29
桔梗はぴんと閃いていた。ここは、あれをやる大きなチャンスだ、と。
「ちょっと! 犬走くん、早く!」
その気迫に押されるように、犬走が桔梗へコールドスプレーを投げる。
相手の控え選手がコールドスプレーを持ちながら鉢谷のもとへ向かおうとする瞬間、桔梗はそれを制して自分が駆けた。意地でも自分が行くから! という目をしている。
「あたしが行きます!」
声をかけられた控え選手はその様相に怯み、ベンチへ戻った。だが、ふと、首を傾げる。
あたし……? って言わなかったか、今?
桔梗がコールドスプレーを片手にマウンド前へ行くのを観衆は拍手で称えた。
皆、知らない。桔梗の考えと正体を。
「だい……じょう……ぶ?」
桔梗が鉢谷の前にしゃがむ。どこかも確認しないまま、桔梗は鉢谷の足へ適当にスプレーを振る。そのまま上目を遣い、鉢谷を見上げた。
唇が薄く桃色に艶めき、思わず鉢谷は目を逸らす。逸らした顔はぐるりと桔梗の反対を向き、桔梗の目の前に鉢谷の耳が近づいた。
───しめた───
桔梗は濡れた唇に舌を這わせた。そっと、目の前の耳へ唇を寄せる。
「……んねぇ、だいじょうぶか、教えて」
声を出しているのか、吐息を吹き掛けているのか、どちらともつかない。ビクンっと、鉢谷が首をすくめた。何事かと、ちらり鉢谷は横目で桔梗を見つめる。
桔梗はほんの一瞬だけ鉢谷から目線を切り、球審を見た。……こちらを見ていない。隣で立って様子を見ているキャッチャーが桔梗の目線を辿って球審の方へ顔を向けた。これで誰も見ていない。好機!
桔梗はすくめた鉢谷の首めがけて、顔を寄せた。驚く鉢谷の左手をそっと右手で引き寄せ、柔らかい胸にあてた。同時、桔梗の桃色の唇から淫靡な舌が覗き、鉢谷の首もとを舌が這った。目が合う。それと同時に鉢谷の鼻腔に生ぬるい女の匂いが立ちこめた。鉢谷は上気し、目の焦点を合わせられない。
『甲賀流東雲家 くノ一忍法其の弐、黒椿』




