24話 誰だ…これ?
大学も夏季休講に入ったばかりで比較的暇だった翔は、自宅でのんびりとしていた。
この二週間、ライとアキトそれに美沙の三人が、交代で鍛錬の相手を務めいて、それなりの成果は上がっている。前の時とは大違いだと翔自身も感じていた。
その鍛錬の合間の休みである。
そこに訪ねて来たのが美沙だった。長い髪を襟足でまとめ、淡いブルーのジャケットを羽織り、珍しくスカートを身に着けている。普段、翔が目にした事のない姿だった。
出迎えにでた翔の妹の凛は、始めて見る女性を怪訝そうに見てしまう。
「えっと、どちらさま?」
「紫村美沙と言います。翔さんはいらっしゃいますか?」
涼やかな声音で凛に聞く美沙だった。
立ち姿やちょっとした仕草が、綺麗な女性だと凛は思った。兄とはどんな関係かは知らないが、素敵な女性だと思う。
「いますが……ちょっと待ててください。呼んできますから」
パタパタと凛は、玄関脇の階段を上っていくと、翔の部屋の前で呼んでいた。
「兄さん。紫村さんって女性」
「ああ、聞こえていた……」
部屋から首を傾げるような仕草で出てきた兄を不思議に思う。
「どうしたの?」
「紫村って、年上の女性か?」
「うん。でも兄さんと同じぐらいかな?」
「そうか……」
翔は首を傾げながら凛よりも先に階段を下りていた。降りてくる翔を見て美沙がお辞儀をする。途端、ギョッとしたように足を止めてしまった。
「どうしたの?」
不審そうな凛の声を背に聞きながら、翔は首を振っている。
「いや……」
顔が引き攣ったようになっていたが、幸い妹は後ろにいるので、その顔を見られなくてすんだ。美沙の前まで近付いた翔は言う。
「どっ、どうした?」
「これを渡しておきたくてお寄りました」
そう言って美沙は、肩に掛けたバッグからスマートホンを取り出して翔に差し出した。
「あなたと連絡が取れないのは、とても困るので用意したの」
凄まじい悪寒が翔の背筋に走る。
気のせいだと、絶対に気のせいだと翔は思いたかった。美沙がこんな言葉遣いをするわけがない。そう断言できる。
そんな翔の心情が分ったのか、美沙はことさら可愛らしく小首を傾げて見せた。
「どうしたの?」
ぞくぞくした寒気が再び翔を襲う。全身に鳥肌が立っている事を自覚した翔だった。
これは夢だ。でなければ絶対に何かおかしい。
「おまえ、何か変な物でも食ったのか?」
「いいえ」
可愛らしく首を振って否定する美沙に、翔は思わず身を引いていた。
「ね、熱でもあるんじゃないか? おかしいぞ、おまえ」
「兄さん! 何てことを言うの!」
背中を叩かれてしまった翔は、顔を蒼くしたまま妹を振り返っている。
「紫村はこんな言葉遣いはしない。絶対におかしい」
「兄さん!」
凛は腰に手を当てて翔を睨んでいた。
「あのね。初めて訪れる人の家なの。普段の言葉遣いと違うのは当たり前よ。少しはよそ行きの言葉をあたしだって使うわよ。そんな事も知らないの」
「あっ、あの、いいんです。勝手にお寄りした私が悪いのですから」
恐縮するような美沙の物言いに翔はさらに蒼ざめた。
「紫村さんは気にしなくてもいいです。悪いのはこのバカ兄です。こんなバカ兄ですけど、少しは良い所もあるんです」
何を勘違いしたか凛は、フォローになっていないフォローをしていた。そんな凛に美沙は微笑む。
翔が始めて見る美沙の優しい微笑だった。
「お兄さん思いなんですね」
「そうでもないけど……」
美沙に答えてから凛は翔を振り返っていた。
「兄さん。あたしは紫村さんの味方よ」
そう言われても翔には答えようがない。
美沙の物腰と言葉遣い。そして、スカート姿は普段の美沙とは正反対だった。翔に出来たのは、蒼ざめたまま首を振る事だけだった。
「なに首を振っているのよ、もう」
少し怒ったような顔の凛を優しく見つめてから、美沙は翔に視線を移す。
「スマートホンは持っていてください。私と姉、長谷川さんのナンバーを入れています」
「やめてくれ……」
やっとの事で翔は言った。
「……たのむ。いつも通りにしてくれ……」
弱々しい声になったのは言うまでもない。対して美沙は、不思議そうな顔で首を傾げていた。
「いつも通りですけど」
