第12話 魔王
湖を旅立って半日、オリバーは空を高速で滑空しながら首都ヴォイニルへと向かっていた。
徒歩で行くとおおよそ3日の行程を要する距離だが、彼単体なら1日と掛からない。
目下には深い緑がどこまでも広がっていて、斜陽で木々が影を落としていた。
もうすぐ、日が沈む。
この付近の森は世界樹の聖域によって守られているので、魔物の類は入る事が出来ない。
そのおかげで自然な生態系が長く続いてきたのだが、オリバーはその中に違和感を感じた。
—森が静か過ぎるのだ。
「なんじゃ…?」
気になってふと上空で急停止する。
一見変わりの無いように見えるが、彼は確かに感じていた。
禍々しい魔物の気配を—
その予感は的中したようで、周囲に無数の魔物の姿を確認できた。
大半は本来この大陸に生息していないハズの、中級レベルのヘルハウンドのようだった。
世界樹の方角へ向けて、もの凄い速度で森の中を疾走しているのが伺えた。
オリバーは直ぐ様下降して、その黒い獰猛な犬の目前に立ち塞がる。
ヘルハウンドは突然現れたオリバーに警戒して、牙を剥き出しながら唸り声をあげていた。
「そんなに急いで何処へ行く。この先に何用かの?」
もちろん言語を理解できる程ヘルハウンドの知能は高く無い。
その声を皮切りに、二頭のヘルハウンドはオリバーへ飛び掛る。
しかし、次の瞬間には頭から尻尾の先まで綺麗に真っ二つになり、血を噴き出して息耐えた。
相手が悪過ぎたのだ。
オリバーは初位の風魔法で風の刃を無詠唱で生み出していた。
初位魔法とはいえ、膨大な魔力で生み出されたその破壊力は上位魔法にさえ匹敵する。
「嫌な予感がするのぅ…。」
魔物は今の二頭だけでは無い。
そうなると、家に残してきたロロと真人が危険に晒されている可能性がある。
「仕方ない…、緊急会議は他の者へ任せるとしようかの。」
ここ何年も招集が無かった会議が、貴族の揉め事程度ではない事はわかっていた。
しかしそのタイミングで聖域へ魔物が現れたとなると、事態は予想よりずっと緊急を要しているのかもしれない。
そう判断してオリバーは急いで引き返す。
彼にとっては世界の危機なんかよりも、ロロが危険に晒される事のほうがずっと重要であった。
辿り着くのは深夜になるだろう。
取り返しのつかない事態になる前に到着できる事を祈るばかりだった。
※※※※※※
嫌な予感は的中した。
家に戻った時はすでに日付が変わろうとしている時間だった。
開け放たれた玄関をくぐった途端目に入ったのは、至る所に残る爪痕と乱雑している家具。
二階へ上がり、二人の安否を確認したが姿は無い。
真人の部屋の窓が開かれていて、長いローブがそこから地面まで垂れていた。
—遅かったようだ。
立て続けて、世界樹のある方角から爆発音が聞こえた。
ロロが魔法を使ったのだろうか、とにかく事は急を要していた。
最悪の可能性を考え、オリバーは一枚の紙に走り書きして机の上に残す。
何も無ければ良いのだが、既に老骨の身。
いつ死んでもおかしくは無いのだ。
孫娘のように可愛がっているロロが一人立ちするその日までは生きていようと心に決めているので、そう易々と死ぬわけにはいかないが。
とにかく急がなければと家を後にする。
忘れかけていた邪悪な気配を肌に感じながら、世界樹へと向けて再び高速で滑空するのだった。
※※※※※※
「ふむ。」
世界樹の麓へ1時間と掛からず到着すると、凄まじい戦闘が行われた事を物語る傷跡が至る所に付いていた。
何よりも、先程から視線の先で倒れている見知った二人の姿が事態の深刻さを告げていた。
その二人に手を伸ばそうとしている漆黒のローブが纏う凶悪な気配に、オリバーは覚えがあった。
「随分派手にやってくれたのぅ、魔王よ——」
魔王と呼ばれた黒いローブは動きを止め、オリバーへ視線を向ける。
かなり弱体化しているようだが、それでも計り知れない程の膨大な魔力を放出させているその姿は、紛う事なき200年前に討伐されたハズの魔王に違いなかった。
『オマえ…ハ…。』
「なんじゃ、まともに喋る事すら出来なくなったのか?魔王の名も廃るのう。ホッホッホ。」
—ゆらり、と魔王はオリバーを警戒しているのか不気味な動作で一歩引いた。
「して、この落とし前はどう付けてくれる?」
オリバーは再び倒れている二人に視線を移す。
ロロは極度の魔力枯渇で瀕死な上に、うつ伏せのその背中は焼け爛れ、見るも無惨な姿だった。
