外伝 ~七夕の客人~ 第3話
剥き出しのコンクリートに囲まれた建築現場。
ふきっさらしで遮る物など何も無い床に、何かがうずくまっていた。
組み伏せた獲物の上で、何かが上下に動き何かを租借している。
「ああぁぁ……ふぁぁぁ……」
甘美な吐息のようなものが、獲物から漏れ聞こえ来る。
恍惚とした表情が獲物に浮かんでいた。その顔つきは青年と言えるほど若い。
己が喰われている事など、青年は気がつかないようだった。
「……僕は……キミが……」
吐息の合間に青年の言葉が漏れている。
租借していた捕食者が、動いて青年の顔に近づいた。
「そう。私はあなたから力をもらうの」
長い髪が顔を隠していた。かろうじて見え隠れする口元は朱に染まっている。
「敵を倒すための力を、私にちょうだい」
「……ああ、受け取るといいよ……ぼくは……」
青年の瞳はどこも見てはいなかった。
虚ろに宙を彷徨い、焦点が合っていない。
捕食者の手が青年の腹部を撫ぜていく、ゆっくりと這いずるように……。
坂井駅を出て一つ目の駅、東野坂井まではなんとも無かった。
二つ目の駅、戸成を越えた辺りから、正確には坂井市を超えた辺りから、涼は身体の不調を感じ始める。
動悸が激しくなり、呼吸さえままならなくなってきた。それでもまだ耐えられないほどではなく、変だと思いつつもそのままにしていた。
三つ目の駅に近付くにつれ、さらに悪くなって行く。脂汗が浮かび、座っている事が辛くなっていた。
(なにが……)
身体から力が抜けていく感じが、気力と言うべきものがあるとすれば、それが抜き取られて行くようである。
気がつけばいつのまにか、坂井市を出る電車に乗っていた。なぜこんな行動を取っているのか、自分でも判らない。
自分の行動を理解していない怖さよりも、体調不良が涼の思考を鈍らせていた。
三つ目の駅のベンチで顔を伏せて、浅く荒い呼吸を繰り返していた涼の瞳に、女の足が映る。
「ぬしは愚か者か?」
顔を上げた涼の瞳に、鮮やかな紅の髪が映った。
昨夜の紅の髪と瞳の女である。
「サカイを超える者がおるか。七夕はサカイを越えてはならぬ、と伝え置いたであろう」
「何を……言って……いる……」
荒い呼吸の合間にそれだけ言えた。
理解できない言葉は、ただ戸惑うだけだと言う事を知らないのかと思う。聞いた覚えもなく、意味も理解できるものではなかった。
見下ろしてくる紅の髪と瞳の女は、溜め息にも似たと息を漏らす。
「ぬしは我と契りを交わした客人。サカイを越えればそのようになる。ぬしには、わかっておったと思おうておったが?」
「わかるように言え……」
再びと息を漏らすと、紅の髪と瞳の女は膝をついて涼の顔を両手で挟んだ。
「ぬしは客人ゆえ、サカイを超えられぬ。我もぬしと契りを交わしたゆえ、サカイを超えられぬ」
身体の不調が、紅の髪と瞳の女の言葉の意味を考えさせない。頭には残るが、意味のある言葉として認識できなかった。
「サカイに戻るが良い。よいな、サカイに戻るのだ」
涼の視界が紅に染まる。
何がと思った時には、口の中に熱い塊が入ってきた。吐き出すよりも前に、涼はそれを嚥下してしまう。
思わず身体を二つに折ってしまった。
「あの……大丈夫ですか?」
声に顔を上げる。
親子連れが心配そうな顔で見下ろしていた。
「救急車、呼びましょうか?」
「あっ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
反射的に涼は答える。
紅の髪と瞳の女はどこにもいなかった。そればかりか、ベンチに座る涼を気に掛ける者は、親子連れ以外はいない。
(何だ……今のは……)
幻覚だったとは思えなかった。嚥下したのは確かで、幻を飲み込んだとは思えない。見えていたのは、自分だけだったと言う事なのか……。
混乱しかける。
震えそうになる身体を抑え込んで、涼は立ち上がると親子連れに頭を下げていた。
「ありがとございます。もう大丈夫です」
顔を上げて笑って見せる。
それで安心したのか、親子連れは涼から離れて行った。
再びベンチに腰を降ろした涼は、大きく息を吐いてしまう。先ほどまでの不調が嘘のように消えていた。
「なん、なんだ……」
身体の不調、紅の髪と瞳の女が自分にしか見えていなかった事、そしてその女の言葉。全て繋がっているとしか思えなかった。
しかし、それがどう繋がるのかがわからない。
涼にとって昨夜の事は常識外の事であり……。
思考が止まる。
昨夜、黒髪の神崎のぞみが、紅の炎に包まれて紅の髪と瞳の女に変った。その女は、神崎のぞみとは別人であった。
そこまでしか思い出せない。
それ以降の記憶が残っていなかった。
(なにが……あった……?)
