<アーロ>
「寒い寒い死ぬ死ぬ」
今日は朝から変なお客さんが来た。
「うおぉ……本気で死ぬかと思った。つか俺がここで死ぬとどうなんだやっぱ種になんのか? でもその前にリゼルに殺されそうな気が」
「誰? 何してるの?」
「おー少年! 少年はこの家の子か? 家に入れてくれねえかな。温かい飲み物なんかあるとすげえ嬉しいぞ」
柵の向こうで震えていた白い塊はやっぱりお客さんだった。僕は薪で塞がる両手の代わりに足で扉を開ける。
お客さんは文字通り転がり込んできて、ばたばたと駆けて暖炉にへばりつく。あのままだと燃えちゃいそうだけど。
しばらくすると全身にこびりついていた雪やら霜やらが溶けて、お客さんの色が戻ってきた。お父さん以外に初めて見た大人の男の人だった。レンガ色の髪の毛に茶色の瞳。肌も浅黒くて、お父さんとは似ても似つかない。旅人さんなのかもしれない。
「お兄さんは、旅人さん?」
「んー、確かにあっちこっち行ってるけど……旅、じゃねえよなぁコレ」
「ふうん?」
いまいちはっきりとした答えはもらえなかったけど、まあいいや。
僕の町は山奥にあるから外の人なんて滅多に来ない。更に谷を越えたところに僕の家はあって、僕は家族以外の人と会ったことがなかった。初めてのお客さんは、まるで封のされたお菓子箱みたいにわくわくさせてくれる。
「お兄さんは、何しに来たの?」
「調律しに」
今度はすぐにはっきりと答えてくれた。けれどさっきよりもよっぽど分からない。
「…………ピアノなら壊れてないよ?」
部屋の隅に置かれた黒光りを見る。お母さんが大好きだった、そしてよく弾いてくれてたピアノ。
お母さんが死んじゃってからは誰も弾かなくなったけど、お父さんは手入れを欠かさないし、僕もこっそり遊んでいるからきれいな音が出るのは知ってる。
そう教えたのに、お兄さんはちょっと肩を揺らして笑った。何か面白いことでも言ったかな?
「ああ、あのピアノは大事にされてんな。でも……『コッチ』はひでえな」
よっこいしょ。掛け声とともに立ち上がったお兄さんは、コンコンと床を木の杖で叩いた。
そこで初めて僕はお兄さんが杖を持っていることに気付いた。杖の先は赤く暖炉を火を映す。真っ赤な石が埋まっていた。
「さて、仕事仕事。なあんで俺ばっかりこんな過酷な労働環境なのかは置いといて」
ちょうどその時、大きな扉が開いた。お父さんが起きてきたんだ。
「お父さん、おはようございます」
「アーロ、誰だそいつは」
「えっとね、旅人さんじゃないお客さんで、ピアノじゃないんだけど直しに来たの」
僕の答えじゃ満足できなかったのか、お父さんはますます目を細めてお兄さんを見る。お父さんがいつも、失敗した僕に向ける目とよく似ていた。ああ、怒られちゃう。習慣で目を瞑って歯を噛み締めた。
でもそんな僕に降りかかってきたのはお父さんのお仕置きじゃなくて、お兄さんの大きな手のひらだった。ゆっくり撫でられて、おそるおそる目を開けた。
「どうも、お邪魔してすいませんね。アントン=ハータイネンさんで?」
「…………いかにも。私に何か用かね。あー、」
「ああすいません、まだ名乗ってませんでしたね。まあ名乗るほどじゃねえんですけどね?」
お兄さんはそこで一旦言葉を切ると、うっすらと笑った。おかしくてしょうがない、そんな風に見えた。
「俺は調律者ジルベルトだ。アントン=ハータイネン。調律の名のもとに貴様の命をもらいに来た」
お兄さんはジルベルトさんというらしい。ばかでのろまな僕にはそれしか分からなかったけど、お父さんは違ったみたいだ。顔を真っ青にして、慌てて今入ってきた扉の向こうに戻ろうとした。
「ははっ」
慌てるお父さんを眺めてお兄さんは笑っていた。僕のほうを見て滑稽だよな? とお父さんを指差すけど、僕は「こっけい」の意味が分からなくて首を傾げた。
そうやってばかな僕をお父さんはいつも叱る。でもお兄さんは怒るどころか優しく笑って、それでいい。と頭をくしゃくしゃに撫でてくれた。
もう片方の手はくるりと杖を回し、石のついた側が床をそっと叩く。
「――アントン=ハータイネン。全ての源、御許でその命を洗い流せ」
クォーーン……
お腹の底が揺らされる音が響いた。その震えが収まらないうちに、お父さんが出ていった扉の向こうで階段から重くて大きい何かが落ちる音が聞こえた。
よくお父さんが僕を怒っていろいろ投げたり壊したりする音よりも、もっとずっと怖い音に、薄く開く扉の向こうから目が離せない。
そんな僕なんかお構い無し、とお兄さんは口笛でも吹きそうな様子でまた杖で床を鳴らす。つられて見上げると、なんとなく、杖の先の石が光っているように見えた。すぐに消えちゃったから気のせいかな。
「調律完了」
笑みを消して石を見つめるお兄さんは、さっきまでのお兄さんとは別人に見えた。
「アントン=ハータイネンは調律の名のもと御許に還ったことを、我、調律者ジルベルトがここに宣明する」
小さく呟いた声を最後に、家の中は静かになった。あんなに音を立てて二階に逃げていたはずのお父さんの音も聞こえない。外で吹雪く風が絶え間なく窓を揺らす音だけが聞こえる。
「……お父さん、呼んでくるよ」
どうしたらいいか分からなかったので、とりあえずお父さんを呼んでこようとした。お兄さんはお父さんに用があるみたいだし、何よりお客さんを放っておくのはよくないと思ったのだ。
「いや。お父さんを呼びに行く必要はねえよ」
「でもお兄さんはお父さんにご用があるんだよね?」
「仕事は終わりだ。俺はもう行かねえと……それに、少年も」
僕?
