10話 帰宅
ほぼ一月ぶりに帰宅した翔を迎えたのは、両親と妹の叫び声である。
「翔! あなた!」
「いままでどこにいた!」
「兄さん!」
玄関先で翔は、三人の声に面食らったまま立ち止まっていた。怒った顔のまま腕組みをする父と、安心したような母と妹の顔。自分を心配していた家族に翔は頭を下げる。
「ごめん。連絡が入れられなかったんだ」
「どう言う事だ!」
父の健二が聞く、怒鳴るようになるのは仕方が無い事だった。
「あまり詳しくは話せないけど、とりあえず場所を変えようよ」
翔の提案で、一同はリビングへ移動する。
「いままで、おまえは何をしていた?」
怒鳴り散らそうになるのを、抑えているのが判る声だった。
「しばらく、黙って聞いていてくれるかい、父さん」
翔の問いかけに、健二は黙って頷く。
「一ヶ月前の駅前の事件に巻き込まれたんだ。一週間は意識不明だった。意識が戻ってからの二週間は治療のために身動きが取れなかったんだ。動けるようになったのは五日前、昨日までは警察の事情聴収があって、今日になって帰宅の許可が出た。だから、連絡を取れなかったんだ」
そして、再び頭を下げた。
「心配を掛けて、ごめん。身体のほうは、ほぼ回復しているから心配ないよ」
それは嘘。
事実を家族に話す訳には行かない。いつかは本当の事が言えるのかもしれないが、今はまだ言う訳にはいかなかった。
「身体は心配が無いと言うのは、そのようだな。一ヶ月前の事件はニュースで知っている。警察のまだ正式な発表はしていない。私たちがニュースで聞いたのは、生存者はいないと言う事だ。なのに、おまえはあそこにいたと言う。何がどうなっている?」
「ごめん。それは言えない」
「家族にもか?」
「だめなんだ。守秘義務がある。俺は、その事を話す訳にはいかない。だから父さん達も、この事は話さないで欲しい」
「どうしてだ?」
「生存者はいない。それが警察の公式発表だよ。それをマスコミは信じている。なのに、生存者がいた。そんな事がマスコミに判ったらどうなると思う? 俺は見世物じゃない。マスコミに関わりたくは無いよ」
「それは、その通りなんだが……」
健二には、翔の言い分が良く判る。生存者がいたと判れば、マスコミは押しかけてくるはずだ。興味半分で面白おかしく書き立てられるのが目に見えている。
「俺は、今度の事で『事実は知らなければならない』と言うのが、とても危険な事だと知った。知らなければ知らない方がいい時もある。それを身に染みた。これは、知らない方がいい事だよ」
「だがな、翔。親としては知っておかなくてはならない」
ゆっくりと翔は首を振った。
「知りたいのなら、生命の保証は出来ない」
「なっ!」
三人の顔に驚きが広がる。苦笑を浮かべて翔は頷いていた。
「そこまで言われたんだ。これでは話せないよ」
「おまえ、それで私達が納得すると思うか?」
驚きから立ち直った健二が翔を見る。
「納得しようがしまいが、関係ないんだ」
「子供の事を心配するのは親の務めだ」
「命に関わる事でも?」
「あたりまえだ。それが親と言うものだ」
「それでもだめなんだ。脅している訳でも、ハッタリを掛けている訳でもない。本当に命が危ないんだ。俺が話したために、家族の命が危険にさらされる事になるのは、そしてそれを受け入れる事なんて、俺にはできない」
「おまえは、それで納得するのか」
「出来る訳が無い」
「到底納得出来るものではないが、無理なんだな」
「ごめん」
翔は頭を下げている。
「おまえが、それでいいと思っているのなら、私たちは何も言わない事にする。納得は出来なくても諦めるしかない」
「兄さん……」
それまで黙って成り行きを見ていた凛が翔を呼んだ。
「……瑞紀さんは? あの時、デートだったでしょう」
話題を変えるつもりだったのだろうが、それは翔の顔から表情を無くならせる。
「瑞紀は……死んだ」
「えっ? どうし……」