「俺が悪かった。なんか知らんが俺が悪かった。この通りだ」
物凄く怖くなっていた翔は、冷や汗が止められず玄関先で土下座していた。
「やめてください。謝罪など必要はありません。どうして謝るのですか」
困惑した顔で美沙は、膝を揃えて腰を落とし翔に視線を合わせている。
「おまえ、物凄く不機嫌だろ。俺に当たるのはやめてくれ。物凄く怖いぞ」
「失礼な奴だな。そんなに怖いのか?」
鼻を鳴らして美沙の口調が変わる。恐る恐るといった感じで翔は美沙を見上げた。
「聞きなれない言葉を聞くのが、こんなにも怖いと思った事はない」
「おまえ、わたしを誤解していないか?」
盛大な溜め息を付いて翔は、玄関先であぐらを組んでいた。
「俺はな、その言葉遣いのおまえしか知らないからな。今みたいな言葉遣いを怖いと感じるのは、俺だけのせいではないぞ」
「そんなに似合わないのか?」
少しキズ付いた顔になる美沙に翔は頷いていた。
「ああ。知らない他人ならともかく。おまえの姉や長谷川さんの前ではやめた方が良い。ショックで引付を起こすぞ」
「とことん失礼な奴だな」
「だったら、普段通りにしろ」
美沙は自分の姿を見て、とんでもない事を翔に言う。
「このかっこうも、おまえのためにしたんだが、似合わないか?」
「うっ……」
言葉に詰まった翔だった。
スカート姿でジャケットを羽織っている美沙は、その立ち居振舞いから、一本芯の通った美しさを見せていた。
それが翔にも判っていただけに何も言えなくなってしまう。
だが、それがどうして自分のためなのか、翔には不思議に思えてならない。
翔と美沙の様子を驚いたように見ていた凛だったが、ねぇと翔の肘を突っついて聞いていた。
「兄さん。紫村さんって……」
「ああ、紹介しておこう。妹の凛だ。で、こっちが紫村美沙」
「あ、兄がお世話になっています。妹の凛です」
「初めまして。紫村美沙だ。よろしく」
笑顔を浮かべて美沙は凛に右手を差し出している。その手を握って凛は、躊躇いがちに聞いていた。
「あ、あのー、兄とは……」
笑顔のまま美沙は首を傾げる。
困ったように凛は兄を振り返っていた。凛の言いたい事は翔にも判ったが、それを説明するには自分が異形へと変貌する事を話さなくてならなくなる。
それは避けたい翔は、必然的に何も言わずに首を振るしかない。
さらに困った凛は、意を決したように真剣な瞳で美沙を見た。
「どういう関係ですか?」
聞かれた美沙も何と答えようかと悩んでしまう。そして、思い出したのが北川悠馬に言った言葉だった。
「師匠と弟子かな。わたしの実家は古流武術の道場を開いているのだが、そこに翔が通っているんだ。わたしは師範級の腕だから、翔に教えているわけだ」
「古流……武術ですか……」
なるほどと凛は思ってしまう。この女性の凛とした美しさはそこから来ているのか。だから、こんなにも立ち居振舞いが綺麗なんだ。
「まあ、翔には随分と手を焼かされたな。覚えが悪いからな」
「ちょっと待て。誰が手を焼かせた。それはこっちのセリフだろう」
承服しかねた翔が言う。
「ほう?」
面白そうに美沙は翔を見た。
その瞳を見た時、翔はなぜか嫌な予感を受ける。
「瑞紀を喪ってピィピィ泣いていたのは誰だ?」
(ピィピィは泣いていないぞ)
「優しく慰め、力づけたのは?」
(嘘つけ。殴り飛ばしただろうが)
「一人で立ち直れなかったのを助けたのは?」
(無理やり関わったただろうが)
言い返したい事は山ほどあるのだが、異形の件を伏せるしかない翔は心の中で言い返すしかなかった。言えば凛に、詳しく聞き返される事は判っていた。
「どうだ。何も言い返せないだろう」
なぜか美沙は勝ち誇っている。溜め息が翔の口から出てしまった。
「……いっぱいあるぞ。全部、おまえが無理に関わった事だろ」
「ほう、そう言うのか? おまえがヤケにならなければ済んだ事だ」
美沙も異形の件を抜きにして話さなければならないので、端折った言い方になる。
「放って置けばいいものを……」
「良く言う。関わらなければならなくしたのは、おまえだろ」
「関わってくれとは言わなかった」
投げやりげに翔は言った。何を勘違いしたのか美沙はとんでもない事を口にする。
