<リリアーヌ>
調律者。
世界に満ちる『命の量』を、神が定めた基準に従い一定に保つ者たち。
世界は絶妙なる命の均衡のもと成り立っている。少なくても多くてもそれは世界の崩壊に繋がる。
神から授かった力で時には不治の病に苦しむ人間を助け、時に産まれたばかりの赤子の命さえ無慈悲に奪う。
人々は彼らを感謝を込めて呼ぶ。神の御使いと。
人々は彼らを憎悪を以て呼ぶ。死神と。
「調律の名のもとに――」
彼らは今日も、使命を果たす。
***
抜けるような青空と、気まぐれに浮かぶ白い雲。
そんな平和を体現したハレの日は、あの女のせいで私の人生最大の不幸な日となった。
「――エリック=マクレガーはお前?」
その女は何の変哲もない若草色に染め上げた短めのワンピースと、機動性のためか腰ひもを縛り下に細身のパンツを履いていた。亜麻色の髪を高い位置で一つに結び、ワンピースと同じ若草の瞳がこちらを見据える。歳は私よりいくらか若いだろう。ティーンにしては雰囲気が落ち着きすぎていたが、未だ丸みを帯びる輪郭や胡桃の瞳は若い輝きを隠さない。
何処にでも、この村にもいる若い娘と何も変わらなかった。その左手に持つ、身の丈もある木の杖以外は。
その日は私と彼、エリック=マクレガーの結婚式だった。画家を夢見る彼との結婚は周囲が強く反対したが、それを乗りきってやっと結婚にまで漕ぎ着けたのだった。
幸せの絶頂にいた私たちは小さな教会へ続く道を、親や友に祝福されながら歩いていた。そんな最中、いきなり、それこそ影から出てきたように、私たちの正面に女が現れた。いつどう現れたのか誰も気づかなかった。好奇心と疑惑の混じる空気に晒されても少女は動じる素振りすら見せない。
「……ええっと、確かに俺がエリックだけど」
彼も周りの誰もがその女の纏う異常な雰囲気に気付かないのか、若干の戸惑いを見せつつも普通に応対していた。私は、嫌な予感がした。
この女はダメだ。危険だ。早く逃げなくては――
「ねえエリッ……」
「エリック=マクレガー」
袖を引く私よりも強く明瞭、そして陰を宿す声が彼を呼ぶ。少女は手の杖を二回垂直に打ちつけた。木が地面を叩く硬い音が響き、辺りから音が消えた。否、そう感じるほど空気がはっきりと変わった。
「調律の名のもとにお前の命をもらいに来た」
クォーーン……
少女がそっと杖を振り下ろす。杖の先端が地面に触れ、そこが一瞬波打ったように見えた。そして聞いたこともない、あえて例えるなら暗い水底に眠る石を叩いたような、美しくも不安を掻き立てる音が――……音が、鳴り渡ったと、そう思った時には。
「…………エリッ、ク?」
一瞬前まで隣で笑っていたはずの恋人が、到底生きている人間の温度を思わせない肌の白さで倒れていた。
………………何が。一体何が起きたの。ねえ、エリック。
「調律完了」
先程から寸分足りとも変わらない声がそれを告げる。我に返った私は、少女の杖の先端に嵌め込まれた石が輝くのを見た。
それはほとんど反射だった。
「……返して! エリック!」
石に取り込まれてどんどん失っていく輝きを、本能で愛する人だと見分ける。私はウェディングドレスが汚れるのも破けるのも構わず、少女に飛びかかった。
しかし身軽な格好をした少女はひらりと半転して私を避けると、もう一度、杖で地面を叩く。それを合図に石は完全に輝きを失った……喪って、しまった。
「エリック=マクレガーは調律の名のもと御許へ還ったことを、我、調律者リゼルがここに宣明する」
調律者……!?
こんな少女が、あの神の遣いと言われる伝説の調律者?
ならエリックは、調律されたって、エリックは要らない命ってこと?
私など気にも留めず、また何も説明もなく、少女は己を基軸に一回転し地面に杖で円を描く。乱れのない線が繋がり円を成し、その円から出てきた光が少女を包んだ。
逃げられる。
必死に少女へ駆け寄ろうとしても円より内側に入れない。そこにいるのに。手を伸ばせば届くはずなのに。
仇の少女を憎しみ……いや、怨念を籠めて睨み付ける。しかし少女は動じた風もなく無感動に見つめ返してきた。そこには、一欠片の後ろめたさも何もない。
「アンタがッ……よくもエリックを! どうして……!? どうして彼なのよ。アンタが死ねばいいんだ!!」
「…………世界は調律の名のもとに調われる。だから世界に悲劇は満ち、そして抗する喜劇が生みだされる」
なぞかけのような言葉を最後に、少女は消えた。あとに残ったのは果てのない嘆きと、もう二度と私に笑いかけてくれない恋人だけだった。
………………エリック。
小綺麗なタキシードと、爪にこびりついた絵の具。
せっかくおめかししたのに、と彼は自分の指を見て残念そうにしていた。私はそこが彼らしくて素敵だと、思った。どうしてあの時伝えなかったのだろう。
「エリック起きて。あのね、私、」
「……リリー」
「ね、エリック。私あなたに伝えたいことがあるの」
「リリアーヌ、エリックは調律されたんだ。エリックは選ばれたんだよ、神に。これは喜ばしいことなんだ」
調律された者の魂は神の御元に呼ばれて、永久の楽園を約束される。調律によって世界を救った選ばれし者。喜ばしいこと。
それは誰だって知っていることだ。幼いころから子守唄のように聞き続けたのだから。
喜ばしい? 世界のため?
私は思わず喉をひきつらせて笑った。
世界って、どの世界のこと?
こんな、彼のいない世界に一体何の価値があるの? 救うだけの価値があるの?
答えは否だ。
調律者。あの女。……いつか必ず復讐してやる。
だから、ねえ、エリック。いつか絶対に仇は取るから。だから…………今だけは、泣かせて。
空は相変わらず、清々しいほどよく晴れていた。
***
「あら、お帰りリゼルちゃん。またお仕事?」
「ただいまマリアさん。少し早いけど夕飯頼めますか」
「ええ、すぐ用意するから。一品おまけしてあげる」
「すみません」
「さて。食べる前にその浮かない気持ちをなんとかしちゃいましょうね。せっかくのマリアさんお手製もそれじゃあ不味くなっちゃうわ」
「特に浮いている浮いていないとかないですよ」
「いいからいいから。まあ話して御覧なさい。私もリゼルちゃんのお話聞きたいし」
「…………たぶん新郎だった。花嫁姿の女に凄まじい形相で襲われかけた」
「あらまぁ。ジルもたいがいだけど、リゼルちゃんもタイミング悪いわよねえ」
「そこで『何で彼なんだ』って言われました」
「あらあらそれは…………また、何とも陳腐で身勝手な台詞ねえ」
「全く」
「はい、おまちどおさま。まあそんな下らないことは忘れて、たくさん食べてゆっくり休みなさいな」
「ありがとうございます、いただきます」