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『黒椿』はくノ一の業としては基礎の業にあたる。
その昔、敵陣営への潜入を果たしたくノ一は、その当主の寝床に最短で入る手段を常に窺っていた。『黒椿』を使うために。
触る、触らせるという二つの触覚。
溶けさせるような眼で奪う視覚。
甘い声を鼓膜にねとりつかせる聴覚。
鼻の奥、弱い神経を麻痺させるほど強烈な女の香りを放つ嗅覚。
この四つを同時に行い、男に激甚たる性の欲望を掻きたてる。
だが、『黒椿』は単に欲情させるだけの業ではない。首、すなわち脳から身体へと繋がるすべての神経が通る部位に、くノ一は舌を這わせマーキングする。体内から発される女の匂いで神経を酔わせるのである。男は、虜となる。小一時間、男たちは神経を乗っ取られたくノ一に隷属することとなる。
その昔、くノ一たちは、とろんと目線が飛ぶ敵当主の様子を愉しそうに見つめ、そのままゆっくりと小刀を首にあてた。そのまま力を入れることなく、小刀を引き、頸動脈を切っていった。
それが『黒椿』という業である。
ちなみに、黒椿を受けた者は皆、不思議と笑みを浮かべたまま死んでいた。まるで快楽の最中にでもいるように。当の本人にしか分かり得ないが、『黒椿』には言い伝えがある。
───黒椿浴びる者 悦楽なる夢見たる 夢醒める刻 幸のままに命落とさん───
帽子の鍔に指をかけ、礼をするようにして桔梗は鉢谷から離れた。甲子園球場全体に礼賛の拍手が鳴る。
そのままスプレーをベンチの月掛に放り、桔梗は打席でバットを構えた。マウンドには目をとろんと垂らした鉢谷がいる。桔梗は誰にも聞こえない声で呟く。
「えへ、いっちょあがり」




