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もう灯りの消えた店舗のショウウインドウに向かい、浅井はバサリと縛っていた髪をほどいた。
課長の姿を認めてから髪をほどくまで浅井の中ではグルグルと思考が高速回転した。
つまり、今ここでこんなに若くて可愛い男子と歩いているのはそれなりに事情があってですね、と課長をつかまえて一から説明するか?それか弟と言おうか?いや、課長が私に弟がいないと知っている可能性は0どころか高いし、あ、じゃ、従弟!イトコってことに!てかこんなに似てないのに信用される?ていうかそれを課長つかまえてわざわざ伝えるのか?
と考えた挙句に他人になりすまし気付かれないようにやり過ごすという原始的な手段に出ただけだった。
そして幸運にも課長に気付かれずに済んだのだが、それを見ていた少年がにっこりと微笑んだ。
「それ、かっこいいね。もうオフに切り替えるって気合入れだね!じゃあどこか知ってるお店あるんだよね?」
天使のような少年はポケットに手を突っ込んで待ちきれない風に足踏みをしている。
「早くいこ!」
「そうね」
浅井も、課長が去った方向に背を向けて急いで歩き出した。当然のように少年も肩を並べて歩き出す。
「僕の名前は君島秋彦。二十歳、学生。あなたの名前は?」
ああ、本当に男の子なのね、と浅井が一度少年の顔を見ると目が合った。
「私は、」
浅井が視線を外した。
「浅井鈴乃」
そして、ふぅとため息をつく。
一体私たちはどういう連れに見えるんだろう。親子ほど離れてはいないけど姉弟ほど近くもないし、第一こんなに見た目の共通点もないのに……。
「浅井さんか~。浅井さん、お酒は強い?」
自分が見た目の心配ばかりしている間、少年は酒のことばかり考えていたようだと気付き、浅井はくすりと笑った。いや、少年じゃない。青年か。
「強いわよ」
「ああ、頼もしいね!楽しみだなぁ!」
ねぇ、早く行こう!と青年・君島はスキップを始めた。
恋人も友達もいない浅井の知っている店となると、会社の同僚に紹介された店しかない。
その中でもしゃれた小さめのバーを選んだ。
照明が天井に埋め込まれた小さな電球の数々と、ガラスケースの中に積み重ねられた様々な形のグラスを下から照らすキラキラとした間接照明と、客が座っているテーブルの上に置いたキャンドルのみの薄暗い店内。
案内された席に着き、君島は溢れる笑顔を隠さず全身で喜んでいる。
「ね!入り口で年訊かれなかったの初めてだ!」
そうなんだ。そんなことが嬉しいのね。浅井も笑って俯いた。
「何にする?とりあえずビールってやつ?それでいい?」
浅井が頷くと君島が大声で、とりあえず生ビール二つ~、と嬉しそうにオーダーした。どうやらこれもやってみたかったことらしい。
じきに運ばれてきたビールグラスで乾杯し、テーブルに置かれたキャンドルで照らし、メニューを二人で覗き込んだ。
メニューにはカクテルの説明も添えてあったので、それだけでしばらく盛り上がった。
盛り上がったというよりは、君島が浅井を質問責めにしたというのが正しい。
曰く、どれにする?これはどんな味?強い?これはどういう意味?なんでこんな名前?美味しい?塩がついてるの?何で?どうやって?
浅井は一つ一つ答えた。
答えながら、不思議な気がしていた。なぜ私はイライラしていないのだろう?
理由はわかっていた。彼の可愛らしい顔と無邪気な性格のせいだ。この明るい笑顔だけで自分の気持ちまで晴れてくる。
そして気付いた。誰かと楽しくお酒を飲むなんて初めてだ。
先輩とはお酒を飲めなかった。そんな年齢まで一緒にいられなかった。
初めてお酒の楽しさを教えてもらうのが、二十歳になったばかりの青年にだなんて。
浅井は笑った。少し酔ってきたようだと頬杖をついた。
そしてまた君島を笑顔で眺めて、はっとした。
「君島君、だいぶ酔った……?」
「ぜぇ~んぜん、酔ってなぁい~!」
君島は真っ赤な顔でヘラヘラしていた。
しまった……!この子、ほとんどお酒の経験がないんだったわ……。ちょっとどこかで醒まさなきゃ……。
「もう出ましょう。次にいこ」
「なんでさぁ~!僕さ、この、アレキサンダーの妹とかいうのがさ~、」
こんな風にぐずられても浅井は笑ってしまう。
「また今度にすればいいじゃない。今日全部飲んじゃう気?」
「今度?本当に?」
君島がうつろな目を向けてくる。それにも浅井は笑った。
その浅井の耳に、大声が響いてきた。
「あそこ~!あそこの席がいい~!窓際のぉ~っ!あそこにしよ~大沢く~ん!」
浅井の笑顔が凍った。
栗尾の声だった。