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噂がすっかり膨らみきった水曜日、大沢が昼に本社事務所に顔を出した。
まだバレていないと思っている浅井は大沢に目もくれなかったのだが、事務所内の全員が二人に注目していた。
そして栗尾は何も知らない素振りでいつも以上に馴れ馴れしく大沢に話しかけた。
「大沢君、お昼どうする?またあそこに行こうか?」
精一杯浅井に挑戦的なセリフを言ったつもりだが、浅井は反応しない。
いや、弁当買って帰るよ、と大沢が答えると、じゃ一緒にコンビニ行こうね!と高い声を出した。
しかし浅井もコンビニに行くので一緒になる。
普通に財布を持って、他の事務員たちも一緒にエレベータに乗り込んだ。
ビルの前の幹線道路は中々信号が変わらない。
大沢にへばりつく栗尾から離れた場所で浅井は信号が変わるのを待っていた。
やっと大通り側の歩道の信号が点滅を始めた。
そしてその時、急ブレーキの音と「ギャン」という金属音に似た音が重なって聞こえた。
急停止しかけた車は再び速度を上げて交差点を通り過ぎた。
しかし歩道にいた全員は、その車が急停止しようとした場所に反射的に目を向けた。
後続車が、小さな塊を避けたり避けきれずにタイヤで踏んだ。
「ネコ?!」
「嘘!」
「やだぁ!」
信号が黄色になり、避けもせずにアクセルを踏む車も通り過ぎる。
栗尾が悲鳴を上げて大沢に抱きついていた。
大沢は焦って体を離そうとしていたが、浅井は気付きもしなかった。
ほんの目の前で起こっている惨劇を、自分は見ていることしかできない。
何かできることがないのか考えてもまるで思いつかず、かといって目を伏せることもできない。
せめて早く車が停まって欲しい。でも停まったところで、自分に何ができる。
どうしたらいいのかわからない。多分何もできない。
浅井はそんな無力感と絶望感に苛まれていた。
車が速度を増す中、大きなライムグリーンのバイクだけが車間を広げ、ライダーが上体を起こしてヘルメットのシールドを上げた。
そして後ろを振り返り左手を横に伸ばして手の平を向け、後続車に速度を落とすように合図した。
停止線まではまだ距離がある。
後続車はクラクションを鳴らして抗議したが、バイクは構わず停止し、左足でスタンドを出してから両足を下ろした。
グローブを脱ぎ、タンクバッグを開けて中からレジ袋やタオル、ティッシュを取り出し、ヘルメットを被ったままバイクから離れ、かつてネコだった肉の塊の前に膝をついた。
後続車はクラクションを鳴らすのを止めた。
ネコにタオルを被せ、そのまま拭うように拾い上げてレジ袋に入れた。
自分の手もティッシュで拭き、それも一緒に別の袋に入れてきつく縛り、立ち上がってバイクに戻る。
相当長身の男だった。
ネコの入った袋をタンクバックに入れて後続車に頭を下げてからバイクに跨りグローブを嵌め、何事もなかったように走り去った。
信号は再び青になっていた。