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 夏は早くも列島を覆い、街ゆく人々は日陰を見つけては逃げ込んでいく。

 お昼休み、一人のOLが携帯扇風機からの風を浴びながら、コンビニへと逃げ込んだ。自動ドアが開くと、凍えるくらいの冷気に包まれる。

 さぁ、お昼はパスタにするか冷やし麺にするか、と、かごを取ろうとしたところで、目下の障害に気づいて咄嗟に避けた。

 コンビニの入口すぐにおっさんがしゃがんでいた。OLはおっさんを邪魔そうに一瞥し、おっさんが物色しているスポーツ紙の一面に目をやった。

 スポーツ紙の一面には、プロ野球の文字が躍っていた。おっさんは伸びた髭を掻きながら、一紙だけ違う一面を掲載したスポーツ紙を手に取った。

 その文字を見て、OLは「あぁ」と小さく声を洩らす。声に気づいたおっさんが鼻をほじりながら振り返り、慌ててOLはコンビニの奥へと逃げた。


 昨晩、手の込んだ手料理を彼氏に振る舞ったが、スポーツニュースを観ていた野球好きの彼氏は料理そっちのけで何やら叫んでいた。


「ちょ、10人で甲子園ってすごくね? しかも、こいつ片手で打ってるし。本物の忍者なんじゃねえの、こいつら」


 彼氏はそんなことを嬉々として叫びながら、味わいもせずに手料理を口に放り込んでいく。


「……せっかく頑張って作ったのに……」


 ぽつりと呟いた。野球なんて、どうでもいいじゃん。そう思って睨み見たTV画面には、あり得ないほどジャンプしている高校生が映っていた。

 野球はほとんど観たことがない。それでも、なんだかすごい。それだけは感じた。


「俺、こいつらの試合、甲子園行って見てみたいかも」


「そうね」


 彼氏は米粒ひとつ残さず、手料理を平らげていた。美味しかったの一言はなかったけど、それはそれで良いかと思えた。

 このOLはこの夏、甲子園という舞台に熱狂し、高校野球の虜となっていく。


 コンビニでしゃがんでいたおっさんは公園のベンチでスポーツ紙を広げていた。甘い缶コーヒーを一気に喉に通して紙面を捲る。プロ野球の紙面に目を通すと、不満そうに頭を掻いた。


「ったあ、東京やったら阪神こんな扱いなんかいな。関西おったら、負けたって良いことばっか書いてくれんねやけどなぁ」


 愛するタイガースの記事から目を背け、一面に戻る。そこには、奇跡の初出場を成し遂げた高校の名が大きく取り上げられた。


『忍者野球、見参! 甲賀高校初の甲子園切符。部員たった二人からの奇跡』


「まあ、ええか。今年の夏は大阪桐心に理弁和歌山、ほんでこいつら甲賀やな。関西強し、や。甲子園、おもろくなりよんど」


 おっさんは新聞を折り畳んで空を見上げた。薄い水色の空に、もくもくと入道雲が湧き立とうとしている。


「甲賀なぁ。初出場校に甲子園は甘ないど。こっから本番までにどんだけできるか、やろな」


 さっきから独り言の多いこのおっさんを、散歩に来た母子たちが避けるように歩いていく。おっさんは根元まで吸った煙草を缶コーヒーにねじ入れて、ベンチに横たわった。


 このおっさんも、それを避ける母子も、毎日変わらずデスクに向かうサラリーマンも、絵描きも、女優もホステスも、鳶も配管工も、みんなみんな、この夏に繰り広げられる熱戦に心を奪われる。そんな、誰もが見たことのない夏がやってくる。

 太陽が日本を照らす。ギラギラと。待ちきれないようだ。早く甲子園を見せてくれ、と。

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