1話 構内で
まだ1話分が短いです
新入生が大学に慣れてきた四月の終わり。
大学の三回生になった桂木翔は、受講室で頬杖を付いていた。
「どうしたの?」
心配そうな声に顔を上げると、二人の女性がいた。
一人は坂原瑞紀。翔の恋人で、付き合い始めて一年近くになる。
今一人、少し憮然とした顔で、そっぽを向いているのが紫村美沙。
瑞紀の幼馴染であり親友でもある。翔とは瑞紀と付き合い始めてからの友人だった。
「いや、何でもない」
苦笑を浮かべて首を振っていた。そんな翔を瑞紀は真っ直ぐに見つめる。
「それが、何でもない。て、顔?」
「夢見が悪かっただけさ」
肩を竦めながら答え返していた。
「どんな夢なの?」
「ごめん。言いたくない」
翔は軽く頭を下げて詫びる。
「忘れた訳ではなくて、言いたくないの?」
「うっ……」
失言に詰まる翔だった。
「私にも言えない事なんだ……」
少し傷ついた顔をして瑞紀は、翔を上目遣いに見る。
「いや、その……いたた……」
いきなりヘッドロックをかけられた翔が悲鳴を上げた。
「瑞紀を泣かすな。そう言ったはずだ」
頭の上から言葉が降ってくる。
「……いたい……ちょ、ちょっと待て……紫村……」
頭に回っている美沙の手を軽く叩きながら翔は言った。右側に弾力のあるものが当っている事に慌ててしまう。
「何を待つんだ?」
冷たい声で言いながら美沙は、さらに翔の頭を締め付けた。そのため、もっと押し付けられてしまった翔は、顔が火照るのを止められない。
「たっ、頼む。放してくれ」
美沙の体臭が鼻孔をくすぐっていた。間近に嗅ぐ女性の体臭は、翔の心を掻き乱すものである。
「俺が悪かった……謝るから……」
「本当だな?」
「本当だよ」
それでやっと美沙は、翔を解放した。
赤い顔の翔を見て、瑞紀はうらやましそうに言う。
「いいな……」
「何がだ?」
「美沙に抱きしめてもらって……」
「瑞紀……」
翔は、溜め息が出てしまった。
「今のは、抱きしめたとは言わないぞ」
「えっ? だって、今、美沙が抱きしめていたじゃない」
思わず脱力してしまう翔である。美沙は一瞬、キョトンとしたが、すぐに顔を赤らめて叫んだ。
「違う!」
声が重なってしまう翔と美沙である。
「?」
小首を傾げる瑞紀に、翔は頭痛を感じてしまった。
「あのなぁ。抱きしめられて、痛みを感じる訳が無いだろう」
「だって。翔、顔が赤いよ」
「いや、それは……」
答えられる訳が無い。
頭を締め付けられていたとはいえ、感触がとても良かった。などとは口が裂けても言えない。言えば、瑞紀がどんな行動を起こすのか目に見えていた。
『じゃ、私も』と言って翔の頭を自分の胸に抱いてしまうのが判っている。それはもう、良く判っていた。人前であろうがなかろうが、躊躇するような瑞紀ではない。
それを台無しにする声が聞こえてきた。
「なんだ。おまえ、私に欲情したのか。変態だな」
「へん……」
言葉が続かない。
「痛いのに喜んで欲情するとは。これを変態と言わずして何と言う」
腕組みして美沙が頷いていた。
「翔、変態なの?」
悲しそうな瞳で瑞紀が翔を見る。
(この女達は……)
頭痛が酷くなるような気がした。
二人とも悪気がある訳ではない。良く言えば素直、悪く言えばずれている。
冗談で済ませられる事も、冗談にはならない。
「女の胸に顔を埋めて嬉しくない奴はいない!」
思わず翔は叫んでいた。
ただし、言い方がまずかった。
しまった。思った時は遅く。
わーい、と言うように瑞紀が翔の頭を抱いていた。
柔らかい双丘に抱かれてしまった翔の動きが止まる。
「あ、れ?」
戸惑ったような瑞紀だった。抱擁を解いて翔を見る。
「嬉しくないの?」
翔には答える余裕が無かった。
「美沙は嬉しくて、私は嬉しくないの?」
キズついた顔になる瑞紀である。
(どうしろと……)
本気で頭を抱えたくなった翔だった。
おおらかと言うか無頓着と言うか、瑞紀と美沙の行動には戸惑うところがある。
外見も性格も違う二人だが、どうかした拍子に翔は、瑞紀と美沙を見間違える時があった。
で、と瑞紀は表情を変える。
「どんな夢を見たの」
「忘れた」
言える訳が無かった。
自分にとっては叩きのめされたも同然の事。
四年も、いや、まだ四年しか経っていない事なのに、今もまだ自分の中で決着が付いていない事だった。
あの時、味わった思いを忘れる事などできやしない。二度と味わいたくない思いであり、久しぶりに見た夢。
まるで忘れるな、とでも言っているような気がしてならない。
「うそね」
翔の顔を見て瑞紀は断言した。
「言えない事の一つや二つはあると思うが、それは言えない事か?」
瑞紀の隣で美沙が、珍しく真摯な声で言う。
「恥ずかしくて、言えない」
翔としてはそう言うしかなかった。
「そう。話せるようになったら、話してね」
あっさりと瑞紀は言う。
あまりにも引き際が良すぎて、翔は呆気に取られてしまった。
「で、連休のことなんだけど……」
瑞紀は話題を連休の計画に変えてしまう。
(いやはや……)
翔は苦笑が浮かぶのを止められない。
見ると、美沙も苦笑を浮かべていた。
楽しそうに連休の計画を話し始めた瑞紀に、いつしか二人も笑顔を浮かべていた。
お読み下さってありがとうです。
ではまた