10
「お連れの人、店に戻りましたよ」
バーテンが走ってくる浅井を振り向いて、一度目を動かしてから言った。
「うん?いいの。二人で、来たんでもないし」
ちょっと走っただけで息が切れた。しかしまず謝らないと。
「さっきは、ごめんなさい。もしかして、叱られて、帰るところ?」
「いえ。元々この時間までです」
バーテンがあっさり即答する。
「そう。それでも、あんなこと、ごめんなさい」
「いえ」
バーテンは、会釈をして立ち去ろうとした。
「あの」
浅井が呼び止めた。バーテンが顔だけ向けた。
「猫のこと、訊いていい?」
バーテンは、首を傾げてからまた歩き出した。だから浅井もその後をついて歩いた。
浅井はバーテンのあの行動にずいぶん感動したのだ。
きっと動物好きの優しいお兄さんなんだろうと想像していたのに、どうも様子が違う。
だからこそなおさら興味がわいた。
母校の後輩だということも、痛みと共に強く印象付けられた。
この無愛想な理系のバーテンが、誰もが目を逸らした猫の最期を引き受けたのはなぜなんだろう。
まだ少し荒い息を整えながら、訊いた。
「どうしてあそこで、わざわざあんなことできたの?」
バーテンは振り向かない。
「だってもう、生きてなかったし、誰も助けられなかったし、あんなことしても、」
そして到着した駐輪所でバーテンがヘルメットを置いたバイクは、ライムグリーンだった。
「通り過ぎたってしょうがないし、みんな嫌だなって思いながら通り過ぎたと思うのに、」
バーテンがキーを回してセルを押した。
そして始動したエンジンを二三度吹かした。
安定したはずのエンジンがなんとも不規則な爆発音を繰り返す。
バイクってこんなものなの?と気を取られていると、バーテンが口を開いた。
「あそこ、よく通るんです」
バーテンがメガネを外した。
「気付かなかったら通り過ぎたけど」
そう言った後でヘルメットを被り
「気付いたのでああするしかなかった」
シールドを開けてメガネをかけ、
「ああしなかったらこの先あそこを通る度に後悔する」
グローブを嵌めてスタンドを蹴り上げ
「別に猫のためじゃないです」
バイクをバックさせて駐輪所から出し、シートに跨った。
「俺が不愉快だった。それだけです」
それからヘルメットのシールドを下げて左足でシフトを落とし、浅井に会釈して走り去った。
浅井はその姿をしばらく見送っていた。
バイクが交差点を右折して見えなくなっても、まだ立ち尽くしていた。
バーテンの答えは、期待以上だった。
俺が不愉快。なんてシンプルな。
何の装飾も言い訳もない。だから、強い。
シンプルで単純なものが一番強い。どんな場合でも。
そんなことを改めて教わった。
そうだ。私もシンプルに強くなろう。
浅井はなんとなくそう思いついて、笑った。