02.小さな芸能界
説明しておこう。
当時「NHKラジオ」の教育放送は週1回、お昼の15分間を各地方の支局に割り振っていた。その時間は「地元の子供に自分たちが生まれた郷土を紹介する枠」として、各支局がそれぞれ独自に制作していたのである。
一度も聴いた事は無かったけれど、我がNHK旭川放送局でも『みんなの暮らし』という番組を放送していた。
『みんなの暮らし』は、「五郎」という少年が旭川市の産業を見学して回るという「旅番組風ラジオドラマ」である。
出演者は何となく集められた「アマチュア放送劇団」でまかなわれていたのだが、主人公の「五郎くん」だけは成長と変声期の問題があったため、1~2年周期で交代していたのだ。
「交代」ったって数十年前のAMラジオ。しかも「教育放送」の話である。
「オーディション」なんか一々やるワケもなく。その時期が来るたんびにスタッフが各小学校に問い合わせて「演技のできそうな子」を調達していた。
その「募集」が、巡り巡ってとうとう我が小学校にもやってきたのだ。
連絡を受けた学校側はただちに5、6年の担任を招集。が、会議はものの数分で済んでしまった。話を聞いた瞬間、全員の脳裏には「坂東クン」の名前しか浮かばなかったからだ。
「……やってくれるかなあ?」
「……はい、……やり、やる、やらせていただきます」
動揺のあまり声が出ない。しかも噛み噛み。
今まで視聴するだけだった「放送」に出演する!
「ほうそうきょく」に行く! オンエアされるドラマに自分が出る! しかも主役!
先生の話はまだ続いていたけれど私の脳にはなんにも届かなかった。
気がついた時には電話はもう終わっていて、私はあふれる喜びに泣きわめきながら床を転げ回っていた。なんかっちゅうと激しやすい子供だった。
その後、番組のプロデューサーがウチに来て簡単な面接みたいな事があっのだが、台本が「当日上がり」なので早めに来て欲しいと念を押されただけだった。
私と母は指折り数えながらひたすらその日を待った。
いよいよやって来た収録日当日。母子はヨソ行きの一番お洒落な服に身を包むと勇んで出発した。
初めて入った「放送局」は、やはりそれまで自分が暮らしていた世界とは全く異質な空間だった。「臭い」からして違う。多分防音重視の特殊な建材が多いせいだろう。
「放送局」って局ごとに独自の臭いがする。大人になって初めて仕事で渋谷のNHKに行ったらあの時嗅いだ「NHK」の臭いがして、懐かしさのあまり周りを見回してしまった。
打ち合わせ用なのか、テーブルと椅子がやたらと多いロビーでしばらく待たされていると、ぽつりぽつりと出演者らしき人々が集まってきた。5人ほど揃って雑談に花が咲き始めたころ「台本」が運ばれてくる。
初めて手にした「台本」はB4の原稿用紙そのままの大きさで、子供の手には少し余った。見ると文字が「黒」ではなく「青紫」である。
そう、そのころ「コピー」と言ったら今の「トナー式」ではなく「ジアゾ・コピー」、いわゆる「青写真」だ。刷り立てのそれはしっとりと湿っていて甘い薬品の香りがした。
何はともあれ一読すると、……やった! 一番最初が自分の台詞だ。
五郎「あっ、牛だ」
……近郊の酪農農家を訪ねる話だったからおかしな台詞ではない。別におかしくはないんだけれど、その時は「もうちょっとカッコいい台詞だったら良かったのに」と思った。
「こちらが作、演出のN沢さんです」
件のプロデューサーさんから地味なオジさんを紹介された。そのN沢氏がこのアマチュア放送劇団を仕切っているらしく、フランクにしゃべりあっていた劇団員たちも彼に対してだけは敬語を使っていた。
「本職」が別にあって、週1回、たった15分の進行台本を書いているだけの人にしてはちょっと気取っているのが鼻についた。が、それもしかたなかった。見回してみればその場にいる全員が似たような「空気」を身にまとっていた。
