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ERに行ってみると、浅井の荷物というものは全く持ち込まれておらず、切られた制服のベストと請求書だけ渡された。
保険証も財布もないし、こんな格好では帰れないし、誰かに会社から持ってきてもらうしかないなぁと思いながらまたエレベーターに向かうと、ちょうど佐々木社長と田村社長が歩いてきた。
「おお、浅井さん。お母さんは帰られたのかね?」
田村社長に訊かれて、浅井は頷いた。
「で、浅井さん、会社は辞めないでもらえるね?」
佐々木社長に訊かれ、あ、忘れてた、と目を泳がせた。
浅井が会社を辞めようと思ったのは、栗尾のいやがらせよりも会社が親と通じていたということが理由だった。
しかし実際10年ぶりに母親に会ってみれば、10年前のショックと恐怖は減っていた。
相変わらず娘を罵ることは止められないようだったが。
あれなら会う前に覚悟が出来ていれば上手くかわすことも出来る。
自分も10年で成長したのだろう。
浅井はそう考えて頷いた。
「そうか……。それはよかった。安心しました。それで、請求書は出してもらいましたか?」
「あ、はい、でも私保険証を持ってきてなくて支払いをしてないんです。後で誰かに、」
「いや、これは傷害事件ですからね。保険なんか使っちゃいけない。私が実費で支払います」
佐々木社長が手を差し出した。
「そうなんですか」
浅井がその手に請求書を渡した。
「しかし何ていうかな。大沢も浅井さんも、どうも変だな。浅井さんのお母さんもな。達観してるというのか……。傷害事件って気がしない」
田村社長に指摘された。
「本当に申し訳ない。ここに来るまでどうしたら許してもらえるもんかと胃が痛くなる思いだったのに、本当に……こういうのもアレだけど、気が抜けたというかな」
「だろ?お前は加藤に殴られろ」
「それは関係ないだろ」
そうかもな、と浅井も思う。
それは、先輩のおかげだ。
「これから県警に行って姪に会って来ますが、浅井さん、やはり姪には厳罰を望まれると思いますし私もそれで良いと考えているんですが、」
「いえ、あの、大沢君がどうかはわかりませんけど、大沢君の方が怪我が重いですから私とは違うと思いますけど、私はもうこのことは、正直栗尾さんのことは忘れたいだけです。罰なんかは考えてません」
「そうですか……。重ね重ね申し訳ない」
佐々木社長の言葉の後、田村社長が続けた。
「大沢も不思議と、落ち着いたな。刺されて血の気が抜けたのかね?」
「ブラックだって言ってるだろ。田村」
「どうなんだ?浅井さんの影響か?」
浅井は首を振った。
先輩のおかげです。
「まぁ、浅井さん、大沢とは昨日今日の付き合いだとか言ってたけど、あいつはいい奴だから大丈夫だぞ。仕事見ればわかるもんだ。俺が保証するよ」
田村社長が太鼓判を押す。
「もし何かあったら俺の携帯に一本入れてくれれば、自動的に殴るから便利だし」
浅井が笑う。
「大沢だったら安心だ。ああ、加藤にはどっちみち殴られるかもな」
「俺は勘弁してもらえるよな?」
「まとめて二発だよ。たいしたことじゃない。なぁ、浅井さん」
「いえ、どっちも許してもらえればと思いますが……」
「優しいなぁ、浅井さん。加藤にも一応そう伝えておくわ」
社長二人が手を振って去っていった。
きっと、創業社長三人とも、浅井の事故のことを知っていて入社させてくれた。
そして今まで一言も口にせずに見守ってくれていた。
自分一人で生きてきたなんて、おこがましい。
私はたくさんの人に見守られて助けてもらって生きてきたんだ。
浅井は二人の社長の後姿に、深々と礼をした。