思わず、問いかけた凛の声が止まった。ゾクゾクした寒気が背中を走り、反射的に凛は母親にしがみついてしまう。
翔の気配が変っていた。
「話す気はない」
強い拒絶の言葉が返ってくる。
「は……え……な……」
意識しての言葉ではなかった。翔の気配に怯えて、思わす口から出ていただけである。凛は助けを求めるように父親を見てしまったが、健二も翔の顔に、ただならない物を感じて緊張した顔になっていた。
「翔。瑞紀さんのご両親にとって、娘の事は知っておきたいはずだ。話すべきではないのか?」
「言って、どうする? 何になる? 瑞紀は死んだ」
「それを知りたいと思うのは親心だ」
「……そんなものは、ただの自己満足だ」
翔の喉が鳴る。
ギョッとしたように、健二は息子を見た。口元を片手で覆い、瞳だけが異様な光をたたえている。
「おっ、おまえ……」
「自分の彼女なのに、護る事も出来ずに目の前で死なせた。一緒に死ぬ事さえ、俺には出来なかった。」
恐ろしいほどの気配が溢れていた。
「それが、どう言う事かわかるかい? 悔しいとか、悲しいとかじゃない。表現しようの無い思いなんだ……」
「いったい、何を見た……」
擦れた声が健二の口から漏れる。
信じがたがった。
たった一ヶ月で、これほど人が変わるとは思えない。まして、それが自分の息子ならなおさらだった。だが、現実には一ヶ月前と息子は変わっている。
人は何かのきっかけで変わる事がある、それは健二も知っていたし実際に見てきた。しかし、息子の変わりようは、そんな程度の話ではない。あまりにも掛け離れた変わりようだった。
だから、健二は再び聞いたのだった。答えはしないと判っていても、聞かずにはいられなかったのである。
「この話は、これで終わりだ」
それ以上、翔は何も言わずにソファーから立ち上がって、自分の部屋へ向かった。後に残った三人は互いに顔を見合わせていた。
「……怖かった……」
半泣きで凛が呟いている。母親は蒼い顔で健二を見ていた。
「あれは……本当に翔なの……」
「翔には間違いが無いが……」
自分たちの息子に間違いはない。それは良く判っていた。
「あの事件は、翔のものの考え方や見方に、大き過ぎる影響を与えたようだ」
「何があったら、ああいう風になるの」
「それは判らない。一ヶ月前の翔なら、少なくとも私達には話していたと思う。しかし、今の翔は絶対に言わないだろな。何があったか判らないだけに、口惜しいな」
「あんな雰囲気を持つ子じゃなかったのに」
「それは言っても始まらない。翔が変わったのは事実だよ。私達は息子を信じて見守るしかないだろう。そのくらいの事しか出来る事は無いさ」
果たして見守る事が出来るのかと疑問に思う。ただ何があっても、息子を信じておこうと心に決めた。そして、それが難しい事も理解している。
翔は夢の中で〈それ〉と会った。
〈それ〉
は揺らぐ炎。
(おまえは、あの時の……)
《我の力は要らぬか》
それは問いかけ。
(いる。あの時だけだったぞ)
《我は主ぞ》
ギョッとしてしまった。
(……なぜだ……)
そして、目の前に浮かぶ光景。
薙ぎ倒された木々が、破砕された岩が散乱していた。
局地的な暴風雨でも、これほど酷くは無いだろう。
爆破されたと言っても、おかしく無い有り様だった。
その少し外れた所に、うつ伏せに人が倒れている。あらぬ方向に手足を折り曲げ、身体の横には血溜りが広がっていた。一目で瀕死の重症と判る。
そのままでは、とうからず命の灯が消えてしまうのは間違いなかった。
傍に人とは思えない異形の姿を持つ者が立っている。
その姿は翔が変貌した姿と良く似ていた。甲虫を思わせる姿をしたそれは、倒れた人物を見下ろしている。
――我にはかつての力がない。我の体は滅ぶ寸前。この若い身体を使えば、我はかつての力を取り戻す。
誰かの思考が流れ込んできた。
(……なんだ、これは?)
その誰かは異形の姿をした者しか考えられなかった。
(……どうして異形の声が聞こえる?)
