1
大沢と浅井が酔いつぶれた栗尾の腕を両側から支えてタクシーに乗り込み、自宅まで送り届けてから浅井のアパートに向かった。
思いがけず訪れた幸運に大沢はすっかり浮かれていたのだが、
「あれ?大沢君ってこの前まで南営業所の三島さんとつきあってたわよね?」
という浅井の突っ込みにうろたえた。
入社当初から浅井に憧れていたのは本当だった。
しかし当時20歳だった大沢にとって5年の年齢差はただでさえ大きく、そして浅井とはそれ以上の差を感じていた。
壁がある、というか、バリヤーを張っている。浅井にはそういうイメージがあった。
なんとか、どこかからそのバリヤーを破って、または破れ目から忍び込んで、という気持ちで今日も会社で声を掛けてみた。
それも結局空振りだったのだが。
その気持ちと、休日や空いてる時間を特定の女性と一緒に過ごすことは、大沢にとっては別だった。
「あ、あの、三島とは付き合ってないっていうか、俺断ったんですけど、向こうはそう取らなかったっていうか、いや、やっぱり付き合ってはいなかったです。今はあいつちゃんと男いますし、俺は、」
そこで大沢は絶句した。続ける言葉が見つからない。
大沢にとってこれまで恋愛とはここまで緊張を伴うものではなかった。
自分から告白したことは一度もない。しかし相手に不自由したことも一度もない。
つまり自分から行動したのは今回が初めてで、さっきの小僧の言う通りに小学生のように緊張している。
「そういう意味では、俺は今までちゃんと付き合ったことなんかないんです」
俯いて額を掻きながら、小さな声で言った。
え?と浅井が訊き返したが、大沢は答えず、代わりに質問を返した。
「浅井さんは前に付き合った人はいるんですか?」
浅井はすっと視線を外して目を伏せ、すぐにまた大沢の目に視線を戻し、瞬きもせずに答えた。
「内緒」
大沢の目を射るように見つめたあとに、また浅井は目を伏せた。
内緒。
いない、とクールに即答すると思っていたので、大沢はその反応に戸惑った。
イエスかノーで答えられる質問に対する答えが、内緒。
そんな曖昧な答えを言った浅井の目には、なにか強い意志が見える。
助手席のシートを見ているようで見ていない瞳の奥に見えるのは何だろう。
多分、決意。
決意……?
一歩踏み込んだバリヤーの内部に、まだ何重もバリヤーが囲っている。
結局大沢のイメージをそんなふうに上書きして、浅井がタクシーを降りて行った。
タクシーを降りて大沢に手を振り、浅井は階段を上がってドアの鍵を開けて灯りをつけた。
メガネもコンタクトもないのでぼんやりとしているが、今朝出てきたままのシンプルな2DK。
長年住んでいるので、何歩でドレッサー代わりの棚に辿り着くか知っている。
そこの引き出しを開けて、予備のメガネを取り出した。
これも先輩が選んだあのフレームと同じもの。
先輩を失ったのは10年前。
実家と縁を切り、大学もやめて、先輩と過ごした街で仕事をみつけて、ただ生きてきた。
それで精一杯だったし、死ぬまでそれが精一杯だろうと思っていた。
それなのに天使に出会い、自分を見ていた目を教えられ、そしてそれに心を動かされた。
それを嬉しいと思うことを、先輩に対する裏切りだとは浅井は思わなかった。
毎日健康に生きていることが既に裏切りだと、10年間思い続けてきているから。