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ごくり。
藤田はさすがに喉を鳴らしていた。このサイン、簡単には頷けない。藤田が首を振らないでいると、滝音はもう一度サインを送った。
同じものだ。
ノーアウト満塁でノーストライク、3ボールにしろ。
藤田は初めて首を振った。そうそう快諾できるものではない。
すると、滝音が高くミットを拳で叩いた。鞭のような音とともに、滝音からサインが告げられる。
また、同じサインだった。
『俺を信じろ、藤田。とんでもないボール球を内角へ。バッターの背中を通るイメージだ。それで良い』
やれやれだ。藤田は見えないように苦笑いしながら、仕方なくサインに頷いた。
藤田は、ちらりとスタンドに目をやる。あまりにスタンドが大きくて見えないが、母はあのどこかにいるはずだ。女手一人で育ててくれた母さんは心配するだろうか。きっと母さんは観に来てくれている。藤田にとって、片親ながら必死に働いて野球を続けさせてけれた母へ、この甲子園の舞台は恩返しなのだ。
強くボールを握り締める。
母さん、大丈夫だ。3ボールになって母さんは心配するだろうね。でも、必ず抑えるから。それが俺たち甲賀の野球やから。滝音さんを、信じるんだ。
ボーーール!
とんでもないボール球に、六番打者が背中を反らせて避けた。三塁側のスタンドはお祭り騒ぎだ。メガホンが高らかに鳴らされる。
「よっしゃよっしゃー!!」
福岡高校ベンチからも威勢の良い声がグラウンドに向けて発せられる。
相手ピッチャーは急遽の登板による緊張で心の整理ができていない。本来の制球力を失っている。スタンドの観客も福岡高校ベンチも皆がそう感じていた。
そうではない。それを知っているのは藤田と滝音だけだ。
藤田は舌を巻いた。すさかず出されたサインにゾッとする。理解不能だ。
『ど真ん中。力は七分で充分だ』
滝音さん、この人……いったいどんな世界を見ているんだ。




