白い天井
白い天井が不思議だと思った。
自分の部屋じゃない。
天井から下がったベージュのカーテンに囲まれている。
ぐるりと見回すと、ベッドの横に母親がいた。
そんなはずはない。大学進学で故郷を離れて半年が過ぎている。
これは、夢だ。浅井はそう思った。
「あら!起きたの!看護婦さん呼ばなきゃ!」
枕元に垂れているブザーを押すことにも気付かず母はザッとカーテンを開いて廊下に走り去った。
病院なのだと浅井はやっと気付いた。
だけどどうしてこんなところに、と長い髪の毛をかきあげようとして、頭の包帯に気付いた。
包帯?頭に?何?これ?
浅井が逡巡している間に若い女性看護師が飛び込んできた。
「あら!よかった!浅井さん!あなたは外傷も少ないから意識だけが心配だったの!良かったわ!」
わからない。わからない。浅井は頭を振った。
「うん、そうね、彼氏は残念だったけどね、あなたは彼に助けられたんだからね、頑張っていかないと!」
待って。
何この夢?なんでこんな夢みてるの?
「ああ、だめよ。あなた頭打ったんだからあまり動かさない!」
看護師に両手で頭をつかまれた。
「今先生来るから、今の状態教えてね。頭痛いとかはないのよね?」
つかまれた頭で頷いた。
医師が現れ、名前は何だとか今日は何日だとかここはどこだとか、バカみたいな質問をされてバカみたいに答えた。
バカみたいな夢だ。きっとそれが表情に出たのだろう。
「バカな質問だと思ってるんだね。じゃあ大丈夫だ。よかったよかった。あれだけの事故で奇跡だよ」
医師は浅井の膝あたりの布団をポンポンと叩いて、看護師と共に出て行った。母もその後を追って出て行った。
あれだけの事故
彼氏は残念だったけどね
いくら夢でもひどすぎる。
どうして私がこんな夢を見るの?
ああ、きっと先輩が買ったばかりの車がスポーツタイプだから心配なんだきっと。
そう思っているくせに、浅井はベッドを降りて椅子の脇に置いてあった汚れた自分のスニーカーを履いて、病室を出た。
どうせ夢なんだから。そう思っているくせに、鼓動が速まる。
エレベーターで1階に降り、施設全体の案内図を見つけた。そして、それを地下に見つけた。
いないことを確認するんだ。
いたってどうせ夢なんだ。
混乱する頭で地下に降り、その場所を見つけて小走りになる。
どうせ夢なんだ。
一つずつドアを開ける。
知らない人が顔を向ける。礼をして閉める。それを繰り返す。
ほら。バカみたいだ。全部この繰り返しだ。
そう思ってまたそっと開いた扉の向こうに、
先輩のお母さんがいた。
お父さんがいた。
弟がいた。
先輩のお母さんが立ち上がり、おおおお、と喉の奥から溢れた声を両手で押さえ、また椅子に座り込んだ。
お父さんはおじぎをした。
先輩によく似た弟は、そのまぶたを真っ赤に腫らして、また白い布を被せられた顔をじっと見下ろした。
お父さんはおじぎをしてから、口を開いた。
意識が戻られたんですね。命に別状はないとお聞きしてましたが、大けがをさせてしまって本当に申し訳ありませんでした。さっきお見舞いに行った時には面会できなくて、お体は大丈夫ですか。龍は、申し訳ないけどお見せできる顔じゃないから布は取れないんですけど、もしかしたらここでお別れかと思いますのでね、
お父さんがそんなことを穏やかに語っている。
どうしてここまで具体的な夢なんだろう。
近寄ってみた。
布は取れないって言ってたけど、取らなくても頭中包帯でぐるぐる巻き。きっと顔も包帯でぐるぐる巻き。
先輩、車の運転気をつけないとこんなことになっちゃうんだから。
ああ、警告の夢なんだ、きっと。
耳だけが見えていた。
少しだけ傷がついた耳。
この耳は、先輩の耳だ。
私はよく知っている。
何度も何度もつまんだり囁いたり口をつけたりした。
先輩の耳の形だ。
先輩。
これは、この人は、先輩。
やっと浅井は、確認した。
白いシーツで覆われた大柄な体。
これは確かに、先輩の体。
先輩の体が、霊安室で線香の香りに包まれていた。
その後の記憶がない。
また病室で目が覚めた。
まだ夢だと思っていた。
夢じゃないのだと気付くまで、三日かかった。
夢ではないのだと、先輩が死んだのだとわかった時には、浅井は声を失った。
それも惜しくはなかった。
先輩を失ったのなら、惜しいものなんか何もなかった。
自分の命もいらなかった。
何もいらなかった。
全ていらなかった。