有効期限のデフォルト
二一〇一年一月一日に会いにいく。食パンの耳を私のぶんまでかじりながら兄はそう言って帰ってきませんでした。テマ先輩は本棚に並ぶ背表紙を人差し指の爪でつーっとなぞりました。指はときどき上ずった帯にひっかかって、軌跡はだんだんと下降してゆきます。
「イワーノフはイワーノフでオネーギンはオネーギンなのにペチョーリンはペチョーリンでないから見つからない。どうしたものか……貴様の兄もそういう気持ちだったのではないかね」
「違うと思います」
やべ、傷がついた――先輩は急いで指をひっこめて、私の腕を引っぱりました。そのまま図書室を出て「なら、きっと逃げたのだ。貴様の兄は悪党で、バレそうになったからバイナラしたのだ」と言います。テマ先輩にはおそらく人の心がないのだと思います。初めて出会ったとき、こっそりと配達してもらったピザを部室の机に広げながら彼は笑っていました。「推理に必要なのは何故そうしなければならなかったかを考える能力で、それは寛容さと相いれないのだよ」ピザにはチーズを何重にもトッピングしていたので、彼の唇からは大量の糸がたれていました。この人に依頼してあの言葉の真相が解明できるのかと不安になったものです。今では絶望しています。
「まあ、心配するでない。我が解決できなかった難事件は星の数ほどあるが、星は見ているだけで素晴らしいのだ」
また明日、と渡り廊下で別れました。先輩は一日に一ターンしか動けません。捜査を依頼して、交換条件としてスイーツ同好会に入会させられて、一か月。進展はまったくなく、二一〇一年一月一日が刻々と近づいてくる。
次の日、私は先輩とともに物理室の一角に追いつめられていました。物理部で唯一活動しているサネカ部長の小型ロケットをテマ先輩がゴミ箱に捨ててしまったからです。
「だって、ゴミかと思った!」
サネカ部長は無言でテマ先輩の頭にドローンをぶつけて倒しました。尻もちをついた先輩は「次は貴様のターンなのだ、行け!」と私のひざ裏をつついてくるので後ろにキックして黙らせます。
「二一〇一年一月一日ねえ。まあ、物理的にはありえないことではないんじゃない? 過去に進むわけではないんだから」
私たちのやりとりはたったこれだけでしたが、物理室から出てまっさきに私のほうを振りかえったテマ先輩は不敵な笑みを浮かべてふんぞりかえりました。
「我の人脈によって、とんでもない事実が判明したな」
「そうですか?」
「物理的には可能だということだ」
また明日、とパンケーキ屋の出口で別れました。先輩は一日に一ターンしか動けませんが、デザートは別腹です。捜査を依頼して、一か月と一日。進展はまったくなく、二一〇一年一月一日が刻々と近づいてくる。
次の日、私は先輩とともに部室の一角で追いつめられていました。遊戯部で唯一活動しているナハタ副部長の賭けトランプに負け続けて一週間分のあんぱんを奢ることになったからです。
「ぐぬぬ。貴様が三日、我が二日分を負担するしかないな」
「なんのために一年早く生まれてきたんですか?」
ナハタ副部長はへらへらと笑いながらテマ先輩の眉間に向かってカードを投げて倒しました。尻もちをついた先輩は「脊髄が爆発したらどうするのだ!」と私が座る椅子の足を揺らしてくるので踏んづけて黙らせます。
「二一〇一年一月一日な。百パー、ありえん展開、でもないわ」
私たちのやりとりはたったこれだけでしたが、遊戯室から出てまっさきに私のほうを振りかえったテマ先輩は不敵な笑みを浮かべてふんぞりかえりました。
「我の人脈によって、とんでもない事実が判明したな」
「そうですか?」
「確率的にはゼロパーセントでないということだ」
また明日、と生活指導室の前で別れました。先輩は一日に一ターンしか動けませんが、賭けトランプ発覚後の生徒指導は別です。捜査を依頼して、一か月と二日。進展はまったくなく、二一〇一年一月一日が刻々と近づいてくる。
次の日、私は先輩とともにコンピュータ室の一角で追いつめられていました。プログラミング部で唯一活動しているトーカワさんが操作する小型ロボットに追いつめられていたからです。
「物理部と合併しろい!」
トーカワさんはためらいつつもテマ先輩に小型ロボットを抱きつかせて倒しました。尻もちをついた先輩は「なんで目が十個もあるのだ……」と私にすがって立ち上がろうとしたので振りはらって黙らせます。
「二一〇一年一月一日。それはそれは興味深い数字っスねぇ」
「数字が興味深いだと? 数学部の立場を奪うのではない!」
「だってだって二一〇一年一月一日に会えるってことは、二一〇〇年一二月三一日の二三時五九分にはダメってことっスよ」