真人は肉体を完全に破壊されて、頭から爪先まで何かで潰されたようだった。
その周辺には体外へ放出された腸や臓器が同じように潰れて、大量の血の中に転がっていた。
しかし、彼の手にする刀が灰色に輝いている事から、聡明なオリバーは状況が把握できた。
「なんと…、無属性魔法を獲得したのか。」
既に真人の肉体は滅んでいる。
しかしそ刀から放たれる魔力の質が、彼と契約している大精霊の魔力と酷似していた。
まだ契約は途絶えて居ない。
つまり魂を消失する前に、なんとか間に合ったという事だ。
それを確認すると、オリバーは一つの魔法を詠唱する。
「—エクス、リザレクト」
それは水属性最上位魔法である回復魔法の一つだ。
どれだけ肉体が破壊されていようと、魂さえ残っていれば蘇生を可能とする究極魔法。
その超難関魔法を短縮詠唱で意図も簡単に成功させ、二人の身体は青白い光に包まれる。
ドーム状に広がったその輝きの中で、逆再生しているかのように肉体が元ある姿へと戻っていく。
とりあえずは、これで一安心だろう。
その光景に一層警戒を強めた魔王は、自身が持てる魔力を全開放させて戦闘に備えた。
「ふむ、面白い。それだけ弱体化しているのに、このワシと戦おうというのか?」
『………。』
返答する事も無く、魔王は自分の周囲に無数の暗黒の物質を出現させる。
その光景に、若かりし日の自分を思い出したオリバーは、無意識に口角が上がっている事に気が付いて苦笑した。
この数百年の間で仲間は皆死んだ。
既に惰性で生き続けていた老骨が、また全力で戦える機会を得たのだ。
これが面白く無くして何なのか。
オリバーも、魔王に続いて自身の持つ魔力を全力で開放させる。
「それでは、覚悟して参るが良い———」
※※※※※※
「——ぉえっ、ごほっ、ごほっ!!お、重い…。」
いつの間に気を失っていたのか、気が付くと空は瑠璃色に変化していた。
夜明けが近いのだろう。
「う、うーん…。」
「お?」
仰向けに倒れている俺の腹辺りから声がした。
…重さの正体はこいつか。
「おい、ロロ、ロロ。起きろよ。」
「うん…?マサト……?——ッ!!」
突如、ロロは勢い良く起き上がると、まるで死人に会ったかのような表情で驚愕していた。
「え?な、なんだよ。」
「マサトっ!!!!」
急にガバッと抱きつかれ、薄い胸の感触が当たる。
げへへ、ラッキースケベだぜ!
なんて呑気に考えていると、彼女が嗚咽を溢している事に気が付いたのでそっと肩を掴んで離す。
正直名残惜しい。
「おいおい、どうして泣いてるんだよ?」
「—ッ!マサトのバカっ!!ばかばかばかッ!!!」
理由がわからないまま、彼女に胸板を何度も殴りつけられる。
え、えー…。俺なんかしたっけ?
そうやって泣きながら罵倒してくる彼女の腕を握って攻撃を妨害する。
すると、泣き腫らした顔を隠すように俯いてしまった。
「な、なぁ。どうしたんだよ?俺が何か悪い事をしたのか?」
「とぼける気っ?!」
は、はぁ。
正直記憶に—、いや、まてよ。
思い出してきたぞ。
確かクロが刀に憑依した後、霧丸と意識が半分同化して、戦闘民族も真っ青のバーサーカー思考になって、そらから——
『—やっと起きたんだね。』
尚も変わらず灰色の輝きを放つ日本刀から声がした。
なんかデジャブを感じるセリフだな。
「あぁ、何とかな…。」
「っ…無事に二人で帰るって、っ…!約束、したじゃない…っ。」
「まぁまぁ、実際こうして無事だったんだから良いじゃないか。」
「無茶しないでよっ!!」
てっきり嫌われているんだと思っていたから、ここまで心配してくれるのは予想外だった。
ちょっと嬉しい。
まだ泣き続けているクセ毛の赤髪をそっと撫でる。
そうか、俺は彼女を守る事ができたんだな。
何かに押し潰されてからの記憶がないから、正直詰んだと思ったけど…。
無意識のうちに何とかしていたらしい。
さす俺。
『残念だけど、そういう訳じゃないよ。』
「あ?なんだって?」
そうじゃなかったら、この状況は何だっていうんだ。
現にこうして二人とも無事に生きている。
周囲を見渡してもあの禍々しい黒いローブの姿は無い。
『―オリバーさんに、感謝する事だね。』
「はぁ?」
そう言われて初めて、自分が意識を失っている間の記憶がない事を思い知る。
おかしい、クロが知っている記憶を俺が知らないなんて。
クロが見たもの聞いたものは、自動的に脳に焼き付けられる設定じゃなかったのか?