思い出せない事に愕然としながらも、涼は身体が恐怖に震えていないと知る。
人ではないものに、憑依されたとしか思えない変り方をした女に対して、恐怖を感じていない。
それが不思議だった。
昨夜から今朝にかけての間に、記憶に残っていない間に、紅の髪と瞳の女と交わした会話に、重要な事があったとしか思えなかった。
(俺は……何をした?)
恐怖とは違う恐ろしさを感じてしまう。
自分の行動を覚えていない事が、これほど恐ろしいと思った事は一度もなかった。
(あの女の言う通りにするのは、釈然としないが……)
方法が他にあればよかったが、何も考えが浮かばない涼は、紅の女のもとに戻るしか無いとわかってしまう。
自分の意思とは無関係に、逃げる事ができない何かに巻き込まれてしまったと、いやでも自覚した。理不尽だと言っても、すでに巻き込まれているのなら意味はない。
嘆く事で状況が変るのなら、いくらでも嘆くが変らないと知っている。
記憶に残っていない昨夜の事を、いや、自分が何に巻き込まれているのかを、知る必要があった。
何も知らずに、流される事だけはしてはならない。それは、坂井市に来る前の自分と何もかわらない。
それはいやだった。
再び坂井駅に戻った涼を待っていたのは、やはり紅の髪と瞳の女である。
駅舎から出ると、紅の髪と瞳の女はすぐに目に付いた。
通り過ぎる人はみな一様に、呆れたような感心するような顔で、紅の髪と瞳の女を振り返っている。
日の光に映える紅の長い髪は美しい光沢を放ち、スレンダーな肢体はその立ち姿をより美しく見せていた。
良くも悪くも、目を奪われる姿である。
近づく涼に紅の髪と瞳の女は、呆れたような声で言った。
「ぬしは愚か者ゆえ、離れるのであろう。賢き者は離れぬ」
通りかかった若者がその言葉を聞きとめたのか、その通りだと大きく頷きながら離れて行く。
溜め息が出てきそうになる涼だった。
「おまえ、神崎のぞみか?」
紅の髪と瞳の女の首が傾く。
「ぬしは、何を聞いておった」
「覚えていない」
「覚えておらぬと?」
大げさに目を見開いて、尋ね返す紅の髪と瞳の女に、涼は戸惑いを覚える。
紅の髪と瞳の女が、人ではないと知っているにもかかわらず、人の仕草そのものを見たからだった。
「ぬしは……愚か者のうえアホウであったか……」
盛大なため息をついた紅の髪と瞳の女は、誰が見ても人にしか見えない。
「まあ、良い。ついて来るが良い」
紅の髪と瞳の女が向かったのは、駅前のロータリーに停めてあった赤いスポーツ車である。それは昨日、神崎のぞみが涼を案内するために乗せた車でもあった。
「ぬしは何も覚えておらぬと言う。我の伝えおいた言葉は意味は無く、再びくり返さねばならぬとはの……」
車を走らせながら、口元に笑みを浮かべた紅の髪と瞳の女は、涼を横目で見る。
全てを知っていると思える紅の髪と瞳の女に、涼は主導権が取れないと知っていた。記憶が無いのは、この女と出逢った後からである。
「俺は何に巻き込まれた」
横目で見てくるが、紅の髪と瞳の女は何も言わなかった。
「おまえは何者だ。昨日の夜、俺に何があった。神崎のぞみはどうなった」
「問うしかないとはの……」
溜め息のような言葉である。
「ぬしは何も知らぬと見える。何も覚えておらぬと見える。なんとも面倒な客人よの、ぬしは……」
「悪かったな。俺は何も知らない。だから教えろ。俺に何をさせる気だ?」
「簡単な事よ。ぬしは我と睦めば良い」
「むっ……」
絶句した涼は、紅の髪と瞳の女の口元が持ち上がるのが見えた。
「客人のぬしと睦む事で、我は力を得る。ぬしは我に精気を与えれば良い」
言葉が出てこない涼に、紅の髪と瞳の女は続ける。
「この器は気に入らぬのか?」
「そう言う事じゃない!」
紅の髪と瞳の女の言う事は理解できた。
しかし、それを臆面も無く言葉に出来るとは、どう言う神経をしているんだと言いたくなる。人外にそれを求めても、無駄だとは気がついていなかった。
「気に入らぬか、この器は?」
自分の身体をちらりと見下ろして。
「なかなか良い器と思うが」
紅の髪と瞳の女は再び言う。
「おまえの身体じゃないだろう!」
言った涼が目を見開いてしまった。
紅の髪と瞳の女が、神崎のぞみとは別の者とすでに認識している事に気がついて、片手で顔を抑えて呻いてしまった。
得体の知れない紅の髪と瞳の女。
だが、その身体が神崎のぞみの身体であると、わかっていたのである。こんな単純な事さえ、忘れているとはと自分が情けなくなった。
「覚えておらぬと言うておったが、覚えておるではないか」
女が苦笑していた。
車の運転は確かで、走り慣れている事は乗っていればわかる。見覚えのある風景が、窓の外を流れて行った。
どこに連れて行くと聞く必要はない。




