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箱庭の遊戯  作者: 柚木
3/7

<イザヤ>

 ――ソフィアにしましょう。


 日に日に青白くなる顔に笑顔を浮かべて妻は言った。不健康なまでに細くなった身体に、取り付けたように不釣り合いな大きなお腹をさすって。ソフィア=グラツキー。あなたの名前よ、よろしくね?



 妻アドリアナは昔から病弱な娘だった。私たち級友が遊びに行けば、いつもベッドの上で寂しそうに微笑んでいた印象があった。

 日を浴びないせいで白と言うより青白い肌。抱き締めれば折れてしまいそうな身体。手は器用で、売り物レベルのキルトや編み物を鼻歌混じりに作ってしまう。


 私たちは滅多に学校に来れない彼女のもとへ、それこそ毎日のように見舞いと称して遊びに行った。

 中でも私は熱心に通い詰めていた方だろう。級友からは通い妻とからかわれ、彼女の家の者は使用人まで私の顔と名前を知っていたくらいだ。

 次第に私は一人で彼女のもとへ見舞うようになり、多くを語り、心を通わせていった。


 そのまま私たちは卒業し、それぞれの道を歩き始めた。しかし私はこの町で仕事を見つけ、彼女のもとへ通い続けた。

 二人は彼女の部屋から中庭、近所の公園、町の中央広場と世界を広げていった。


 一人前の仕事をさせられるようになった後、私は彼女にプロポーズした。今思えば恋人同然だったとは言え、付き合ってもいなかったのに飛び越えて結婚を申し出るなど恥ずかしくて堪らない。


 それから四年。ようやく授かった我が子だが、妻の身体が妊娠に耐えられるかは難しかった。一時は堕ろすことも考えた。

 しかし強い母の眼差しで彼女が産むのだと言い、今日その日を迎えた。


「ほら旦那さん! 呆けてないで奥さんの手を握っておやりよ! 名前を呼ぶんだ」

「あ、ああ…………」

 予想通りの難産となった。母子共に危ぶまれたが、取り出された赤子は力強く泣き叫んでいる。


 しかし妻は我が子を抱き締めることも、その顔を見ることも叶わなかった。

 口元に耳を寄せれば辛うじて呼吸の音が聞こえる。しかし握り締めた手に手応えはなく、呼び掛けに目蓋を震わせることもない。

 アドリアナ。アドリアナ。


 ――あ、今動いたわ。ソフィーちゃんは元気ですねー。お父様似かしら?


 ――ソフィアで決まりなのか? 男の子だったらどうするんだ。


 ――分かるわ。この子は、天使のように愛らしい女の子よ……



「はじめましてです」

 無力に立ち竦む私に、やや舌足らずな挨拶が投げ掛けられた。

 びっくりして振り向くと、いつの間に入ってきたのか小さい女の子が立っていた。身長を越える木の杖を抱える姿と、目の上で切り揃えられた黒髪がより少女を幼く見せる。

「そちらの女性はアドリアナ=グラツキーで合っているですか?」

「え……ああ。アドリアナ。私の妻だ」

「あ、よかったです。間に合って」 ぱっと花が咲いたようにその子は笑う。その邪気のない笑顔に、状況も忘れて微笑ましい気分になった。その子の向こうでは産婆に抱かれた娘が、ソフィアがまだ泣いている。


「僕は調律者(バランサー)アランです。アドリアナ=グラツキー。調律の名のもとあなたに祝福を与えに来たです」


 調律……調律者!?


 緩んでいた心臓が縮む。

 調律者と言えば死神よりも恐ろしい、死の使いだ。調律者は死を運ぶ。親戚筋にも調律されて齢二十で亡くなった人がいる。

 まさか妻も、今ここで殺されてしまうのか?

「そんな、待ってくれ。妻は苦しんでやっと子どもを産んだんだ。せめて一度抱くまでは」

「落ち着いてください。僕は彼女の命をもらいに来たわけではないです」

 ゆったりと調律者の少女は笑いかける。先程と違い、まさしく神の如く全てを包み込む笑みだった。

「彼女はまだ死ぬべきではない魂です。その輝きが弱まったので僕が遣わされたです」

 若干危なげに杖を抱えて枕元にまで歩み寄った調律者は、妻の頭上に杖をかざした。小さな手にぐっと力がこめられる。


「アドリアナ=グラツキー。魂に癒しを、あなたに祝福を」


 杖の先端、正確にはそこに嵌め込まれた石が仄かに光を帯びる。そして滲み出るように溢れ始めた光の粒子が妻を包み込んだ。

 非常識な光景だが、恐ろしくはなかった。ただひたすら安堵の心地が胸を占める。


「…………赤ちゃん」


 光が消え、杖を腕に抱え直した調律者が譲るように下がる。


「ねえイザヤ、私の赤ちゃんは?」

「アドリアナ……!」

 はしばみ色の瞳をはっきりとこちらに向け、妻が問う。すぐに産婆が娘を妻に渡した。真っ赤な娘は生命力の強さを示すように枕元でも泣き続ける。真横にはそれを見つめ、愛しげに目を細める妻の笑顔。


 ああ、神よ……


 心の中で十字を切り、そこではたと調律者の存在を思い出す。振り返れば調律者と目があった。こんな小さい子が、しかし奇跡をもたらしたのだ。疑いようがなく、神の御使いたる調律者。

