STIGMATA~momo's story~
あたしは小さい頃、アオイちゃんとおばあちゃんに連れられて、この家にやって来た。お父さんやお母さん、兄弟たちと離れるのはちょっとさびしかったけれど、それよりもアオイちゃんといっしょに暮らせることが楽しみだったから、わくわくしながらやって来た。あたしが産まれたばっかりの頃、本当に小さい頃から、アオイちゃんはおばあちゃんと一緒に遊びに来ていて、あたしのことも、兄弟のことも、それからお父さん、お母さんのこともとても優しく撫でてくれた。だからあたしはアオイちゃんちに行くことがわかってからは嬉しくて、嬉しくて、遊びにくるたんびにアオイちゃんの手をぺろぺろ舐めてあげたんだ。
アオイちゃんは小さな女の子で、隣に住むモーリーと同じ柄をしていた。モーリーは右目のまわりが黒ぶちになっている白犬で、大きな犬なのにとても優しい。たまに散歩で家の前を通る犬は威張ったり、大きな声を出して脅したりするけれど、モーリーは一度だってそんなことをしたことはない。晴れた日にはよく芝生の庭を駆けていて、あたしたちに会うと「うおん」、と大きな声で挨拶をして、すりすりと温かくて濡れた鼻を押し付けてくれた。
アオイちゃんも一緒だった。アオイちゃんは挨拶こそしなかったけれど、撫でてくれる手はいつもとても優しかった。痛くなんて一度だって、されたことない。それはまるで、どうされたら痛いのかってことをよくわかっているみたいだった。そんなだったから、あたしはアオイちゃんと暮らすのはとても楽しみだった。それからおばあちゃんとも。おばあちゃんはいつも甘いにおいのするお菓子を持って、奥さんのところに遊びに来ていた。それは奥さんにも旦那さんにもいっつも大好評で、奥さんはよく、「品の良い、優しい、本当に素敵なおばあちゃまが引っ越してきてくれた。」と喜んでいた。
あたしがお母さんのお乳よりもカリカリのご飯の方を美味しがる頃、いよいよこの家にさよならをすることになった。兄妹たちもそれぞれもういい所に貰われて行っていて、みんな楽しく暮らしているんだって聞いていた。あたしはおばあちゃんが持ってきてくれた猫のバッグに入って奥さんにお別れをして、わくわくしながら家を出た。
「御近所さんですから、いつでもお父様、お母様に会えますからね。だから、寂しくはないんですよ。」おばあちゃんはバッグのネット越しにあたしを覗き込んで、そう言ってくれた。そして本当にバッグの中からモーリーの家と、そして何軒かの家を物珍し気に見ている内に、すぐにアオイちゃんの家に着いた。
新しいおうちは素敵だった。屋根には鶏の模型がくるくる回っていて、庭はモーリーが駆け回れるぐらいに広々していた。大きな木には、鳥たちが楽しめそうな赤い実がたくさん成っていた。おばあちゃんは「モモさん、ここが新しいおうちですよ」と言って扉を開け、丁寧に玄関に下ろしてくれた。そこはとても静かで広々としていたし、バッグの中で背中と前足が窮屈になっていたので、ふかふかの絨毯の上にぴょいと飛び乗ってうんと伸びをした。アオイちゃんは、それを見てにっこり笑ってまた撫でてくれた。優しい手だった。
それからおばあちゃんとアオイちゃんの後に付いてリビングに入ると、そこにはもう美味しいご飯とお水とが可愛いお皿で用意されていた。お皿には人間の言葉で「モモ」って書いてあるんだって、後からアオイちゃんに聞いて、あたしはとっても嬉しかった。
アオイちゃんは一緒に暮らすようになってからもずっと挨拶はしなかったけれど、いつもあたしを優しく撫でてくれて、夜は同じベッドに入れて一緒に眠ってくれた。それはとてもとても心地よかった。それからアオイちゃんは、よくお気に入りのクレヨンであたしの絵を描いてくれた。画用紙いっぱいに大きく描いたり、小さく幾つも描いたり、画用紙はすぐにあたしだらけになった。そしてあたしの体はねずみ色だったから、アオイちゃんのクレヨンはねずみ色だけがみるみる短くなっていった。