そこで、一つの可能性が頭を過る。
あの時、脳までも潰れていた可能性を。
——え?
待て、正直意識が途絶える寸前の事をまるで覚えていない。
『正直、もうダメかと思ったよ。真人の肉体は完全に破壊されていたから、契約も途切れる寸前だったし。』
「うそ、だろ…?でもオリバーさんは出掛けて…。いやいや、その前に何で俺はこうして生きているんだよ…?」
身体を捻ったり首を回したりするが、痛み等は全く無い。
むしろ今までで一番体調が絶好調な気がする。
「オリバー爺が来たの…?」
『そうだよ、彼が君達二人に治癒魔法を掛けて助けたんだ。』
「まじかよ…。」
どれだけの怪我を負っていたのか分からないが、死にかけたという事だろうか。
そう思った途端、全身が恐怖で支配された。
当たり前だ、もしかするとあのまま目覚めない可能性もあったのだから。
ヤバい、震えが止まらない…。
もうあんな無茶は辞めよう、こんな意味不明な世界で死んでしまうなんてあまりにも無念すぎる。
『その方がいいね、僕だってそんなの望んじゃいない。』
「今考えると本当に危険だったんだな…。」
「??何の話?」
当たり前だがロロには俺の心の声は聞こえない。
会話の前後が無いので理解できないのは当然だろう。
それにしても、流石は伝説の大魔導士様だな。
次に会った時は精一杯感謝しなければ…。
「それでオリバー爺は今何処にいるの?」
『それは——』
クロが言い切る前に、辺り一面が視界を遮る程唐突に光り輝いた。
続いて、耳を劈く程の爆発音が地面の揺れを伴って聞こえる。
「なんだ?!」
「——っ!」
目が慣れてきたので周囲を確認する。
離れた場所で何かが爆発したのだろうか。
ロロの表情を伺うと、その瞳は光を失って茫然と座り込んでいた。
「ロロっ!どうしたんだ?!大丈夫か?!」
「—ぁっ。」
彼女は小さく嗚咽を零したかと思うと、ゆっくりと立ち上がり何かに放たれたように森の中へ駆けて行った。
「お、おい!!どうしたんだよ!!…くそっ!」
『追いかけよう。』
「あぁ!」
刀から聞こえたクロの声に短く相槌を打って、ロロの後を追う。
異世界へ来てから二度も死にかけ、未だこの状況がさっぱり把握できない心は焦りを覚えていた。
俺は無事に元の世界へ帰る事が出来るのだろうか…。
そんな事を何処かで考えながらしばらく走ると、急に視界が開けた。
——おかしい、こんなにすぐ近くにこれだけ開けた場所なんて無かったハズだ。
周囲をよく確認して絶句する。
数kmに渡って森が消滅していたのだ。
焼き尽くされたかのように、開けたその場所は完全な焦土と化していた。
その中央付近に、ロロの姿を発見する。
「ロロっ!!!」
急いで駆け寄ると、彼女は何かを抱えて蹲っていた。
それは、この異世界の美しい自然を体現したかのような、深い緑のローブ。
その切れ端と、折れた杖だった。
「え…?一体、なにが…?」
「——っ、—っ…」
静かな泣き声が聴こえる。
—なんでこんな所にオリバーさんのローブと杖が落ちているんだよ。
なんでロロは泣いているんだよ。
…ふざけんな。
『———。』
不意に覚えのある邪悪な気配がしたので水を向けると、そこには半身を失った漆黒のローブが佇んでいた。
そいつは、ついに差した日差しで生まれた木々の影へと、ゆっくり吸い込まれるように姿を消してしまった。
残された俺は茫然と立ち尽くして、その姿を何もできずに見送る事しか出来なかった。
——そうして、長い夜が明けた。