<サクラ>
それはおそらく、私が人生で見た中で最も美しく悲しい命のカタチだった。
「サクラ様おはようございます!」
「サクラ様、今日の祷儀もお疲れ様でした」
「あー、サクラさまだ」
「サクラ様、息子の熱が朝方下がりました。ありがとうございます!」
朝の祷儀を終えて習慣となっている散歩に村へ出れば、至るところから声を掛けられる。どの村人も生き生きとした表情で、贅が望めなくとも満たされた生活を送っていることが知れる。
……いや。彼らの心が清いから、あのように笑えるのだ。
私が住む村は貧しい。険しい山に囲まれてなかなか外との貿易が望めないのに、平らな土地が少ない村では畑もろくに耕せない。
そんなただでさえギリギリの生活は、献上やら供物やらと称して社が行う強奪によって、ますます苦しく彼らを追い詰める。
それでも彼らは私を慕い、こうして名を呼んでくれる。病に苦しむ者を助ければ涙ながらに頭を下げられる。その病の原因は飢餓や栄養失調によるものだというのに。
私はこの村出身ではない。ここよりもずっと東にある小さな島で私は生まれた。
そして私は、特別な力を持っていた。夢見で先の災害を見通し、霊視を行い、僅かだが自らの生命力を他者に分け与えることもすれば、乾季には雨を乞う。
神の御使いである調律者とは違う、けれど同じような奇跡の力。人々はそれを歓迎し、私もまた、力を持つ者として在る意味を考えそのように振る舞った。
やがて、この地方に龍穴……大地の力が地上に流れ出る場所……があると言われ、私は白装束の人間たちによってこの村に連れてこられた。あの不気味な白装束の人間が、祈祷を通じて神と交信するとか嘯く社の者たちであったことはそのあと知った。
別れ際の母は満面の笑みに、無理矢理ひねり出した涙を浮かべて手を振っていた。その後ろに褒美ものを山と積んで。
この村は確かに住み良い。大地の力をいつでも感じとれ、それに満たされ、私の力も苦労なく発揮される。必要以上の献上物や豪華な食事を与えられる私には外の貧困など関係なかった。
朝の祷儀と、毎食行われる祈り。毎日のように村や山を越えたところから届く捧げ物。感謝や敬意の混じる人々の視線に賛辞の声。そして、それらを余すことなく受け微笑む自分。
…………もう、何年こうして生きているのだろう。
気を抜くと、ふとわき上がってくる小さな問いかけ。
これまでの時を思い、これからも続くであろう時を思う。そうすると鉛のように身体が重くなり、正体の分からない何かに深く絶望した。
私は神に選ばれたのだろうか?
社の人間は私を巫女と呼ぶ。巫女は神子に通じ、神の愛娘としての証がこの力なのだと教えられた。
もし真偽を私に問う者がいれば、私は否と答えるだろう。
神は私を、この世界を愛してはいない。そもそも愛する対象にすらなっていないに違いない。
それに気付いた時、私は調律者と呼ばれる存在に興味を持った。確かに存在する、神の手足。この世界に在りながら世界から逸脱した者たち。
彼らは何を思い、何を知るのか。あるいは人形のようにただ力を振るうだけの駒なのか。
――会いたいな。
何の気なしに呟いた願いは、しかし叶えられることになる。
「サクラ=ミナズキはお前?」
社の奥で精神統一をしていた時、それは現れた。
振り返ると同い年くらいの少女がいた。身の丈もある木の杖を持ち、翡翠を埋め込んだような瞳はまるくて愛らしい。高い位置でまとめてある亜麻色の髪が風に揺れる。若草の衣服は村人の着るそれと大差なく、纏う雰囲気さえ無視すれば村娘が迷い込んだのかと思ったかもしれない。
笑えば間違いなく十七、八の少女だと思えるだろうに、その容貌は間違いなく愛らしい少女のものだろうに、冷めきった表情は何もかもを拒絶する。人間としての温かさすらないのではないかと思ってしまう。
私は氷の仮面を被る少女に微笑んでみせた。
「聞くまでもないでしょう? 調律者どの」
「……私たちが分かるのか」
表情は変えず、ただその声に幾ばくかの驚きを混ぜて少女は答える。
伝説に出てくる調律者は皆それこそ死神だったり天使だったりと人外に描かれているから、一目で分かる人間は少ないのだろう。私も正直、ここまで普通の少女だとは思わなかった。
「ええ、まあ。あなたたちとは違うけど一応、力ある者だもの」