「おまえ、わたしを弄んだのか?」
「ちょっと待て! 人聞きの悪い事を言うな!」
「兄さん! 男だったら責任取りなさい!」
兄妹二人が同時に叫んだ。
翔が、思いっきり勘違いをした凛を振り返る。
「待て、それは誤解だ」
「えっ?」
キョトンした凛の顔を見てから翔は、美沙を振り返っていた。美沙も凛と同じようにキョトンとした顔をしている。溜め息が出てしまう翔だった。
「おまえなあ……」
呆れて後が続かない翔だった。
「兄さん。紫村さんは、どういう女性なの。それに瑞紀さんの事も……」
翔は再び溜め息を付くしかない。
「紫村は瑞紀の親友と言っていい相手だ。瑞紀にしても、俺よりも大事に思っていたようだった。古流武術を覚えたくて瑞紀に相談した時、紹介された道場で師範をやっていたのが紫村だ。まあ、世話になったといえば確かだ」
「それで愛が芽生えたのね」
期待に瞳を輝かせる妹に、翔は幾度目かの溜め息を付いてしまった。
「何を期待してるのかは聞かんが、俺と紫村はそんな関係じゃない」
「何言ってんだか」
笑いをふくんだ凛の声に翔は首を振ってしまう。
「おい、紫村。おま……えぃ?」
振り向いた翔の瞳に、ほんのりと頬を朱に染めた美沙の顔が見えた。
「兄さんは、そうでもないけど紫村さんは違うみたいよ」
「おっ、おい。紫村」
「えっ? あっ……うっ……」
ふいに美沙がポロポロと涙を流す。これには慌てたのが翔だった。
「えっ? あ……」
こちらも声にならずオロオロとしてしまう。そんな二人を凛はニヤニヤと見ていた。どう、あたしの言った通りでしょと妹の顔が言っている。
美沙が少しはにかんだ微笑を浮かべて翔を見た。
「そうか。わたしは翔に惚れていたのか……だから、おまえのために一生懸命だったんだ。そうだったんだ」
うんと頷いて美沙は、翔が見惚れるような笑顔を見せる。
「どうやら、わたしはおまえに惚れているようだ」
そう言われても翔には答えられない。返答に窮している翔を尻目に凛は、真剣な顔で美沙の両手を握り締めた。
「こんなバカ兄ですけど、見捨てないで下さい。手を焼かせると思いますが、紫村さんなら大丈夫です」
「凛、何て事を言うんだ。瑞紀を亡くしてまだ二月だ。俺が……」
翔の言葉が止まった。美沙も凛も悲しい顔になっている。
「そんな事は判っているわよ」
睨み付けるような瞳で凛は翔を見ていた。
「瑞紀さんがなくなってから、兄さんは人が変わったようになって……父さんと母さんも心配して、あたしだって心配してたんだよ」
涙が凛の瞳に浮かぶ。そんな凛の肩を優しく美沙は抱いていた。
「妹を悲しませてどうする」
静かな声で美沙は翔を責めた。言外に、おまえが捨てようとしたのは、こんなにも大切なものだと含んでいた。
「ごめんなさい、紫村さん……」
醜態を見せたと思った凛が美沙に詫びる。
「気にするな。悪いのは翔だ」
「俺が悪いのか」
「ああ。これに懲りたら二度とするな」
「てめえ……」
「……紫村さんのおかげなんだ……」
翔と美沙を見ていた凛が呟いた。
「何がだ。凛」
「人が変わったような兄が、このところ昔に戻ったのは紫村さんがいたからなんだ……」
感心したような凛だった。そして、凛は美沙の両手を再び取って言う。
「紫村さんは兄の事が解かっているんですね。兄をお願いします」
凛の真摯な態度と言葉に美沙は頷いていた。
「安心しろ。わたしは、どんな時でも翔を一人にさせない」
「……姉さん。と呼んでもいいですか?」
「いいさ。わたしも凛と呼ぼう」
「はい!」
(どうして、こうなる?)
意気投合した美沙と凛に、翔は頭を抱えたくなり逃げ出したい思いだった。そして、都合のいい事を思い出した。
「あっと、ワルイ。『ブルムヘルム』に行く用があった。スマホ、ありがとう」
「わたしも一緒に行ってはダメか?」
凛と手を取り合ったままの美沙が翔を見ている。
「そんな事はない。一緒に行った方がいいて」
翔が答えるよりも早く凛が答えていた。ここで拒否すると後が怖い。凛の瞳が笑ってはいなかった。置いていくと、どうなるかは解かっているんでしょうねと言っている。
「あ、ああ……」
思わず翔は、コクコクと頷いてしまった。




