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はっきり見えない中を暖かい手に握られて人の間を縫って、明るく小さな店舗に飛び込んだ。
「いらっしゃいませ」
その若い男の声を聞いて、浅井は初めてほんの少し恐れを抱いた。
これまでがあまりに速い展開で言われるがままについて来てしまったが、まさか新手の詐欺?コンタクト詐欺?
「ああ、初めてですか。それでは医師の診断を受けていただかないとなりませんので、二階の眼科で行ってきて処方箋をもらってきてもらえますか?保険証はお持ちですか?」
保険証……保険証詐欺……?!
「階段が危ないですよね。ゆっくり登りますから大丈夫ですよ!」
彼女は2階の眼科まで連れて行ってくれるようだ。だけど、だけど、と思っているうちに二階の眼科の扉を開けている。
「どうぞこちらに。視力測定しますね。眼底測定もしますのでね」
んん……、本当の眼科っぽい……。
「近視がかなりすすんでますし乱視もありますね。コンタクトですと、ハードとソフトと、」
「あ、あの、」
少女が口を挟んだ。
「うっかりメガネを踏んでしまって、一時的に見えればいいんです。それだと使い捨ての乱視がないのでも見えるって聞いたんですけど、」
「ああ、1日とか2週間とかのコンタクトのことですか?確かにそれで不自由はしないかと思いますが、乱視に対応したものだとまた何度も使えますけど」
「いえ、今日これから家に帰るまで見えればそれでいいんです!」
んん?この子、なんでそんなこと強調してるんだ?
「ええまぁそれでもお客さんが構わなければそれで対応できるかと思いますけどね」
そういって、医者は伝票のようなものに何かを書いていた。初診代と診察代で3千円。そして下の階で購入の際に使用できるクーポン千円分もらった。
こんな商売している医者で大丈夫だろうかと思っているうちにまた階段を下りて一階店舗に入っていて、処方箋で簡単に3種類のコンタクトの箱を用意された。
色々説明されたが最後には面倒臭くなって、一日使い捨ての一番安いものから試して、それがそう悪くなかったのでそれに即決した。
うわ!となぜか少女が声を出して喜んだ。
それで、少女が浅井の斜め後ろにいて、鏡に映っていることに気付いた。初めて彼女をはっきり見た。
茶色のショートヘアを柔らかく浮かせて白い肌の頬をピンクに染め、長い睫毛に縁取られた大きな瞳を開いて、キャメルのダッフルコートを着た少女が微笑んでいた。
ありえないほどの美少女だった。まるでCGだ。
浅井は初めて対面した今まで手を引いてくれていた少女のその美しい笑顔に見惚れて、呼吸を忘れた。
そしてふと、目を正面に戻した。
真っ黒い長い髪を束ねただけの、真っ黒いコートを着たキツそうな一重の瞳のやせたおばさん。
それが私だ。
「商品はこちらのクーポンご利用ということで、この金額になります」
店員が商品と電卓を持ってきたので、浅井がバッグから財布を出そうとすると、少女が慌てて口出ししてきた。
「あ!支払いはこっちでします!だってメガネ割った責任があるし!」
あ。それで安いコンタクト選んだことを喜んでたのね。
浅井はその心遣いと無邪気さが嬉しくて、少し心が温かくなった。
「いいわよ。あのメガネ、もう古かったしね。あなたのおかげでコンタクトも初体験できたし」
浅井はそう言いながらクレジットカードを差し出した。
「あっ!だって、それくらいだったら払えるのに!それじゃどうやってお詫びしたらいいか、」
いいの。あの笑顔と困った顔とその高い声で、私本当に嬉しい時間がすごせた。こんなに可愛い子ってそうはいない。それなら、
「もう大丈夫よ。見えるから。後は一人で帰れるからあなたももう気にしなくていいわ。
今日は金曜日だし早く行かないと彼氏が帰っちゃうんじゃないの?」
もしこの子に彼氏がいるのだとしたら、きっと来るまで何時間だって待つだろうけど。
浅井は支払い伝票にサインを記入していたので気づかなかった。
店員は見ていた。そして、固まっていた。
ボールペンを返そうとしてるのに店員が固まっているので、やっと浅井も振り向いた。
そして、驚いた。
少女の表情が一変していた。
頬を染めて上目遣いに大きく見開いていた瞳が、今はわずかに見下ろす角度に顎を上げている。
少し開けていた口も、への字に結んでいる。
「……え?」
浅井が問うと同時に返事が来た。
「僕、彼氏なんていないよ」