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JOY  作者: co
第6章・ピンクの球
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 部屋に戻り、浅井はすぐに風呂を入れて、透き通ったピンクの柔らかい球を放り入れた。

 殻が溶ければ湯を白濁させてバラの芳香を放つこの入浴剤には、先輩の思い出が閉じ込められている。

 本当はあまり使いたくない。残りが少ないから。そして、先輩を思い出すのが辛いから。

 しかし今日は、先輩に頼りたい、甘えたい、今日は先輩に会おう、そんな思いで浅井は家路を急いできた。


 先輩が野球部の飲み会でビンゴの景品にもらって来た入浴剤。

 先輩は野球部が忙しかったために、あまり浅井の部屋にはこなかった。会う時はほとんど浅井が先輩の部屋を訪れた。


 先輩の部屋の風呂は、少し大きめではあったもののとても二人で入れるようなサイズではなかった。

 しかも先輩は大柄だし浅井も長身だ。それなのに、一緒に入ろうと誘ってくる。

 いやです、と拒否しても、なんで?とまったくきょとんとした顔で訊いて来る。

 恥ずかしいから、と答えても、何が?とまったく取り合わず、それ以上の反論が思い浮かばないうちに服を脱がされ浴室に引きずり込まれ、浅井の好きなピンクの球を湯に放り込む。



 事故後まだ退院する前、母が一時自宅に戻った時に病室を抜け出し、先輩の部屋に向かった。

 まだ信じられないのと信じたくないの間の現実味の薄い世界に浅井はいた。

 まず自分の部屋に戻り先輩の部屋の合鍵を持って自転車で走った。

 やはり現実味は薄かった。こんな時間に、午前中に、先輩が部屋にいるはずがないのだ。先輩はこの時間、グラウンドにいる。部屋にはいない。

 部屋に着いて鍵を開けて先輩がいなくても、だから何も感じなかった。いるはずがないのだから。


 部屋には何の変化もなかった。まだ片付けにはきていないのだろう。


 まだ信じられないでいたのだが、頭の中で了解はしていた。

 先輩は死んだ。

 だから浅井は病院を抜け出してこの部屋から先輩の大切なものを持ち出そうと思って来たのだ。 


 でも何を?

 何を持っていったらいいかな?先輩。


 浅井はまだ混乱していた。

 信じられないでいるのに先輩の遺品を探す矛盾を受け入れていた。

 どうして自分は悲しくないのか、涙も出ないのか、分からないまま探し物をしていた。


 そして高い棚の上にこの入浴剤を見つけた。

 これがいい、と思ったわけではない。

 ああ、あんなところに、と腕を伸ばしただけだった。

 背伸びして腕をいっぱい伸ばしても届かなかった。


 そして、後ろを見た。


 背後から腕が伸びるはずだった。

 こんな時には先輩が笑って取ってくれるはずだった。

 骨ばったあの大きな手で

 左腕より太くなったあの固い右腕を伸ばして


 それなのに誰もいない後ろを見て、浅井はやっと先輩を失ったことを知った。

 そのまま崩れて座り込み、悲鳴を上げた。喉が破裂するほど悲鳴を上げたはずだった。

 吹き出た涙が床に落ちてぽたぽたと音を立てた。

 聞こえたのはその音と、ヒューヒューと空気が漏れる音だけ。

 声を失っていた浅井の喉は泣き声も上げられず、空気が通っていく音を発するだけだった。


 これで、生きているのか、と思った。


 先輩を失って、泣き声すら出せないで、生きていると言えるのか。


 こんな私に、生きる意味なんかあるのか。



 ない。



 そう思った。

 生きる意味なんかない。

 先輩のいない世界で生きていく意味なんかない。

 生きていく必要なんかない。


 そう思いついて、浅井は安心した。

 棚から落ちてきた入浴剤を抱えて、浅井は笑った。

 涙の溜まった床に転がって、笑った。


 そこで記憶が途切れている。

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