「ねずみ色だけが短くなってしまいましたですねえ。」ある日、お絵描きをしていたアオイちゃんに、おばあちゃんが困ったような顔で言った。
アオイちゃんも一旦書く手を止めて、深刻そうに肯く。
「新しいクレヨンを買いに行ってもいいのですが、他の色は長いまんまでございますしねえ。どうしたものでしょうねえ。」
アオイちゃんは厳しい眼差しでクレヨンを端から順繰りに見ていた。あたしもアオイちゃんの隣で一緒になって覗き込んだ。たしかに、ねずみ色だけが、あたしの体の色だけが、うんと短くなっていて、それだけもうクレヨンを巻いている紙もどこかにいってなくなっていた。
その時、お兄ちゃんが二階の部屋からどたどたと降りてきた。
「おはようございます、タツキ様。」
「おはよう。どしたの。清さんもアオイも、そんな難しそうな顔して。」
アオイちゃんは短くなったねずみ色のクレヨンを、ぐいとお兄ちゃんの前に差し出した。
「ねずみ色ばかりが、こう、短くなってしまわれたんでございますよ。」
「モモばっかり描いてるからだな。」
あたしはそう言われて、慌ててアオイちゃんの後ろに隠れて背中を丸くした。
お兄ちゃんはねずみ色のクレヨンを目の前に持って来ると、「……じゃあ、そうだな。……駅前の画材屋行けば灰色のクレヨンだけ、売ってるかもしれねえから今度見て来てやるよ。」と言ってクレヨンを手渡すと、アオイちゃんはにっと笑って肯いた。
アオイちゃんはあたしが寝ているのも、ご飯食べてるのも、伸びているのも、それからねずみのおもちゃを追いかけてるのも、全部全部、描いてくれた。あいかわらずちっとも挨拶はしなかったけれど、でもアオイちゃんがあたしのことをとっても好きでいてくれるのは、わかった。あたしもアオイちゃんが大好きだった。いつも優しいし、素敵な絵をたくさん描いてくれるし、寝るのも遊ぶのも、全部一緒。それに顔もモーリーみたいでとっても可愛い。
だのに、アオイちゃんがお出かけをする時には、決まって、それが隠れてしまうような大きく顔に垂れさがるレースの帽子を被らされてしまうのだ。そんなこと、しなくっていいのに。もしかすると、おばあちゃんにもお兄ちゃんにも、それから前のおうちの奥さんも、「ぶち」はなかったから、人間には「ぶち」があるといけないのかもしれない。でも、アオイちゃんの顔にある「ぶち」はとっても素敵だ。あれはモーリーと一緒で優しい証拠だ。きっと、優しい子には「ぶち」があるのだ。あたしはそう言おうして何度も鳴いたけれど、ちゃんと伝えることはできなかった。
ある日、アオイちゃんはお兄ちゃんと一緒に遠くにお出かけに行くことになった。
お兄ちゃんは起きている時にはいつもギターを弾いていた。その音は、胸がじんわりしたり、飛び跳ねたくなるような音で、アオイちゃんもあたしも大好きだった。お兄ちゃんは音楽家なのだ。おばあちゃんはいつも、「タツキ様はたいそうご立派な音楽家なのですよ」と言っていて、お兄ちゃんの顔を赤くさせていた。そのお兄ちゃんの演奏会に、アオイちゃんは付いて行くことになったのだ。アオイちゃんは挨拶はできないけれど、一生懸命そうあたしに伝えてくれた。
まず、アオイちゃんは車に乗ったお兄ちゃんとアオイちゃんを画用紙一杯に書いて、その隣におうちを描いて、おばあちゃんとあたしを描いた。そしてそれをあたしの前に広げて、じっとあたしの顔を見つめた。あたしがおばあちゃんとお留守番をするってことは、だからすぐにわかった。おばあちゃんもあたしの目を見てしっかりと、「アオイ様は、タツキ様とお出かけに参るんですよ。でも、夜にはちゃあんと、帰って参りますからね。いつものように、一緒のお布団で寝んこできますから、寂しくはないんですよ。昼間だけですからね、お出かけなさるのは。」と言ってくれた。
あたしはだから聞き分けよくしっぽを上げて「にゃあん」と返事をした。アオイちゃんと一緒に遊べないのは寂しかったけれど、きっとお出掛けはアオイちゃんにとって楽しいことなのだ。アオイちゃんはあたしが返事をすると、にっこりと笑ってくれた。
