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夢見る脳

作者: たまゆら

この頃、胃の調子が良くない。

仕事やら家族の事やら、ごたごたしていてかなりのストレスが溜まっている。

仕事に関しては、気の合わない上司がいて、私のする事なす事、気にいらない様でどんなに成果を上げてもケチをつけてくる。同僚や部下達は私の仕事を高く評価してくれていて温かい対応をしてくれるので堪忍袋の緒を切らずにすんでいる。

しかしいつまで持つかわからない。今日も、現代の若者たちについて街角インタビューを重ねた上、若者たちがかかえている闇は何なのかについてのコラムを書き上げ、上司に提出したのだが、薄笑いを浮かべボツにされた。

かなりの出来で自信をもっていただけに強い殺意を持った。

自分の体が凶器となり上司にとびかかって行きそうだった。

こんな風に何度この上司を殺したかわからない。しかし現実は何もおこらない。今日も私は静かに自分の机に戻った。

部下が温かいコーヒーを淹れてくれていた。荒ぶる気持ちを抑えてくれた。

いつもこうして無事警察のお世話にならずにすんでいる。

部下のパソコンに、ありがとうと送った。

今日は退社時間より早めに帰る事にした。机の上を片付け、お先にと軽く頭を下げ職場を後にした。

このまま家に帰るのはキツイので、街をぶらつくことにした。

あてもなく人にぶつからない様に歩いた。

楽しそうに歩いている親子とすれちがった。私の気持ちはさらに沈んできた。

子供が一人いる。男の子で思春期真っ最中だ。会話はほぼ無い。夫は外に愛人がいる。

姑と同居で、私がいたらぬ故夫は家に帰らぬと毎日私を責める。

毎日姑を殺している。たまに帰って来る夫に対してはもう殺し過ぎて、深い穴に埋めたので何も思わない。家に帰る意味が見つからない。居場所もない。息子が気になった時もあった。でも今は姑と仲良くやっているので私の入る隙もない。

私の帰る意味はない。

私は帰るのを止めた。なぜ今まで帰っていたのか、なにが私を家に繋ぎ止めていたのか謎だ。私は地下鉄に乗った。終点まで行こうと思った。とても気持ちが楽になった。開放感が全身を貫いた。

誰かに肩をたたかれた。びくっとして顔を上げると、「終点ですよ。」目の前に駅員がいた知らない間に眠り込んでいたようだ。

「すみません。ありがとうございました。」と頭を下げ車両から出た。地上に出るとまだ明るい日差しがあった。

かなりの空腹を感じたので、近くにあったコンビニに入りハムサンドとコーヒーを買った。簡単な食事スペースが空いていたのでゆっくりと食べた。いつもより美味しかった。

新鮮だった。こうしている自分が自分では無い様でワクワクした。もう二度とあの家には帰らないだろう。自分が結婚している事、子供がいる事、ある出版社に勤めている事などが夢のように遠のいて行く。

一人でいる自由に心が震えるほど喜んでいた。上司への殺意、夫への殺意、姑への殺意がきれいさっぱり消えていた。見知らぬ人と思えた。

爽やかな気持ちで店を出た。見知らぬ街である。こざっぱりと整備された感じの街だ。とりあえずうろついてみようとおもった。

この街のメインストリートであろう商店街を抜けると急にだだっ広い広場にでた。広場の真ん中に大きなけやきの木があった。そしてその回りに何本かの、かまぼこ板位の小さな板が植えられていた。なんだろうと思い傍に寄ってみた。その板に文字が書かれていた。さらに近寄り文字を読んで行くと、あっ、と叫び声を上げてしまった。

その板は四枚あった。それぞれに名前が書かれていて、末尾に、死す、と記されていた。その名前は私の知っている人ばかりだった。まさしく私が殺意を持った人ばかり。

しかし、息子の名前まであるのは信じられない思いがした。しかし自分でも気がつかないまま息子に殺意を持っていたのかもしれない。

私は広場を抜けて進んだ。小奇麗な家が立ち並んでいる。とてもいい街だと又さらに思った。ここで暮らして行こうと決めた。私を邪魔する人はもう誰もいない、満面の笑みがひろがって行った。