お兄さんは膝をついて目線を僕に合わせると、肩に手を置いた。
「少年、もうこの家にいても少年のお母さんもお父さんも帰ってこない。少年はここを出て外に行くんだ」
「でも僕は裏庭以外に外に出ちゃいけないんだよ。鍵だって」
そう、あの大きくて厚い扉は僕が通っちゃいけない扉なんだ。もし外に出たらまたお父さんにお仕置きされちゃう。
「鍵なんか、俺が開けてやるよ。そもそも少年はその気になれば鍵くらい開けられる」
でも、と僕は何とか説得しようとしたけど、お兄さんは振り向きもしないで外……裏庭ではなく、正面へと出る扉まで僕を引きずっていった。
そして杖で軽くノブを叩くと、やけに物騒な金属音をたててノブが壊れて外れてしまった。ギギィ……吹雪が扉のすき間から入り込んできて、少しずつそのすき間を広げていく。
「ほら、な」
得意気に笑ったお兄さんは吹雪く外に、躊躇いなく出ていった。三歩も歩けば、もう吹雪でお兄さんの輪郭しか見えない。
お兄さんが振り返る。
「少年。俺は調律者だから、少年に何もしてやれねえんだ」
吹雪の向こうからお兄さんが話しかける。その顔もやはり白く隠れてしまう。
「でも少年は自由だ。望めばどこにだって行けるし、何だってやれる。何者にだってなれる」
カン、と風の音に紛れて杖が石畳を叩く音。白の景色に、ぼんやりと光が生まれお兄さんの影を包み込んでいった。
お別れなんだ。その事実がすっと僕の中に入ってくる。――寂しい。お父さんもお母さんも、もう誰もいないというお兄さんの言葉が蘇ってきて、その言葉が強く冷たく胸に刻まれる。
「お兄さん、また会える?」
「ああ。少年が全力で生きて生きて、そしたらいつか俺が調律しに来てやる。だからそれまで生き抜け」
じゃあな。軽く手を挙げたお兄さんに手を振り返そうとしたけど、その前にお兄さんは吹雪の向こうに溶けて消えちゃった。
僕は家の中を振り返って、また外を見て、もう一度家に身体を回転させる。静かな、寂しい家。お母さんがいなくなってから、本当はずっとずっと寂しかった。
「……行ってきます」
小さく手を振って、外へ出る。もう振り返ることはしない。
身体に叩きつけられる吹雪が傷口に入り込んで、より一層寒さを伝えてくる。そのくせ昨日お父さんに殴られた頬は燃えるように熱く、熱いのか寒いのかよく分からなくなってきた。
もはや道の体を成していない雪の上を、ひたすら機械的に進んでいった。歩くこと。生き抜くこと。お兄さんの言葉だけを頭の中で繰り返し繰り返し唱えながら。
何度も諦めたくなって、眠くなって、視界が暗くなる度に小さな光が僕を導いてくれた。こっちだよ。そう言われているみたいで、その先には温かい何かが待っている気がして、感覚のない足に動くよう命じる。
けれど雪につまずいて転んじゃったら、とうとうどんなに頑張っても起き上がれなくなった。そうしている間にも雪はどんどん僕の上に積もっていって、何も考えられなくなる。
あの光はどこにあるだろう。最後に顔を前に向けると、揺れる光が見えた。それがさっきまでと違い、近づいてくる気がしたけど、それを確認する前に視界が真っ黒く塗りつぶされる。
ごめんなさいお兄さん。約束、守れなかった。
「おい! こんなとこに子どもが……坊主、しっかりしろ!」
――ある北の町で遭難した子どもが一人発見された。身寄りはなく、町長が引き取った。
その子どもはよく学び、友に恵まれ、愛する人を見つけ、雪の中でも実る作物の種の開発に成功し名を上げた。初老に差し掛かる前に調律され亡くなったが、彼の表情に悔いはなかった。
幼少時の虐待の影響で障害を抱えながらも真っ直ぐに生き抜いた彼は、死してなお、その名を人々の心に残すことになる。
***
「うあー、やっと帰れた……」
「…………ジル?」
「マリアさん遅くにすいません。あ、夜食でもいいから何かねえ?」
「ええ、夕飯の残りを温めるから座ってて」
「ホント、助かります……」
「それにしても遅かったわね、お仕事多かったの?」
「いんや、今回は一人だけ」
「………………………ジルは、優しすぎるのよねえ」
「……まだ何も言ってないんすけど俺」
「ふふ、大体分かるわ。本当に調律者のあなたたちは皆、繊細よね」
「俺もんなキャラじゃねえけど、リゼルはどうかなあ」
「あら、あの子が一番繊細よ。ただ賢すぎるから誰からも、自分からも悟らせないだけ」
「へえ、さすが皆のお母様はよく見てらっしゃいますね」
「あなたたちみたいな大きい子を持った覚えはなくてよ? ……はい」
「ううー、湯気が身に沁みるぜ。いただきまーす」