4話 変貌
我に返った時には、腕の中に瑞紀を抱えていた。
胸に開いた傷口から血が溢れ、すでに事切れているのが判った。
何があったのかも理解していた。ただ、心が追い付いていなかっただけだった。
「……瑞……紀……桂……木……」
その声は近くで聞こえていた。
美沙が名を呼んでいる事も、どこか他人事のように思えた。
銃声と悲鳴が聞こえてくるが、どうでもいい事だった。
「……桂木……」
翔は呆然と瑞紀を抱いたままその顔を見ていた。頬に掛かる髪を指で払い、まだ温もりのある頬に触れる。
「桂木!」
叫ぶ声と頬に感じた痛みで、翔はのろのろと顔を上げた。その先に美沙がいる。彼女もひどい有様だった。
こめかみから出血して顔半分を朱に染め、右腕はだらりと下がったままで、衣服は裂けている。
美沙は左腕一本で、翔の胸倉をつかみ上げ顔を近づけて叫んだ。
「機動隊が相手をしている内におまえは逃げろ!」
「……逃げて……どうする……」
力の無い呟きが翔の口から漏れる。
「……瑞紀が死んだ……俺が生きていて、どうする……一人生き残るのは、もう……いやだ……」
「ふざけるな!」
左腕一本で美沙は翔を自分の方へと引き付ける。
「瑞紀を救えず、おまえまで救えなかったら、わたしはどうすればいい! 大切な人も護れず、ただ一人で生きろと言うのか!」
辺りはすでに静寂に包まれていた。黒い異形は、まだ動いている二人に再び近づいて来る。
翔は何の感情も表さない顔で、黒い異形を見ていた。
理不尽すぎる力に抵抗する気が無いのか、または何もかもがどうでも良くなっているのか、ただ見ているだけで何の行動も起こさなかった。
苛立ったように美沙は翔を引きずり起こす。翔の腕の中から瑞紀の体が滑り落ちた。
「……あ……」
かすれた声が翔の口から漏れるが、美沙は胸倉をつかんだまま、翔の瞳を覗き込んでいた。
「頼む。呆けてないで、逃げてくれ」
美沙は翔から手を離して黒い異形に向き直ると、苦痛に顔を歪めながらも、韻を含んだ言葉を紡ぎだす。
(まただ……)
呆然としていた翔の顔に感情が戻ってきた。
(また同じ事を……)
瑞紀のそばに片膝をつく。
(目の前で……)
伸ばしかけた手を握りこんだ。
(また無力な自分を……)
《力が欲しいか》
幻聴なのか、そんな声が聞こえる。
《力が欲しいか》
再び声がする。
翔の中で何かがうごめいた。
すでに恐怖は通り越している。
理不尽な力に対しての憤りが。
瑞紀を亡くした悲しみが。
四年前と同じ事を繰り返した無力さが。
怒りなのか。
憎しみなのか。
悔しさなのか。
悲しみなのか。
憤りなのか。
翔の心の中でひとつの感情が肥大する。
(欲しい!)
その一言に尽きた。
《ならば我は力となる》
その声は笑いを含んでいるようにも聞こえてくる。
《我は炎ぞ》
突然、後ろから溢れ出した気配に、美沙は反射的に振り返っていた。
それは目の前の黒い異形よりも危険な気配。
振り返った美沙の瞳に翔が映る。
その気配を纏っている者は……翔だった。
陽炎が立ち昇り、姿が揺らいで見えた。
「なっ…桂……」
美沙の声が止まる。
動けなくなったと言う方が正しかった。
下手に動くと敵と認識されて死ぬ。
そんな獰猛なものだった。
「がぁぁあああ――――!」
獣じみた叫び声が翔の口から溢れる。
一足飛びで黒い異形との間合いを詰め、手よりも足が先に出ていた。
繰り出した蹴りは、黒い異形の脇腹に突き刺さる。
拳銃弾さえ弾く黒い異形の体が、衝撃に耐えられないように身体を折り、前のめりに落ちて来る。そこに拳が叩き付けられた。
手が、足が、人とは明らかに違っている。
立ち昇る陽炎が紅に色付き、渦巻く炎のように翔の身体に纏わり付いて行のが見えた。
そして、甲虫を思わせる紅の装甲となって具現化する。それは手足にとどまらず、全身を覆って行った。
己の変貌も気が付かずに、翔は片膝を付いた黒い異形を、ボールを蹴領で右足を振り抜くと、マリのように五、六メートルほど黒い異形は蹴り飛ばされて転がって行った。
紅の異形となった翔が再び吼え、蹴り飛ばされた黒い異形を追って駆けて行く。
その光景を半ば呆然とした美沙が見送っていた。
「桂木が……紅の異形に……なった……?」
自分で呟いても信じられない事である。
呆然としている間にも、紅と黒の異形の戦いは殴り合いになっていた。
「銃弾の効かない相手に……素手の殴り合い?」
それこそ呆れるような話だが、確実に何らかの効果が出てきているのは、目に見えて判った。始めに蹴られた脇腹が痛むのか、黒い異形に軽快な動きが無くなっている。
逆に紅の異形は無茶苦茶に手足を振り回し、まるで子供のケンカを見ているようだった。明らかに戦い慣れ、ケンカ慣れしていない者の動きである。
「そう言えば……」
と美沙は瑞紀の話を思い出した。
「……桂木は武道を習った事が無いと、言っていたな……」
死を覚悟していた事が、馬鹿らしくなるような光景が目の前で繰り広げられている。
だが異形同士の戦いは、その光景とは裏腹に手足の当たった所は確実に破壊されていた。
アスファルトは捲れ上がり、鉄柱はへし曲がり、コンクリートさえもが破砕される。
人が割ってはい入ろうものなら、一撃の下に粉砕されるのは間違いないほどの暴力だった。
黒い異形に蹴り飛ばされ、転がってくる紅の異形に美沙は思わず駆け寄る。
「くそ! なぜ、当たらない」
悪態をついて立ち上がる紅の異形に、美沙は平然と言い放っていた。
「おまえが、シロートだからだ」
「え?」
思わず顔を上げた紅の異形の目の前に美沙がいた。相変わらず右腕をだらりとさせ、左手にヴァンジェラを持っている。
そのヴァンジェラから一メートルほどの光の帯が伸びている。
「なんだ、それは?」
呆気に取られた紅の異形は、自分の瞳が信じられなかった。チラリと紅の異形を見た美沙が言う。
「光刃だ。異形相手では、これでもまだ不足だ。それよりも、やつを止めるぞ」
美沙は左手に持つヴァンジェラを、黒い異形に突きつけて駆け出した。
「あっ、バカヤロウ!」
先走る美沙を紅の異形が追う。
紅の異形が追いつく前に、美沙はヴァンジェラを黒い異形に叩き付けていた。右腕を掲げて黒い異形はヴァンジェラを受け止める。
瞬間、黒い異形は耳障りな音を立てた。
そこに紅の異形の蹴りが、黒い異形の脇腹に当たる。
身体をくの字に折り曲げて黒い異形は飛ばされて行く。
美沙よりも紅の異形が、いち早く動いていた。行動速度が圧倒的に異形の方が速く、美沙がおいて行かれる。
立ち上がってくる黒い異形に、紅の異形が近付こうとした時、黒い異形は背中を見せて逃げ出した。
「逃がすかっ!」
吼える紅の異形が後を追う。
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