何不自由ない豊かな暮らし。人は皆言う。「本当にエスさんは結構ねえ。うらやましいわあ

一日でいいから私と交換して欲しいわ」と何人かの友人に言われた。

確かに、夫は某商社のエリートで、二人の娘は名門私立の学校に通い、家政婦が住み込みで二人いて、姑、姑は海外で生活しているので気遣いはない。いつも美しく着飾って、バイオリンを弾いたり、刺繍をしたり、フランス語のレッスンを受けたり、友人たちとかなり高級な店のランチを食べに行ったりと優雅な毎日を送っている。

恵まれた婦人にありがちな、夫が不倫をしているとか、子供がいじめを受けているとかの悲劇もない。優しい夫、可愛く素直な子供、完璧な暮らしとは彼女のような状態を言うのだろう。

だがエスには得体の知れない、お腹の底から湧いてくる誰にも言えない恐怖と毎日戦っていた。それは言葉には表わせない恐怖だ。エスにもなぜなのかわからない。あまりにも辛いのでそっと占いにも行った事もある。非常に良く当たると言う噂を耳にしたので、隠れるようににしてその店のドアを開けたのだ。割に普通のセンスの良い店で、占い師もごくごく普通の人で、ただ性別は分からなかったが。どうぞと椅子をすすめられ、おそるおそるこそかけた。普通の占い師はエスをまじまじと見つめ呟いた。

「お気の毒に。お気の毒に。三年後貴女の運命は最悪になる貴女の体は、貴女の体は、あれっ、」と呟いたまま、

「申し訳ありませんがお代は要りませんので、お引取り下さい。私のレベルでは完全にみる事は出来ないお方の様です。」そう言って奥に引っ込んでしまった。

エスが何度呼ぼうとも、しんと静まりかえってなんの反応もない。エスは仕方なく来た時よりもっと恐怖感をつのらせ店を後にした。

こんな事があってから益々恐怖の毎日を送っていた。ただ外目にはおくびにも出さないので、相変わらず皆に幸せな奥様と噂されて、うらやましがられていた。

エスは孤独と恐怖に押しつぶされそうになって行った。

ある日の事だった。いつもの店にオリーブオイルを買いに出かけた。出かける時は晴れていたのだがどんどん雨雲が空を覆い、あっと言う間に雨の嵐に街は濡れていった。

エスは慌てて店の軒さきに入った。暫くすれば止みそうな雨ではあった。ふと店の中を覗いた。沢山の鞄が並べられている。大きな物からカクテルバックのような物まで他種類に及んでいる。

雨が止むまで、覗いて見ようかと思い中に入った。

エス以外お客はなく、静かな店内で落ち着きがあった。品の良い店主なのか店員なのかわからないが、中年の女性が出てきた。

「突然の雨で驚きましたね。どうぞ雨が止むまでゆっくりみていって下さいまし」

「ありがとうございます。そうさせて頂きますわ」と答えた。

沢山の鞄の中でひときわ目立つ大きな鞄に目が止まった。子供一人余裕で入れそうに思う。

か細いエスなら入れるかもしれない。ふと、この鞄に私を入れて誰かどこかに連れて行ってくれないだろうかと思った。

思いつめたようにその鞄を見つめるエスを不審に思ったのか店の女性が、「この鞄がお気に召しましたか」とやんわり声をかけた。

我に返ったエスは少し赤くなりながら、「いえ、はいそうですね、こんな素敵な鞄で旅行が出来たら素敵だろうなと思って」と答えた。

「そうですか。お気に召して頂けたようで嬉しく存じます。よろしければお安くさせて頂きますが」

「ありがとうございます。今度主人と又寄せて頂きますわ」と答えた。雨が小振りになっていた。

エスは店を出た。

「是非、お待ち致しております。ありがとうございました」と声がした。

エスは何故か、地下鉄に向かった。どんどん進んだ。オリーブオイルの事など、どうでも良くなっていた。

到着したばかりの電車に乗った。終点まで行こうと決めた。そしてもう家には帰らないだろうと思った。とてもリラックスしていた。あのすざましい恐怖感は消え失せていた。幸せな気持ちがエスの体を包み込んでいた。