テマ先輩は「そ、そんなことは捜査の二日目に分かっていたのだが?」とあわてて立ち上がったのですが、なぜ一日目の段階でわからなかったのか謎です。
「二一〇〇年一二月三一日といえば、有効期限の最果てっスよね」
「有効期限?」
「ほら、何から何までのウニョウニョのあとで、ありえない日付として二一〇〇年十二月三十一が使われるじゃないっスか。そうでなくても、あのー、ヌルっつーか、何も入ってないのはダメだから、デフォルト値を指定しておくんですけど、そういうのにも使うんすよ。二一〇〇年十二月三十一」
私たちのやりとりはたったこれだけでしたが、コンピュータ室から出てまっさきに私のほうを振りかえったテマ先輩は不敵な笑みを浮かべ――る前に、ふたたびコンピュータ室に首をつっこみました。
「待て、それで二一〇一年一月一日には会えるのかね?」
「二一〇〇年問題はあっても二一〇一年問題は聞いたことないっスから、まーイケるっスよ、たぶん」
コンピュータ室につっこんだ首をこちらに向けたテマ先輩は不敵な笑みを浮かべてふんぞりかえりました。
「我の人脈によって、とんでもない事実が判明したな」
「そうですか?」
「論理的には真実ということだ」
また明日、とコンピュータ室の前で別れました。先輩は一日に一ターンしか動けませんが、私は別です。ふたたび戸を叩いて、トーカワさんに尋ねます。
「有効期限より後の日って、どうなるんですか?」
「えー、そりゃ無効になるっスよ。物理的には残るけど、だいたい論理的にはないことにしちゃう。でも、そもそもそんな日は来ないっスからね。二一〇〇年十二月三十一日は永久に続くって意味っスから」
捜査を依頼して、一か月と三日。進展はまったくなく、二一〇一年一月一日が刻々と近づいてくる。
次の日、私は文芸室の一角で追いつめられていました。文学部で唯一活動しているアマネさんが二一〇一年一月一日についておそろしい総括を述べたからです。私の対面に彼女が座り、その両隣にはテマ先輩やサネカ部長、ナハタ副部長にトーカワさんと協力者が勢ぞろいしていました。
「それはさよならの挨拶かと」
なのに私はただ、机の木目の美しさを気にしようと心がけていました。
「彼は有効期限のデフォルトを二一〇〇年十二月三十一日に設定しました。その次の日までに想いが続いているのなら会いにいくと言ったのでしょう。しかし、そもそも二一〇〇年十二月三十一日は永久に来ることのないありえない日付。文学的に読み解けば、もう会えないと述べているに等しい」
焦げたところが美味しいといつも私に分け与えてくれた――本当はガンの原因になると聞いて怯えていただけの兄ともう二度と会えない。
私の食パンの耳を奪って、約束の永さに逃げた。
重苦しい空気を咳払いが吹きとばしました。
「文学は絶望しか与えられないのか?」
席を立ったテマ先輩は、私と協力者のあいだをとるようにして机の短辺の前でふんぞりかえりました。
「すとんと腑に落ちれば正義か? 感傷があれば崇高か? 綺麗にまとまっていれば精巧か? 悲観的であればリアリティーがあるか?」
「何を言いたいんです?」
「際限なく想像できるなら、際限なく希望のあることを考えられるはずだ」
彼は協力者一同を見やって、それから私を見ました。
「貴様の兄は、文字どおり、二一〇一年一月一日に会いに行ったのだ! だから、今から二一〇一年一月一日に向かおう!」
「ええ……どうやってですか?」
「何、ここにいるメンバーで、ちょちょいのちょいよ」
私は協力者一同と顔を見合わせました。
捜査を依頼して、一か月と四日目のことでした。
長い旅でした。世界はいったん滅びたらしく、ビルから樹が生えています。あたりは埃っぽいのに空気が澄んでいて、苦いんだか美味しいんだかわかりません。人工の明かりひとつない夜は、月と星のかがやきによって今まで見た中でいちばん明るく、なんでも見えます。兄は瓦礫の山の上でちょこんと座って、パンの耳を咥えていました。
「こっちから会いに来たよ、お兄ちゃん」
「もぐもぐ、もぐ、もぐ……違う、こちらから会いに来たのだよ、妹よ」
私たち兄妹の再会に、サネカ部長もナハタ副部長もトーカワさんもアマネさんも手をつないでぐるぐると円を描くように回っていました。
その円のなかに、テマ先輩がいます。
「会えた! 会えた! 物理的に論理的に確率的に会えるから会えた!」
際限なく想像できるなら、際限なく希望のあることを考えられる。
なんども万歳している先輩を見ながら、私はもっと、もっと想像してみようと思いました。
物理的に論理的に確率的に会えなくても、物語なら会える。