それを聞いた少女は目を細めて私を見つめる。その意味を私は読み取れなかった。
「ならば話は早い。私は調律者リゼル。サクラ=ミナズキ、調律の名のもと……」
「私は、調律を、拒絶します」
私の力の一つに言霊がある。通用したのか分からないが、少女が杖を掲げて床に落とそうとする動きを止める。私に注がれる眼差しは相変わらず冷えきっていて、彼女の感情を上手く隠していた。
「私は」
立ち上がり、少女と正対する。
「私は、力ある者として正しく生きてきたつもりです。けれど……もう、疲れてしまった」
そう、私は全てに疲れていた。向けられる笑顔、感謝の言葉、無言の期待、積まれる捧げ物、力足りずに亡くなってしまう者たち。
自分が特別な力を持って生まれた意味を考えたこともあった。けれどおそらくそこには何の意味もないのだろう。そうでなければ、これほどまでに理不尽な生と死が蔓延するわけがない。
――人は、あんなにも懸命に生きているのに、神さまにはどうでもいいことなのだ。
悟ったときから心に澱のように溜まる絶望や諦念は、確実に私を蝕んでいった。
「この世界は愛しいけど、ここで生きていくのは辛すぎる。私は終わりたい……還って、いつかまたここに戻ってくるなんてもう耐えられない」
輪廻転生は否定派もいるが、私は真実だと思っている。数人だが見掛けたのだ。以前にも触れた魂と同じカタチを持つ、全く異なる人を。ただ魂そのものが以前のことを何一つ記憶していなくて、色も違ったから気付きにくかった。
そこまで気付いて、ようやく理解した。御許に還って俗世の穢れを払い楽園に……というのは、生前の全てをリセットされて新たな人間となって再び現世に生まれてくることなのだと。
魂の再利用。
それこそ調律の正体だ。
ぞっとした。恐ろしくなった。それは命を物のように扱われることにではなく、私もいずれ調律され、けれどそれが終わりではないことに、だ。
どうすればそれから逃れられるのか分からない。ただ調律されるくらいなら自分で舌を噛んで死のうと決意した。自害は最大の罪とされているので、そうすれば御許にはいけないだろうと思ったのだ。楽園などいらない。望むのは終わりそのもの。
「死ぬのは構いません。でも調律されるならば私は自ら死を選びましょう……神さまの気まぐれに付き合わされるのは、今生きている間だけで十分」
少女は何も言わない。視線も逸らさないし身動き一つない。氷の面も凍ったままだ。まさか、調律者は神の意思に従って動くただの人形なのだろうか。 そう思うと少女の端麗な美しさも納得できる。
しかしここで尻込みして退くわけにもいかない。調律者の力と私の力にどれほど隔たりがあるのか知らないが、黙って調律されてやることだけは絶対にしない。
「別に問題ないでしょう、世界に在る命の量とやらさえ保てるなら。どうせ人間のことなんて、調律者であるあなたにとってはどうでもいいことなのでしょうから」
「……どうでもいい、こと」
おや、と私は首を傾げた。なるべく毅然と対峙しようと構えたのだが、どうも返ってきた反応は予想と違う。真っ直ぐに向けられていた翡翠が伏せられ、なんとなく、少女の纏う雰囲気が変わったように思った。だけど何が? 一体何が彼女に影響を与えたのだろう。
もう少し慎重に、気を探りながら、私は言葉を紡いでいくことにした。もしかしたら。
「たとえ調律が世界を維持するために必要だとしても、だからって悲しくないわけではないでしょう。それでもあなたたちは調律する。神さまがそう望んでいるからという理由だけで他の全てを、私たちの思いを踏み荒らす。調律者であるあなたには私たち人間の機微なんてわからな」
「違う!」
突然すぎて心臓が止まるかと思った。カン、という可愛らしいものではない激しい音で杖が床を鳴らした。
少女は本当にわずかだが目を細め、違うと繰り返した。それは私に対してというより、彼女自身に対して言っているように思えた。
「誰も、好きで調律者なんかに」
「……何が違うのか知りませんけど、それなら私を調律しないで死なせてくれるのですか?」
少女の瞳が、そして氷壁に覆われていた魂が揺らぐのを見て私は言葉を重ねた。一つ一つの音に意思を、言霊をこめて魂そのものに語りかける。