次の朝、アオイちゃんはおばあちゃんに手伝って貰って、出掛ける準備をしていた。画用紙にクレヨン、お弁当に水筒。アオイちゃんは挨拶ができないから、画用紙には「おといれ」とか「おべんとう」とかも書いてあって、それを見せればアオイちゃんの考えていることをちゃんとお兄ちゃんに伝えられるということだった。あたしはそれを見て安心した。アオイちゃんがそういうのを伝えられなくて、もどかしがっているのは可哀想だと思ったから。あたしたち猫も、人間とお話ができなくて悔しがることが結構、あるから。
玄関先で全部準備が整ったアオイちゃんには、最後、いつものレースの帽子が被せられた。それはお顔の半分を覆って、アオイちゃんの可愛い「ぶち」を隠してしまった。あたしはそれが残念だった。いっつも、アオイちゃんは目まで隠れてしまうような帽子を被せられるのだ。そんなのは、いらない。せっかく可愛い「ぶち」だのに……。帽子がなければ色々なものがはっきりと、見られるのに……。あたしはねずみのおもちゃが取れない所に落っこちてしまった時のように、なんだか苛々して、アオイちゃんの顔に飛びかかった。被された帽子を口に咥えて奪い取り、そのまま二階へと力いっぱい駆け出した。
「なりませんよ! モモさん!」慌てておばあちゃんが追いかけて来る。「いたずらは、なりませんよ!」
いたずらなんかじゃあないのだ。アオイちゃんの可愛い「ぶち」を見て貰い、アオイちゃんにも色々なものを見て貰うためなのだ。あたしはアオイちゃんのレースの帽子をしっかと咥えたまま、全力で走って二階を駆け回った。二階にやってきたおばあちゃんの足元をすり抜けて、お兄ちゃんの部屋を駆け、それからおばあちゃんとアオイちゃんの部屋もぐるぐる駆け回った。おばあちゃんのお化粧品が落っこちて、アオイちゃんのクマのぬいぐるみも転がった。自分でも目が回ってしまうぐらい、駆けに駆けた。そうこうしている内に、ぐい、と首根っこを掴まれて持ち上げられ、あたしは口から帽子を落としてしまった。
お兄ちゃんだった。
「なあに、やってんだ。ったく。」
おばあちゃんはひいふう言いながら、床にへたり込んでいる。
「清さんこと、困らすな。」
そしてこちん、と額を小突かれた。
お兄ちゃんは帽子を拾い上げおばあちゃんを立たせると、玄関に降り、そこで唖然と口を開けているアオイちゃんにもう一度丁寧に帽子を被せた。
「……じゃあ、清さん、モモ、行ってくるかんな。モモ、清さんにいたずらしたら、ただじゃおかねえぞ。」
「にゃあうん。」あたしは哀しくなって、小さく鳴いた。
「お珍しいこともあるものですよ。モモさんは、今まで『おいた』なんて、したことなかったんですから、ねえ。アオイさんがお出掛けなさるので、寂しくおなりになってしまわれたのかもしれません。」おばあちゃんはそう言ってあたしを優しく抱き上げた。
アオイちゃんは帽子の網目から真っ直ぐな目をしてあたしを見て、喉を指先で撫でてくれた。その目は、あたしのことを責めたり怒ったりするのでなく、ただただ、あたしの気持ちを真っ直ぐに推し量ろうとする目だった。
「じゃあ、行ってくるから。」
「行ってらっしゃいまし。アオイさん、おトイレ行きたくなったり、お腹が減りましたら、すぐ、あの紙をお見せするんでございますよ。」
アオイちゃんはあたしから手を離すと、うんと肯く。
「じゃ、清さん、行ってきます。」
お兄ちゃんはアオイちゃんの手を引いて、玄関を出て行った。アオイちゃんはその瞬間、振り返ってまた真っ直ぐにあたしを見た。あたしはアオイちゃんは一番可愛いんだから、帽子なんていらない、という思いを込めて「にゃーうん」と言った。
アオイちゃんは小さく肯いた。アオイちゃんはもしかすると、あたしの気持ちをわかってくれているのかもしれない。だって、だって、モーリーと同じ可愛い「ぶち」を隠さなきゃお出掛けできないなんて、おかしいもの。可愛いお顔をしていれば、みんなに可愛がっても貰えるのに。
