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「鉢谷……この前の、本当のグラウンドで投げてみないか?」
鉢谷は本のページをゆっくりとめくる。中指と薬指には今日も蝶がとまっていた。
「見ていたよ。あれじゃ、この前ここで見せたようにはならない。そもそも空気に乗せたいのだろうに、投げてどうするんだい?」
またも、ちんぷんかんぷんの問答になりそうだ。
「分からない。分からないから、お前の力が必要だ」
「僕はそもそも野球なんて、やったことないよ」
「やったことないからこそ、打たれないかもしれない。ただ、やりたくないのにやってくれとは、さすがに言えん。それならそれで仕方ない。けど、鉢谷、一度だけあそこから投げてみてくれ。やれとは言わない。もし、前に見せてくれたものがマウンドからもできるなら、俺に盗ませてくれ」
山﨑はデスクに両手をついて頭を下げた。
「……分かったよ。僕も試してみたいという感情は、あるよ。この……」
鉢谷は指にそっと息を吹いた。蝶がひらひらと指を離れる。
「空気の操り方をね」
蝶はひらりと窓の隙間を見つけて空に舞い上がっていった。
「……空気の……操り方?」
山﨑が舞い上がる蝶を見ながら訊ねる。
「ふふ、誰にでもできるようで、誰にもできることじゃない」
「鉢谷、お前って、哲学者かなんかみたいやんな」
「哲学者じゃないさ。リアリストで……」
「リアリスト……で?」
「ただの忍者さ」
山﨑は首を捻って笑った。
「冗談なんか真面目なんか、お前はよう分からんばい」
鉢谷は前髪を垂らしたまま、読んでいた本に栞紐を挟んだ。椅子を音なく引き、山﨑の前に立つ。
「冗談で、いいよ。……実は少し事情が変わってね。表舞台に立ってみるのも良いかもしれない。そう思っていたところだ」
「……また訳の分からんことを……。何なんだ、それ」
「まぁ、いずれ分かるよ」
山﨑の後ろを鉢谷がついてくる。
グラウンドに制服姿の鉢谷を連れてきたことで、野球部員たちは何事かを理解できなかった。
「おい、古賀! 打席立ってみてくれ。できれば打ち返せ!」
福岡高校野球部四番の古賀が訳も分からず打席に立つ。長打力があり、バットコントロールもチーム随一だ。
鉢谷が慣れてなさそうに、土を踏みしめた。足下はローファーだ。
「……鉢谷だっけ? 打って良かとや?」
古賀が訊ねる。
「どうぞ。打てるものなら、ね」
古賀はカッと目を見開いた。帰宅部なんかになめられてたまるか。
だが、古賀はこの後、今まで見たことのないボールを見ることとなる。バットには掠りもしなかった。
鉢谷がぎこちない投球動作に入る。投げたと言えないようなフォームから、ボールが離れる。
『鉢屋衆分家、鉢谷術。舞え、幻蝶』
山﨑は口を開けたまま固まっていた。打席の古賀も空振りしたボールの行方を探している。両者とも同じ感情を抱いた。
……なんだ、今のは。
……あんなの、打てる奴いるのか。