この時にはもう確信していた。調律者と呼ばれる彼女らも私たちと同じただの人間だと。
「…………………………調律は、絶対である」
あと一押しと思っていた私は、絞り出される声に息を呑んだ。違う。その強すぎる意思が練りこまれた声もはっとさせられるものではあったが、それ以上に直立不動の姿勢で立つ少女の後ろに幻影が見えたのだ。無意識のうちに霊視の力を使っていたらしい。彼女の魂を覆い隠していた氷が薄くなっていく。そのカタチがはっきりと見えてくる。
「神の意思は関係ない。私が調律者である限り、私は調律し続ける。全ての命に平等に。お前たちの感情も事情も私の知るところではない」
声は平坦なままだが、それは慟哭のように私には聞こえた。少女が杖で床を二回叩く。すると杖を中心に波のように大きな力が部屋に広がっていった。この空間は私の力が統べていたというのに、抵抗らしいこともできないまま上書きされていく。
このままでは調律されてしまう。けれど突破口はあった。少女の魂はもう丸裸も同然で、干渉できるだろうから。
それでも私はもう何も出来なかった。抗おうとする気持ちが湧きあがらない。だって、あんな。
あんな痛々しそうな姿を見て、どうしてこれ以上彼女を傷つけられるというのだ。
全ての氷が取り払われた少女の魂はぼろぼろだった。その中で拭うこともせず涙を流し続ける少女がいた。翡翠には様々な感情が詰め込まれていて、震える唇は何かを伝えようとして、それでも何も言えなくて、ただひたすら人々の憎悪や悲哀を受け止めるしか術を知らない無力な少女が。
「サクラ=ミナズキ」
はっと焦点を現実に戻す。肉眼で見える少女は出会ったときと何も変わらない氷の眼差しで私を見つめ返す。
杖の、おそらく正真正銘の翡翠が埋め込まれた先端が床に触れる。先ほどの比ではない、何もかもを飲み込むような荒波を思わせる力が広がり、私に向かってくる。止められない。
「調律の名のもとに、お前の命をもらう」
クォーーン……
意識もあいまいになり黒く塗りつぶされた世界で、魂を震わす音が辺りに満ちる。けれど私にはそれが少女の嘆きに聞こえた。
それ以上のことは、私には何も分からなかった。確かに積み上げてきた『水無月桜』のカタチが失われていく中、私はしょうじょが、もうきずつかないようにとねが
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「私は絶対に謝らない、後悔しない、躊躇わない。あなたの命を奪うことに対して弁明しない」
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「ただいま帰りました」
「お帰りリゼルちゃん。今日はねー」
「ごめんマリアさん、今日は食事いい」
「あら…………そう、分かったわ。じゃあ一応取り分けておくから夜食にでも明日でも、好きなときに温めて食べてね」
「ありがとうございます、おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい。……………………ジル」
「いやいやマリアさんそんな目で見られても」
「あなた伊達でも年上じゃない。こう、フォローとか」
「伊達って」
「私じゃあなたたちを励ますこともできないもの」
「え、いや、俺らマリアさんにけっこう助けられてますよ」
「でも今みたいな時無力だわ。話を聞くこともできなくて」
「うーん……リゼルはもともと交流する性格じゃねえし、俺もあんま話聞いたことは」
「もー」
「それに傷つくのも悲しむのも、そうなりやすいから調律者に選ばれたんだ。悲劇は神サマのお気に入りさ。イチイチ気にかけてちゃマリアさんの『命の量』も減っちゃいますよ」
「構わないわ。私のことなんて」
「それは困る。もしマリアさんを調律しなきゃならなくなったら、例えばリゼルならもう立ち直れない」
「あら、それはちょっと嬉しいかも。ジルは?」
「もちろん、俺も」
「ふふ、よろしい……そうね。私は何もできないけど、シフォンケーキを焼くくらいなら」
「おおー! ぜひオレンジピール入りで!」
「ジルの好みは聞いてないわ。あなたはさっさと夕飯食べてちょうだい、片付かないわ」
「うん俺さマリアさんは俺にもっと優しくしてもいいと思う」