳の匂いに顔をしかめている私にかまわず、箱子さんはマグカップにホットミルクを注ぎ分け、片方を私に手渡した。温かい。生臭い。

「……牛乳、苦手なんです」と私が言うと、箱子さんは大きな目をさらに大きくして「え、そうだっけ?」と言ったが、すぐににっこりと微笑んで「でもホットミルクだから」と言い添えた。「よく眠れるよ」

 そういう問題ではない。

 私は一応口をつけたが、すぐ諦めた。引き出しから誰かのお土産でもらったらしい蜂蜜とこの間のお正月に買ったきな粉を取り出し、多めに入れてかき混ぜる。要は匂いをごまかせばいいのだ。

 箱子さんは人の好みを覚えない。この人の家に出入りするようになってしばらく、私は普段使わない蜂蜜の位置まで覚えたのに、この美しい人は私のことを何も知らないままだ。まあ箱子さんは私に限らずどんな人のことも覚えられないのだけど。

 知り合って間もない頃、「箱子さんってあの、あの人に似てますね」と言った時、箱子さんはちょっと身を乗り出して「当ててみせましょう」とやや得意げに自分の顔を指してみせた。

「ガネーシャ。私、ガネーシャに似てるんです」

「ガネーシャ?」

 そう言われてみれば、すっぴんでもアイラインを引いたような大きな瞳と濃くはっきりした眉が、あの象の顔の神様に似ていなくもない。人気女優の名前を挙げようとしていた私は出鼻を挫かれ、ガネーシャか、と繰り返すことしかできなかった。以来、箱子さんが何かズレた言動をするたび、ガネーシャだからな、と自分を納得させている。人間の尺度でちょっぴり変でも、別段おかしくない。

 カップの中身をぐるぐる混ぜる私を不思議なものでも見るように眺めたあと、箱子さんはベッドに座ってカップを両手で包み、いつものように「何かお話して」と所望する。

「何の話がいいですか」

「じゃあ、里子さんの子供の頃の話」

「牛乳が大好きでした」

「今は嫌いなの?」

「そうなんです」

 なんとか飲めるものになったきなこ牛乳をすすり、しばらく考えて、犬の話を始める。

 祖父母の家で飼われていた犬はバーモントという名前だった。茶色い毛並みと白い腹をカレーに例えたものだろうが、わたしにはどちらかというと味噌汁の色に見えた。麹かすが底に溜まった濃い味噌汁。

 バーモントは家に入ることを許されていなかった。犬は外にいるものだ、と祖父が固く信じていたからだ。唯一の例外が嵐の日で、巨大な台風が直撃するというその日は縁側に引き入れられていた。バーモントは落ち着かなげに新聞紙の上をうろうろし、窓に叩きつける雨粒を不安げに見上げていた。

「ちょっと待って。縁側にいるの?窓の内側にいるの?」

 と箱子さんは言った。私はちょっと考えて、「内縁っていうんですかね? 部屋と引き戸になってるガラス窓の間に廊下みたいなスペースがあって、部屋とは障子で区切られてるんです」と説明したが、箱子さんが真面目な顔で「そういうのも縁側っていうの?」と重ねて聞くので、だんだん自信がなくなってくる。

「うちではそう呼んでましたけど……」

「それで?」

 落ち着かないバーモントが気の毒で、その日祖父母の家に預けられていた私は縁側に座り込んでバーモントを抱いていた。新聞紙越しに床が冷たかった。

 いま、ここには私とバーモントの二人きりなのだ、と小学生の私は想像した。バーモントと一緒にこの嵐の夜を乗り切るため、どうにか雨風の入らないところにビバークしたのだ。お互いの体温で暖め合い、心を通わせあって朝を迎える。バーモント、バーモント、心配ないよ、とささやきかけ、安心させるように頭を撫でた。そういう空想遊びをする子供だった。

 しかし、バーモントと私の心はすれ違った。バーモントは窓の外の騒音に唸り、私の手をうっとおしそうに振り払った。ハッと何かに耳をすませたかと思うと、それがなんなのか私に教えてくれないうちにまた蹲った。児童文学や漫画であるような絆はそこにはなく、バーモントが何を考えているのか、全く伝わってこなかった。バーモントに安らぎを与えることもできなかった。想像のひとつひとつが裏切られた。

 その時、初めて分かった。他者と私とは違うのだ。私がどういう風に想像しようと、それは世界に影響を及ぼさないのだ。それは寂しい気づきだったが、同時に大人への一歩だったように思う。逆に言えば、あのときそう思いこんでしまったから、私はどんな状況になっても本気で現状を変えようとしない、できないのだ。

 ふと見ると、箱子さんは座ったまま寝ていた。慌てて手のマグカップを取ってやると、中身は空だった。「箱子さん、お布団で寝て」と肩を叩くと、彼女は薄く目を開け、「ほら、眠くなったでしょう?」と笑った。

 箱子さんを布団に入れ、二つのカップを流しに置いて、そのきれいな顔をしばらく眺めていた。

 犬の話には続きがある。

 それ以降、バーモントは縁側を嫌がっていた。嵐、怖い、縁側、が繋がってしまったようで、何かの都合で縁側に上げようとしても、すぐに飛び降りてしまうのだ。翌年からの台風をどう乗り切ったのかは聞いていない。

 箱子さんと知り合ったのは嵐の夜だった。本当の嵐ではない。そのころ、仕事やプライベートで天災のように思える出来事が降りかかり、世界の全てが私を傷つけ凍えさせる雨風に見えた。箱子さんの縁側に招き入れられて、なにかとバランスの危うい箱子さんの世話をあれこれ焼いている間は、嵐から守られているような気がした。そのうち嵐は去っていった。

 でも箱子さんのそばにいると、ときどきまだ嵐の中のような気がする。この部屋を一歩出たらまだ雨が叩きつけているような。だからここを一生出られないような。

 バーモントのように嫌な記憶ごと縁側を捨てるのか、ここで嵐に怯えて一生暮らすのか、その決断が迫られている。いや、べつに誰もそんなことは迫っていないのだけど。私が自分で、そういう風に思っているだけなのだけど。

 箱子さんの髪を撫でながらそんなことをまとまらない言葉で呟いていると、箱子さんがぱちりと目を覚ます。「あのねえ、犬は私ですよ」と明瞭な声で言う。「どれだけお世話になってるか、どれだけお世話されてるか」と歌うように続けて、またぱちんと目を閉じ、寝入ってしまう。私は少しあっけにとられて、その寝顔を見つめている。神様はすごいはっきりした寝言を言うなあ。

 箱子さん、私が牛乳嫌いなの覚えましたか、と囁きかけるが、箱子さんは今度こそ深く眠っている。箱子さん、縁側より内側に入ったなら、私の部屋をくれますか。部屋の中に、私が牛乳嫌いなことや、名前の由来や、服の好みを置いてくれますか。そうしたらまた嵐が来ても、もっと安心して眠れるはずなのです。箱子さん、私と一緒に住みませんか。

 でも神様はすやすや眠っている。私は電気を消して、嵐のことを考えて、バーモントより低い体温を隣に感じながら目を閉じる。

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