「調律者、感謝します。妻を助けていただき、何とお礼を申し上げたら……」


「いいえ」


 返ってきたのは、それまでの調律者の印象を一新する冷え冷えとした否定だった。

 見ればその顔には何の感情も乗せられておらず、切り揃えられた黒髪の下で蒼の双眸がまばたきをする。

「いいえ、お礼を言うことではないです。それに……僕にはもう一つお仕事が残ってるです」

 両手で杖を掲げ、調律者は二回、杖を叩き鳴らす。水面の波紋が引いていくように部屋の空気が変わっていくのを肌で感じた。


「ソフィア=グラツキー。調律の名のもとにあなたの命をもらいに来たです」


 水の中に、そっと、石を投げ入れるように。


 クォーーン……


 杖の先端が床に触れるとそこを基点に不可視の波が広がる。それが部屋の隅まで、角に置かれたベッドの上の二人にまで届く。

「…………ソフィア?」

 まず異変に首を傾げたのは妻だった。小さな身体をめいいっぱい使って泣き叫んでいた娘が、ピタリと泣くのをやめてしまったのだ。

「ソフィア、どうしたの。ソフィア、ソフィーちゃん?」

 次第に焦燥を滲ませて娘の名前を呼ぶ妻の声に、私はようやく二人に駆け寄ることを思い出す。

「あなた、ソフィアが……」

 眉を寄せて見上げる妻の顔色は、せっかく戻った朱が引き蒼白になっていた。その横では、ぐったりと四肢を投げ出す娘。


 …………冗談だろう?


「調律完了」

「ソフィア、ソフィア、ソフィア」

「ソフィア=グラツキーは調律の名のもとに御元へ還ったことを、我、調律者アランがここに宣明する」

 それしか知らないようにひたすら娘に呼び掛ける妻の声と、滑らかに口上述べる幼い声が混じりあって頭蓋を揺さぶる。吐き気がする。

「何を、した」

 同じように杖を両手で持ち床を二回叩いた調律者の視線は杖の先端、光る石に注がれていた。

 妻を助けた時と違い、その光は外から中へと取り込まれていくように消えていく。それからようやく、調律者はあどけない瞳をこちらに向けた。

「ソフィア=グラツキーもまた調律対象でした。アドリアナ=グラツキーとは逆ですが」

「………………………何故だ」

 唸るように絞り出した自分の声が感情の引き金となる。

「何故、妻の目の前で殺した! 妻の命は助けたくせに、どうしてこんな無力な赤子を殺せる!」

「殺しではなく調律です。常世の海に沈むことなく、種となってソフィア=グラツキーは御許に還れるです。それに、一度抱くまでは、と仰っていましたよね?」

 それは……確かに言ったかもしれない。しかし、それは言葉の綾とでも言えばいいのか、本当に一度抱けばいいと思っていたわけがないだろうに。


 そんな当たり前のことも分からないのだろうか。


「一度抱いたら満足ですよねはい死んでください、か?」

 はっ、と嘲笑を含めた呼気が洩れる。踏みしめるようにゆっくりと三歩も歩けば、壁際に佇む調律者を追い詰める。

 調律者は何かを考えるように首を傾げ、口を開こうとした。その無邪気で愛らしい仕草は、しかしこの上なく無神経なものとして神経を逆撫でする。

 拳を握り締め、腕を振り上げる。女子どもだからとか、手加減とか、考える余裕はなかった。

「ぃ…………」

「だ、旦那さんちょっと」

 視線を逸らさず大人しく殴られた調律者は、さすがに顔をしかめた。それに慌てたのは産婆だ。もう一度と掲げた腕を取られる。

 怒りを隠さずに調律者を睨み付けた。俯き、さらりと黒髪が覆うその表情は分からない。

「ふざけるな。何が調律だ、この人殺しが」

「……僕のお仕事はこれでおしまいです。失礼しましたです」

「二度と来るな!」

 近くの花瓶を投げつける。しかし調律者は消えたあとで、無惨に砕けた花瓶と中の花が床に散った。



 ……あれから、妻は心を病んでしまった。子ども用の御包みや産着を山のように編んでは、元通りになった腹を擦りソフィア、と呼び掛ける。

「ソフィア、今日はいい天気よ。空が青くて気持ちいいわ。早くあなたにも見せてあげたい」

 妻が私を見ることはもう二度とない。同じく、私が生涯で調律者に出会ったのも、あれが最初で最後だった。


***


「ただいま帰りましたです」


「お帰りなさいアランちゃ……って、どうしたの顔真っ赤よ!?」


「何でもないです。あ、今日のご飯は何ですか?」


「……ジルご所望のビーフシチューよ。はい、これで冷やしてなさい」


「う、冷たいです」


「当たり前です。もう、どうしてアランちゃんはいつも怪我して帰ってくるのよ。あなたたちはそういうのを回避できる術があるのでしょう?」


「この痛みは命の重み。背負うべき重みを避けることなんてできないです」


「相っ変わらずかてえなぁアラン」


「あらジル、おはようかしら」


「……ジル、まさか一日中寝てたですか」


「悪いか、自主休暇だよ」


「ジルベルトが一番仕事の進み遅いってリゼル言ってたです」


「………………あ、マリアさん俺もメシ」


「はいはい」


「マリアさん、こんなやつ甘やかす必要ないですよ」


「まあまあ。ほら、餌付けって大事よ?」


「え…………俺、餌付けされてんの?」


「それは置いといて、さっきの話だけどね」


「さっき?」


「ジルには関係ないです」


「アランちゃんの言い分も分かるわ。でもこう毎回だとねえ……」


「命は大切なものです。真摯に向かい合わなくては」


「うん、だからね……アランちゃん自身のことも、大切にしてあげて」


「……………………善処するです」



「つか俺は腹が減りました」


「あら、そうね。他の子はまだ帰ってきてないけれど、三人で先に食べちゃいましょうか」


「よっしゃあ、いただきまーす」

「いただきますです」

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