今日はとってもいい日だった。こんな爽やかな気分はあまりに久しぶりで初めてかもしれないと感じていた。思えば我慢の毎日だった。心から笑った事など一度もなかった。

何を楽しみに、何を生きがいに生きているのか分からなかった。

朝、目が覚める、スイッチを入れる。頭の中に一日のノルマの様なスケジュールが浮かぶブロック潰しの様に一つ一つこなして行く。

時間は正確に過ぎて行く。空腹もない、疲れもない。白い紙に黒い丸を2つ書いただけの様な自分の顔、その穴のような黒丸はどこまでも深く深く、底なしの井戸の様な。

でも心の中はからっぽ。いつも体の中に風が吹いている。どこか遠くから自分を呼ぶ声が聞こえる時がある。それが、現実か妄想かは分からない。でも行ってみたいと思う。そのどこかは分からないけれど、遠くの世界に。夢だけれど。でも今日は行けるかもしれないと感じていた。その位気分が良かった。

私はもう帰らない。あの家には。やっと開放されたのだ。おばあちゃんが、「ありがとう、もういいよ」と言ってくれた、と思う、五人のおばあちゃんが。

一人は随分痩せていたなあー。毎日きちんと食事を与えていたのに。もうひとりはなぜか裸だったなあー。いつもきちんと着替えさせていたのに。又もう一人は歯が全部とがっていたなあー。まるでやすりで研いだように。あとの二人は顔になぜか、口だけを残してガムテープがグルグル巻かれていたなあー。なんでかなあー。

まっ、とにかくみんな元気そうだった。今まで五人の為に尽くして来てよかった。みんなとても喜んでいた。毎日毎日、とても喜んでいた。そのご褒美かな。

「もういいよ」と言ってくれたのは、開放、開放、開放、どこにでも行ける。自由がある地下鉄に乗ろう。ずっと憧れていた。地下鉄に乗りたかった。今、本当の自分の気持ちに気づいた。好きな所に行ける。ひ

あっ、手が真赤だ。なぜかな、とにかく手を洗おう。

地下鉄のトイレで、綺麗にした。今日は本当にいい日だ。爽やかだ。

さあ、どこに行こう、終点まで乗ってみるか。からっぽだった心に喜びが満ち溢れた。電車の窓に写った自分はとても美しかった。


ある研究所。何人かの男、女が、「エムはずっと夢を見ていますね。とても楽しそうだ。羨ましい限りだ。我々はあけても暮れても研究、研究で。余裕がない。これでいいのかなと思う時がある」

「ほんとうにね。私なんていつ美容室に行ったか、思い出せないわ。女を忘れているわ」

「いやいや、君はいつも綺麗だよ」

「有り難う。お世辞でも嬉しいわ。ところで、アイはどんな具合かしら。きのうは、反応がなかったんだけど」

「ああ、さっきチェツクしたら少し反応があったよ。もう少し様子を見てみよう」

こうして何時までも会話が続いている。

しかしこの研究の中は、人の話し声は聞こえない。

聞こえるのは、空気清浄機の機械音と、ブクブクと常に新鮮な空気と栄養を送り続けているポンプの音だけ。

無菌状態の部屋には、いくつもの、特殊な装置に入れられた脳が並んでいる。

何の目的なのかは分からない。誰が管理しているのかも分からない。時が止まっているかのように静かな静かな部屋。


タバコの臭いがする。

研究室の外にちょつとした休憩場のような所があり、小さなテーブルと椅子が置いてある。そこで、誰かタバコを吸ったようだ。

火を消し忘れたのか、煙っているのだ。吸い殻の傍にタバコの空き箱がある。小さな火種からとんでもない火事になる事がある。

次第に大きな炎になって行った。研究所はあかく、あかく炎を上げている。

中から人の悲鳴が聞こえたような気がした。


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