――我の知は渡せぬ。渡せるのは力のみ。この者は戦うだろか、逃げるだろうか。我には判らぬ。されど、我はこの者に力を与えよう。
異形の姿から光が溢れ、光は若者の上で止まる。人の形が一瞬見えたが、崩れるように砂となって小山を若者の横に作った。
光はしばらく若者の上で止まっていたが、やがて降下して若者の中に吸い込まれて行く。
折れ曲がっていた手足が見る見る修復され、若者はゆっくりと立ち上がると、不思議そうに辺りを見渡していた。
その若者は翔自身である。
(……なっ、俺? そんな……こんな記憶はないぞ……)
《我は主ぞ》
揺らぐ炎が目の前にあった。
嘘だと思いたかった。
こんな事が起こるはずがないと思いたかった。
だが、炎と言った声が聞えて来のも、自分が異形の姿になったのも、全てが説明できてしまう。
つまり、ほぼ即死状態だった自分に、異形が異形の力を与えた。
それが自分を生き返らせ、異形と渡り合えるだけの力となったのだ。
否定しても始まらない。
それが自分の中にあるのだと認識が出来た。
言いようのない恐怖が心を支配しかける。
麻痺しそうになる思考を繋ぎ止めたのは憤りだった。
黒い異形と戦うのは、異形の力を得た自分の運命なのか。
《運命》
いい言葉だ。
理不尽な事も、納得できない事も。
『全てがそうなる運命』
その言葉で誰もが納得する。
(ふざけるな!)
(こんなものが運命だと!)
認められるものでも、納得できるものでもなかった。
「ふざけるな!」
自分の叫び声で、目を覚ます。
ギリギリと奥歯を噛み締めているのを自覚した。
言いようのない怒りが全身を駆け巡っている。
目の前に瑞紀がいた。
いつものニコニコした笑顔が自分に向けられている。
……これは夢だ。自分にとっては悲しい夢だ。
そう美沙は自覚していた。
生きていたら、どんなに嬉しい事か。
人付き合いが下手な自分にとっては、瑞紀はかけがえの無い大切の人だった。
自分の身勝手が死に追いやった。
罪悪感が湧き上がってくるのを止められない。
『気にしなくていいの』
瑞紀……。
『そんな顔をしないの。あなたは、あなたらしく。ね』
夢だから自分の都合のいい言葉しか聞こえてこない。
『翔は凄いね』
とても嬉しそうに瑞紀は微笑む。
ああ、これは罰だ。
わたしの心が見せる、楽しかった時の瑞紀の顔だ。
『違うわよ。私は美沙といられて嬉しかった。翔といられて嬉しかった』
いいんだ。自分でも判っている。
あなたを死なせてしまったのはわたしだから。
『違うと言っているでしょう。もう』
むくれた顔を見せる瑞紀だった。
自分が覚えている瑞紀のふくれ面である。
『翔を助けてあげて。私は一緒にいられないから』
翔は大丈夫だ。わたしの助けなど必要としていない。
自分で決着を付けられる人。
だから、瑞紀が愛した。
『うん。でも、あなたが支えてね。あなたにも翔が必要よ』
そうなのか?
違うだろう。
翔は瑞紀を愛していた。
わたしは翔を怒らせてばかりだ。
『だって、あなた、翔と呼んでいるわよ』
あっ……。
『私を含めて翔を支えてあげて。あなたなら出来るわ』
瑞紀……。
『ごめんね。あなたの傍にはもう居られないけど、翔があなたを支えてくれるわ』
瑞紀……。
『大丈夫よ。美沙』
そして、瑞紀の姿は薄れていく、同時に美沙は瑞紀の抱擁と同じ暖かさを感じた。
「待って!」
がばっと上体を起こした美沙は胸元が蒼く光を帯びている事に気が付いた。
それは瑞紀がくれた精霊石の光だった。
両手で握り締め、額に押し付ける。
「……瑞紀……瑞紀……」
嗚咽とともに呟いていた。
許して欲しくて、こんな夢を見たのだと解ってしまった。
自己満足なのかも知れない。
そんな自分を美沙は嫌悪する。
本当に大切な人を亡くしたのだと、今更ながらに思い知らされた。