あたしはねずみ色に縞の柄で、お父さんもおんなじだけど、もう少し濃い色。お母さんは茶色に縞。兄弟たちはあたしとおんなじのが一匹と、お父さん、お母さんとおんなじのがそれぞれ一匹。隣のモーリーは白に黒のぶち。散歩に家の前を通る犬は茶色。尻尾だけ白い。みんなみんな違っていて、でも、それぞれが人間にとっても可愛がられていた。威張って歩く茶色の子だって、飼い主はいつもニコニコして撫でたり、「タロウ」って優しく名前を呼んだりしていた。みんな違っても、ちゃんと可愛がられていた。だからアオイちゃんだって、「ぶち」を隠さなくたって、可愛がられるべきなんだ。だって、アオイちゃんはとても優しくて、可愛い女の子なんだもの。
おばあちゃんは玄関でお兄ちゃんとアオイちゃんを見送ると、いつものようにエプロンを付けて三角巾を被って、布巾をきゅっと絞ってお掃除を始めた。アオイちゃんがいなくなって、何だか寂しそうに見えた。だからあたしはおばあちゃんのくるぶしに体を擦りつけた。
「タツキさんは『たまにはゆっくりしてて』、なんて仰ってましたけれど、アオイさんがいませんと、やっぱり物寂しいですよ。……モモさんもですか?」
「にゃあ。」あたしはそうだって答える。
「そうですよねえ。」
おばあちゃんはその後、食器を洗ったり、窓ふきをしたり、床を磨いたり、忙しなく働いた。そうしてお掃除を終えると、お茶を淹れて窓際のテーブルの所にちんまりと座った。おばあちゃんはいつもより小さく見えた。いつもだったらアオイちゃんが近くであたしの絵を描いたり、字の練習をしている所だ。
「アオイさん、大丈夫でしょうかねえ。」おばあちゃんは独り言を呟いた。
「にゃ。」大丈夫って、答える。
おばあちゃんはふう、と溜め息を吐きながら窓の外を見た。外は気持ちの良さそうな天気で、雀がちゅんちゅん鳴いた。アオイちゃんは今頃車に乗って、お兄ちゃんとどこか知らない場所で知らない風景を見たり、知らない人間と会ったりしているのかなと思った。その中に「ぶち」を可愛いと言ってくれる人はいるかしら。帽子なんかいらない、と言ってくれる人はいるかしら。あたしはそんなことを考えていると、うつらうつらして目が閉じてきてしまいました。おばあちゃんが優しくあたしの背を撫でます……。
「モモ。」
あたしは聞き慣れぬ可愛らしい声に目を開けました。するとそこにはアオイちゃんが立っているのです。あれ、もう帰って来たのかしら。随分早かったのね。あたしは欠伸をするために前足を出します。その時、アオイちゃんの口からもう一度「モモ。」と声が漏れました。あたしは飛び上がって背中を丸めました。
アオイちゃんはしゃがんで、いつものように優しくあたしの背中を撫でました。
「ぐるぐるぐる。」あたしは背中を逆立てて喉を鳴らします。
アオイちゃんは挨拶ができないはずです。この子は本当にアオイちゃんかしら、この声は本当にアオイちゃんの喉から出ているのかしら、あたしはじっとアオイちゃんの顔を見つめました。
「モモ。あたし、挨拶が出来るようになったの。」
アオイちゃんは言いました。それに、撫で方も、顔も、どうしたってアオイちゃんなんです。あたしはぐるぐる喉を鳴らすのを止めて、アオイちゃんの指を舐めました。
「だからこれからは、お話できるの。」
あたしは嬉しくなってアオイちゃんの指を軽く噛みました。
「モモの縞模様、可愛い。大好き。」アオイちゃんはにっこり笑って言いました。
「にゃーお。」あたしもアオイちゃんの「ぶち」も優しい所も、全部大好き、と言いました。
「ありがと。」
なんと、ちゃんとそれはアオイちゃんに通じたのです。あたしは嬉しくなってアオイちゃんの手に首を盛んに擦りつけました。
モモさんは何か楽しい夢でも見ているのかしら。猫はどんな夢を見るのだろう――。
清子はすうすうと鼻息を立てながら、もごもご何かを唱えているモモの耳の後ろを撫でながら、そんなことを思いました。清子には知るすべもありません。モモがこの上なく幸福な「正夢」を見ていることを。