恐らく、あそこに集められていたのは旭川市周辺ではトップクラスの「進んだ人」たちばかりだったのだろう。彼らがまとっていた「空気」こそ、パルプ町や小学校では触れる事も無かった「センスの香り」だったに違いない。
極小規模ながら、そこは紛れもなく「芸能界」だったのである。ふと振り向けば付き添いの母まで顔を紅潮させて背筋を伸ばしていた。
「じゃあ、一度軽く読んでみましょう」
N沢氏の声掛けでその場で「本読み」開始、と言っても15分番組だからあっと言う間。
「そこぉ、あんまり間を空けないで……」
N沢氏の「ダメ出し」は流石だった。
学芸会の先生の演出とは較べものにならないシャープな指摘が嬉しくて、あんまり良くなかった第一印象まで持ち直してしまった。新人の坂東クンも特に問題なし。そのまま「スタジオ入り」となる。
初めて足を踏み入れた「録音スタジオ」は「パラダイス」だった。
昭和を代表する国産マイク「ソニーC38」、いまだに現役で時々見かける巨大モニター「ダイヤトーン」、ヤマハから出たばかりのオルガンを越えた電子楽器「エレクトーン」などなどなど、「メカ好き少年」にとってはたまらない物体ばかりである。
いや、ハイテク機器ばかりではない。ふと気がつけば壁の隅に水道の蛇口が飛び出しているではないか!
「それは川のせせらぎなんかを録音する時に使うんだよ」
後で音効(音響効果)さんがそう教えてくれた。
他にも「馬のヒヅメの音を作る砂箱」だの「開閉音を出すドア模型」だの、見ただけでは用途の想像もつかない物体がゴロゴロと転がっていて本番前の緊張も忘れてしまった。
「仕事」と言えば父親の工場務めしか知らなかった私にとって、お碗で砂をパカポコ言わせて生計を立てている大人がいるという現実は圧倒的だった。
ブ厚い防音ドアを閉める一瞬、耳に独特の圧迫感が来て、いかにも現実から切り離されるって感じがする。今でも大好きな瞬間だ。
やっぱりブ厚いガラスの向こう側、通称「金魚鉢」からディレクターのDさんが話しかけてきた。その通話を「トーク・バック」と呼ぶ事も後で覚えた。
「子役」によっては緊張で収録が止まってしまう事もあったらしく、スタッフも他の出演者も死ぬほど気を使ってくれた。が、私はと言えば、未知のアイテム群がかもしだす独特の雰囲気に酔い、テンションが上がり過ぎて終始ヘラヘラしていたような気がする。
「あの赤いランプが点いたら本番だから音を立てないでね」
「こうやって指を出すから、3回目に指差したら台詞を始めてください」
「それじゃ行きま~す……」
「リハ」から「本番」に掛けての流れは良くおぼえていない。
あの日の記憶は、何度たどってみても金魚鉢でキューを出しているDさんの指先から帰りのタクシーの天井につながってしまう。あれがいわゆる「トランス状態」って奴だったのかもしれない。子供だったから興奮し過ぎた反動で半分眠り始めていたのかもしれない。
こうして私は、よわい11歳にして「声優」になった。
出演は週に一回。夕方開始だったから帰りは遅くなって毎回「タク送」だった。
一回の出演料は361円。変な数字だったから今でも覚えている。あれはいったいどういう金額設定だったんだろう? 1ドルか?
ま、サラリーマンの平均月収が約十万という時代にしてもそれほど大した額ではない。2年間の出演が終わってみれば、全て「サンダーバード」のプラモデルに消えていた。
この時の経験が良くなかったのかもしれない。
「宵越しの銭」と言うほどではないが、どうも私は全てのお金を「アブク銭」と受け止めているフシがある。やっぱり「子供」にあんまり自由になるお金を与えてはいけないのだ。
成功し過ぎて社会復帰のタイミングを見失い、結局駄目人間になってしまった「子役」たちの気持ちが、私には少し判るような気がする。
私がそこまで駄目な人間にならずに済んだのは、プラモで消える程度のギャラだったのと、何より「演技」が大好きだったからだ。
芝居の上手な大人に混じって演技のできる事がこの上なく楽しかった。
私は「自分以外の人間になる事」が大好きだった。